白馬は、マンションの通路をゆっくりと歩いていた。
12階の高さから見える都会の家並みは、すでに夜の闇に包まれて、明かりを灯している。
その小さな灯火に目を細めながら、白馬はいくつかのドアの前を通過した。
通路の先、一番奥にあるドアが白馬の借りている部屋だった。
ドアを開けると同時に反応する照明は、彼が朝出てきた時と何一つ変わらない玄関を浮かび上がらせる。
その様子に、白馬は深々と溜息をつくと、のろのろと靴を脱ぎ始めた。
快斗はあれっきり、白馬の前から消えてしまった。
そのまま学校にも姿を見せず、なんと終業式まで欠席で、彼の通知表や必要なプリント等は
幼馴染の青子が大事に預って、実家の母親に届けたようであるが。
他に誰もいないリビングのソファに白馬は一人腰掛けると、もう一度大きく溜息をついた。
・・・ああ、また何もできないまま一日が終わってしまう。
そう思うと、白馬はがっくりと背中から力が抜けるような気がした。
キッドがイギリス大使館へ予告状を出したという事実を知ってからというもの、白馬はもっと詳しい情報を
かき集めるために、連日走り回っていた。
だが、相手は大使館。
警視庁ですらその実情が掴めていない有様なのに、白馬の欲しい有力な情報など
簡単に手に入るわけがない。
すでに厳戒体制の敷かれている大使館へは、親のコネを使っても取り入る隙も無く、
門前払いされてしまうザマ。このままでは、当日、現場へ行くことすらままならない。
要するに、白馬は手詰まりであった。
重い気分でカレンダーを見上げる。ペンでチェックがついている3月30日は、もう明日に迫っていた。
・・・・・・今頃、黒羽君はどこで何をしているんだろう?
白馬は、あの日、最後に見た凍るように冷たく、射るような強い快斗の眼差しを思い出していた。
・・・・・・彼を怒らせてしまった。
不可侵の領域に足を踏み入れたのは僕だ。怒りを買うのも無理は無い。
・・・・でも。
命の危険さえある場所に君を平気で送り出すなんて、僕にはどうしてもできない。
・・・・・たとえ、君に嫌われたとしても。
快斗はもうマンションへは二度と戻ってこないかもしれない。白馬はそう思った。
彼が何よりも『キッド』を優先させている事は知っている。
また、そうしなければならない深い事情があるのだろうということも。
快斗が『キッド』を演じていく上で、自分が足枷になるようなら、きっといつでも彼は自分を切り捨てていく。
薄情とかそういうのではなく。
きっと快斗なら、迷わずそうするに違いない。いつだって、白馬はそう感じていた。
ふと、上着のポケットにある携帯を取り出す。
ワンタッチで、液晶画面に表示されるナンバー。それは快斗のもの。
短縮ダイヤルに登録されてあるソレには、白馬は一度だって電話をかけたことはなかった。
同棲を始めてまもなく、携帯の番号を交換しようと言ってきたのは快斗の方。
秘密主義な快斗がその番号を明かしてくれたのがうれしくて、白馬はいつでもすぐに電話できるよう
設定してある。
けれども、実際にそれは活用される事が無く、ただお守りのように白馬の携帯に眠っているだけ。
快斗もそれをわかっていて教えてくれたのかもしれない。
どうせ、白馬が電話をかけることなどできないということくらい、とっくにお見通しだったのだろう。
いくら快斗のことが気がかりでも、その行動をいちいち詮索するような真似はできないし、したくはない。
自分が立ち入ってはいけない領域くらい、白馬の方だってきちんとわきまえているつもりである。
もちろん本心を言えば、いつだってその領域に踏み込んでいきたいのではあるが。
それはきちんと快斗の了解を得てから後の話で。
だから、白馬からは電話をしたくても、することはできないのだ。
そして、たとえ万一電話できたとしても、快斗が出てくれるなんて思えない。
なぜなら、その時、彼は『快斗』ではなく、『キッド』なのだから。
《 お前からの電話なら、出たぜ? 》
前に、聞いた快斗の言葉に胸がざわめく。
・・・・そんなの、口から出たでまかせに決まってる。
こないだ、あんな風にケンカ別れのような形になってしまったままだし、何より仕事の前日である。
・・・・絶対に出てくれるわけ無い。
・・・・でも!!!
高ぶる気持ちを止められず、白馬は意を決して快斗に電話をかけてみた。
耳元で、電子的なコール音が響く。
電源が切られていなかったことにほっとして、白馬は耳に神経を集中させた。
コールが5回、6回・・・と続いていく。
やはり快斗に出る気配はなかった。
やがて、いい加減に呼び出し音から留守電に切り替わるのではと、白馬が諦めかけた頃
不意に、電話がつながった。
「・・・・っ!」
まさかの出来事に、白馬は息を呑んでしまう。
『・・・・・。』
一方、出てくれたものの、応答の返事はなく無言だ。
でもそれだけに、出てくれたのが間違いなく快斗であると、白馬は確信を持った。
「・・・・・。」
『・・・・・。』
息が詰まるような沈黙が続く。
言いたい事ならたくさんあったはずなのに、上手く言葉を紡げなくて。
白馬はどうにか、
「・・・黒羽君・・・?」
と、名前だけ呼んだ。
『・・・・・・・何?』
ようやくにして、少し不機嫌そうな快斗の声が戻ってくる。
それでも久しぶりに聞くことの出来たその声に、白馬は安堵し、同時に喜びを感じた。
「・・・あ、あの。元気なんですか?・・・・その・・・、不規則な生活を送っているんではないかと思って。
ちゃんとご飯とか食べてますか?・・・・」
白馬の問いに、一拍の沈黙の後、快斗が返答する。
『・・・・・・別に、お前が心配するようなことは何もない。』
口調は穏やかでも、そこに見えるのはきっぱりとした拒絶。
やはり自分が立ち入る隙はどこにもないのだと、白馬は再認識する以外なかった。
何と言葉をかけていいのか、白馬はまた沈黙してしまう。
これ以上余計な事を言って、今、ここで快斗に電話を切られてしまうのは避けたかった。
何も言う事はできなくても、この受話器の向こう側に間違いなく快斗がいるという事実。
このままで構わないから、少しでも長く彼と繋がっていたいと、白馬は思った。
そのまま、どちらから声をかけるともなく、しばしの沈黙が続く。
用が無いなら切るぞと、快斗に言われるのも、時間の問題だと白馬が思い始めた時だった。
『・・・・・・白馬。』
不意に快斗が沈黙を破った。
「・・あっ、はい!何ですか?!」
何か言いたげな快斗の様子に、白馬は一言たりとも聞き逃さないようにと、さらに集中する。
けれども、快斗はすぐには言葉を続けない。どうしたのかと、白馬は聞き返す。
「・・・黒羽君?」
白馬は辛抱強く快斗の次の言葉を待った。
そして。
『・・・・・・お前、明日は来るな。』
それだけ言って、電話は切られた。
□ □ □
用が無くなった携帯電話を折りたたんで、快斗がそれをデスクの上にぞんざいに置いた時、
背後でドアをノックする音がした。
ここは、とあるマンションの一室。
都内に数箇所ある、いわば『怪盗キッド』のアジトである。
ドアが開いて現れたのは、ダーク・グレーのスーツに身を包んだ老紳士。寺井であった。
手には差し入れのつもりか、紙袋を一つ持っている。
「・・・今、よろしいですか?」
柔らかい笑顔を浮かべて部屋に入ってきた寺井に、快斗は振向いてこちらも笑顔を送った。
先程、白馬と電話していた表情とはまるで違う、明らかに作られた笑顔であるが。
寺井はそのまま持っていた紙袋を快斗に差し出す。
「サンドイッチを買ってきました。どうせお食事をされてらっしゃらないんでしょう?
今、お茶の用意もいたしますから。」
「悪いね、寺井ちゃん。」
軽くウインク一つしながら、快斗は紙袋からサインドイッチの入った白い箱を取り出し
早速、その一つを口に入れた。どうやら実は空腹だったらしい。
その様子を苦笑しながら見届けると、寺井はいったんキッチンの方へ姿を消した。
快斗はサンドイッチの箱を持ったまま、どっかりとソファに座りなおす。
と、同時に寺井の持ってきた紙袋の中から、クリアファイルに入っているペーパーを取り出した。
快斗の目が幾分細められ、その資料に記された活字を追っていると、再び寺井がお茶を入れた
カップをトレイに乗せて現れた。
「大使館側はもうすでに厳戒体制を取っているようですが。明日はまた、特別なものになりそうですね。」
ロースト・ビーフサンドを頬張りながら、快斗がそれにコクンと頷く。
「・・・・・・何しろ、今回は大使の暗殺のうわさが飛び交ってるし。
どっかの良からぬ殺し屋の組織も来日したらしいから、対応策も念入りになるだろうな。
・・・けど、おかげで『キッド』に関しての対策は二の次らしい。案外、楽勝だったりして。」
「・・・本気でそう考えているのですか?」
「いいや。」
あっさりと快斗は前言を撤回した。
「ガードしてる奴らにとっちゃ、キッドだろうが暗殺犯だろうが同じ事だ。容赦はしないだろう。」
「・・・まったく、ここは日本なのに。物騒な話ですね。」
寺井はその白い眉を寄せる。
「ま、とりあえずは、大使を暗殺の魔の手から守り抜く事が、彼らの与えられた任務だからね。
相手が殺し屋ともなれば、なまぬるい事ばかり言ってられない。仕方が無いさ。
・・・・にしても、暗殺を企てられるなんて、大使もとんだ災難だよなぁ。」
まるで他人事のように快斗が言うので、寺井は目を細めて聞き返す。
「・・・・・殺し屋に狙われているのは、大使だけだと思っているのですか?」
「いいや。」
これも即座に答えた。この少年の人を喰った恐ろしいところだと、寺井は苦笑する。
差し入れのサンドイッチを一つ残らず美味しそうに平らげると、快斗は最後にお茶で喉を潤す。
グイっと飲み終えると、もとあったトレイの上にカップを乗せた。
カラになったサンドイッチの箱をきれいに折りたたみながら、寺井が静かな声で言う。
「・・・本当でしたら、私としては今回の一件、お止めしたかったんですが・・・。」
ニヤリと笑って、快斗は寺井を見た。
「またずいぶんと気弱だね。」
「これだけ悪条件が揃えば、気弱にもなります。坊ちゃまは強気で?」
快斗はそれには答えず、ただ曖昧に笑って見せただけだった。
ゆっくりとソファから立ち上がると、快斗は窓辺に佇む。
窓の外に浮かぶ月を振り仰ぎ、目を細めるとこう言った。
「できれば、最小の労働で最大の成果を発揮したいね。」
□ □ □
3月30日 快晴。
先週は幾分冬が舞い戻ったような寒い日が続いたが、今日は暖かい。
日中は5月下旬並みの気温にまで上昇すると天気予報は告げていた。
その汗ばむ気候の中、モスグリーンのスーツ姿の若者が黒塗りの車から下り立った。
白馬だ。
彼が今、立っているその場所は大使館入り口である。
厳重な警備体制が敷かれているそこに、彼は毅然として立っていた。
すると、その通用門が開き、中から数人の男達が白馬を出迎える。
二,三言、言葉を交わすと男達は白馬を招きいれた。そうして門はまた何者の侵入も許さないかのように
硬く閉ざされた。
昨日まで門前払いされていた大使館に、何故今日になって白馬が入ることができたのか。
実は、ここへ来て白馬の努力が報われたのである。
連日、大使館へ押しかけていた白馬のことを偶然、ちょうど帰国した大使が耳にし、
話だけなら聞いてやると言ってくれたのだった。
ただ、普通の人間ならそうはいかない。相手が白馬だったからという、この一言に尽きる。
それというのも、白馬は大使と面識があったことに由来する。
ロンドン在住時に、とあるパーティの席で白馬は大使と話をする機会があったのだ。
ただ挨拶を交わしただけなら、大した間柄ではないだろうものの、この2人の関係は少し違っていた。
実に意気投合してしまったのである。ある趣味の話で。
なんと大使はホームズ・フリークだったのだ。学生ながらホームズに憧れ探偵をしている白馬の姿は
大使にとって、とても好感の持てる少年に映り、記憶にありありと残っていたのである。
まったく、今日ほど白馬がホームズに感謝した日はなかったことだろう。
とにかくそういったわけで、どうにか白馬は大使館へ入ることを許可され、なんと大使との面会まで
こぎつけることができたのであった。
ここまで来たからには、何があっても夜まで居座る決死の覚悟で、白馬はこの場に臨んでいた。
快斗が『キッド』として、今夜の仕事を譲れないように、白馬もまた決してこれだけは譲れなかった。
・・・黒羽君を止める事が出来ないなら、せめて彼を取り巻く危険な要因の一つでも取り除きたい!!
白馬は青空に浮かぶまだ白い月に向かって、そう思ったのだった。
□ □ □
闇が街を覆った。
月が出ている。美しい晩であった。
漆黒の空には雲一つない。
その透き通った闇の中に、真っ白い翼がまるで美しい絵画のように現れた。
高層ビル街を周遊する白い鳥は、やがてそのうちの一つに羽根を休めて舞い降りる。
晧々と輝く月を背に、純白の衣装を翻す姿はまさに『月下の魔術師』というに相応しい。
怪盗キッドである。
光と影が交錯するそのビルの頂上で、穏やかに佇む白い怪盗。
どこか神々しくさえ見える光景だった。
閉じられていたキッドの両瞼がゆっくりと開いていく。
彼のその黒曜の瞳に映っているのは、喧騒たる警備体制のイギリス大使館。
夜空を照らすサーチライトの幾つかが、キッドの右目のモノクルに反射した。
「・・・さて。ショーの始まりだ!」
屈託無く笑いをこぼすと、キッドは再び夜空へと舞い上がった。
キッドの犯行予告時間まで、あと9分36秒。
大使館内の夕食会パーティの席上にいた白馬は、手元の時計で時刻を確認した。
本来であればここで、大使の持つダイヤのお披露目や、他にもパーティを彩る余興を行う予定であった
そうなのだが、大使暗殺の噂と今夜キッドが現れるというトラブルが重なったため、パーティはいたって
シンプルなものとなった。
パーティ会場のいたる所には銃を持ったSPの姿。
日中、白馬は大使との面会を果たしたものの、結局、大使館側のキッドへの発砲を止めるまでには
いたらなかった。無謀な申出であることは白馬も百も承知ではあったが。
それでも、そうせずにはいられなかったのだ。
「・・・キッド。」
白馬は緊張を隠せない面持ちで、窓の外に浮かぶ月を見上げた。
そんな白馬の傍へ、たくさんの護衛を引き連れて大使がやってきた。
「Mr.Hakuba. It is a
special party. Enjoy it at all.」
《白馬君、パーティだよ。少しでも楽しんでくれたまえ。》
笑顔でそう言われ、白馬は深くお辞儀をしながら挨拶をした。
「It is more little
until the notice time. Where is your diamond now ?」
《予告時間まであと僅かですね。 ダイヤは今どこに?》
白馬の問いに大使はにっこり笑って、自分の胸元を指す。
「My diamond is all
right because I have it. Because I have them protect me
according to look.」
《ダイヤは私が持っているので大丈夫。 ご覧の通り、彼らに守ってもらっているからね》
自身たっぷりにそう笑う大使に、白馬は黙って頷いた。それを見て満足そうに大使は続ける。
「The guard of the
embassy is prudent. No killer will be able to be to
meddling.」
《大使館の警備は万全だ。どんな殺し屋も手出しは出来ないだろう。》
その大使の言葉に、白馬の瞳が僅かに揺れた。
それを見て取った大使が穏やかに微笑む。
「Are you worried
about Kid the Phantom thief ?」
《怪盗キッドのことが気がかりなのだね?》
図星を指されて白馬は苦笑した。すると、大使は白馬を安心させるようにうんうんと頷いて見せる。
「As much as possible
,it is ordered to catch him without a wound. However,it
cant be assured.」
《できる限り、彼を無傷で捕らえるようには言付けてある。 だが、保証はできないがね。》
「It know it.It lets
me say selfishness this time, and really appreciates it.」
《わかっています。今回はわがままを言わせていただいて、本当に感謝しているんです。》
白馬はもう一度深々と頭を下げた。
と、その時だった。
ガシャン!という音ともに、パーティ会場の明かりが一気に落ちた。訪れた突然の暗闇に、会場はパニックになる。
「What is it ?!」
《な、何だ!?どうした?!》
大使の周りのガードにも緊張が走った。
「・・・いや、これはキッドじゃない。キッドの予告時間まではまだ・・・・!!」
暗闇の中、白馬が時計を見てそう言うが、その言葉はパーティ会場に巻き起こるパニックの声に
かき消された。
「Anyway an ambassador
is early, here !!!」
《と、とにかく大使!!早くこちらへ!!!》
護衛達に庇われるようにして、大使が会場から出て行く。
それを目で追っていた白馬が続いて出て行こうとしたその時、今度は真っ暗な会場を照らさんばかりの、
まぶしい光が外から差し込んだ。
「・・・こっ、これは・・・!!」
・・・閃光弾?!いや、花火か?!・・・ということは、今度こそキッド!!!
白馬は目も眩む光の中で、そう確信した。
白馬がそう思って間もなく、上空にキッドのグライダーが現れたとの報告が入り、警備員達の動きが
慌しくなる。
白馬はまるで真昼のように明るく照らし出されている外を見、ぎゅっと唇をかみ締めると、
大使の後を追った。
その頃。
護衛の者に守られてパーティ会場を脱出した大使は、安全な場所へとその身を移そうとしていた。
「t is this.
Ambassador.This is safe! Until noise is suppressed,
here ・・・. 」
《こちらです、大使。ここなら安全です!!騒ぎが治まるまではここに・・・。》
護衛の一人がそう言って、大使を別の部屋に通そうと扉を開ける。
と、そこに待ち構えているはずの他の警備員の姿がない。
不思議に思って踏み込んだ彼らの目に映ったのは、警備員らが血を流して床に倒れている姿だった。
「What is it ?!」
《こっ、これは一体!?》
とっさに身構えた護衛達の目の前に、部屋の隅からすっと黒い影が現れたかと思うと、
一気に大使に向けて銃を連射した。
大使の周りにいたはずの多くの護衛達が悲鳴を上げて、次々と倒れていく。
あっという間に大使一人を残すまでとなった。その間、ほんの数秒と言っていいだろう。
暗殺者が不気味に笑い、その銃口が自分へ向くのを、大使は信じられない気持ちでただ呆然と
見つめているしかなかった。
「It is over in this」
《これで、おしまいだ。》
暗殺者がそう呟いた瞬間だった。
ガシャンと窓ガラスが派手に割れる音が響き、小さな缶のようなものが部屋に転がる。
と、そこからいきなりものすごい勢いで白い煙が噴出し始めた。
大使の姿も暗殺者の姿も立ち上る白い煙に包まれて、あっという間に見えなくなっていく。
突然起きたその出来事に、大使は目を見開いた。だが、視界は真っ白な煙に奪われ、逃げ出すにも
どっちへ向かってよいのかすらわからない。
思わず、後ずさりしかけた彼の腕を、何者かがぐいっと引っ張った。
暗殺者かと、大使の顔が恐怖に引きつる。
が、煙をかき分けて出てきたのは、先程彼の前に立ちはだかった不気味な男ではなかった。
「Who are you?!」
《き、君は・・・?!》
「 Is it
safe?Ambassador. 」
《ご無事ですか?大使殿。》
シルクハットを目深に被ったままの白い怪盗は、唇の端を持ち上げてそう不敵に笑った。
「・・・KID?!」
大使の目がそう見開いた時、空気を引き裂くサイレイサーの音が耳をついた。
「It falls down!」
《下がって!》
キッドが大使を庇う。部屋を包んでいた白い霧は徐々に晴れつつあった。
霧の向こうに黒い影がはっきりと浮かび上がる。
「I kill you together,
too!!」
《貴様も一緒に殺してやるっっ!!!》
怒声とともに、銃弾が炸裂する。キッドは床を蹴って、ヒラリと宙を舞い、軽やかにかわしながら
その暗殺者へと間合いを詰めていく。
そして、一際高く舞い上がり、フワリと暗殺者の目の前に降りると、銃を持つ彼の左手を捻りあげた。
暗殺者の顔が苦痛に歪む。
が、すぐに不気味な笑みを取り戻すと、捻りあげられていないほうの右手からも銃を取り出し、
至近距離のキッドに向けて撃った。
避けきれずに、銃弾がキッドの右腕を掠めていく。
白いスーツにすっと赤い染みが広がった。
暗殺者がにやりと笑った。
だが、キッドは顔色一つ変えずに、いや、むしろ不敵な笑みさえ浮かべて自分を撃った男を見返した。
と、素早い動作で胸元からトランプ銃を取り出し、彼の右手に向けてソレを発射する。
悲鳴を上げてひるんだところを一気に殴り飛ばし、間髪入れずに蹴り倒した。
あっという間のK・Oである。
大使はポカンと口を開けたまま、その様子を見ていたが、キッドが振向いて笑顔を向けたとたんに
我を取り戻した。
大使がキッドに何か言葉をかけようとした瞬間、彼の背後に大勢の警備員達が駆けつけてきた。
「 Is it
safe?Ambassador. 」
《大使!!大丈夫ですか?!》
と、同時に室内にいるキッドへも目が行く。
「Who are you?!」
《何者だ!?》
いっせいにキッドに向けて銃が構えられた。
「Stop!」
《よせ!》
大使の制止の言葉を聞いて、警備員達は愕然とする。
「 You must not shoot
it.As for him ・・・・! He is the benefactor of my
life! 」
《撃ってはならん!!彼は・・・・!!私の命の恩人なのだ!》
「But・・・・!」
《しかし・・・》
「It is no good if it
is said that it is no good. Put away a weapon.!!」
《いかんと言ったら、いかん!武器をしまいたまえ!!》
大使の命令に、警備員達は仕方なく銃口を下げた。それを見てキッドがにっこりと微笑む。
「 Thank you for a
feeling.However, there is no anxiety.Because it has
already had thanks. 」
《お気持ちありがとうございます。ですが、ご心配なく。お代はすでにいただいておりますので。》
そう言うと、キッドは長い指の間に、大使が持っていたはずのダイヤをちらつかせた。
その光景に大使を含め、その場にいた全員の目が驚きに輝く。
「・・・Then・・・」
《・・・では・・・。》
キッドは背を向けた。優雅な動きで彼が窓辺に差し掛かった時、背後で聞きなれた声が響いた。
「キッド!!!」
白馬だった。
キッドは肩越しにチラリとその姿を確認すると、すっと僅かに目を細める。
が、キッドが白馬に目をやったのはほんの一瞬のことで、すぐさま窓から飛び降りると、
もうその姿はどこにもなかった。
□ □ □
白い怪盗は、フワリと闇の中へ身を躍らせた。
右腕からは鮮血が噴いている。掠めただけとはいえ、至近距離から食らったのだから仕方が無い。
「おー、イテ。」
と、キッドは言った。それだけだ。あとは大して気にした風でもなく、のんびりとしている。
眼下に拡がる大使館の光景からは、暗殺者を確保できた事からか、その緊迫感のようなものは
消えたように感じられた。
が、サーチライトが目まぐるしく夜空を照らしているところを見ると、キッドを追う事は諦めていないらしい。
キッドはクスリと笑った。
とうに去ったように見せかけて、実はまだ大使館の建物の上にいるのだ。
「・・・さて。」
キッドは頭上に浮かぶ月を仰いだ。
胸元から、先程奪ったばかりのダイヤを取り出すと、そのままゆっくりと月光に翳した。
煌くダイヤモンドの向こうには、美しい月がそのまま透きとおって見えるだけ。
今夜もまた、『パンドラ』ではなかった。
小さく溜息を漏らすと、さっさとダイヤを胸元にしまいこんだ。
と、その時だった。
「ソイツを渡してもらおう。」
声はキッドのすぐ背後から聞こえた。
まるで天空から降ってきたか、それとも足元からわいて出たのか、とにかく声の主は突然に現れた。
けれども、キットはさして驚きも見せずに悠然と振り返った。
銃を持った黒い影がいくつもいくつも暗闇から湧いて出る。すでにキッドは取り囲まれていた。
キッドは自分に銃を突きつける男達をひととおり見やる。
殺気が漲る鋭い視線が、キッドの視線と交差した。
・・・プロの殺し屋だな。・・・・・ってことは、海外から来日したってのはコイツらか。
やれやれ、と、キッドは小さく溜息をついた。
男が一歩前へ出る。異国の色の瞳がギラリと不気味な色に輝いた。
「・・・その宝石を奪い、お前を殺せば破格の金が手に入る。悪く思うなよ、怪盗キッド。」
「・・・・それはそれは。・・・にしても、遠いところからわざわざ・・・。日本語もお上手だ。」
明らかに緊迫した状況であるはずなのに、キッドの声はどこまでも穏やかであった。
まるっきり落ち着き払ったキッドの様子に、男の眉がつり上がる。
「・・・ふざけたヤツめ!」
「どうも。」
キッドはにっこり笑った。
銃を持つ男達が、じりじりとキッドに迫る。キッドは動かない。
だが、あらゆる攻撃にも即応できる体勢を取っている事は、もちろんである。
目の前の敵に集中しながらも、キッドの頭の中には、先程見かけた白馬の顔が過ぎった。
・・・今、ここで始めるのはヤバイなぁ。・・・白馬に見つかっちまったら・・・。
・・・アイツの事だから、間違いなく飛び込んで来るに決まってる・・・・。
仕方ない。言うだけ言ってみるか。
「・・・・・一つ、ご相談が。」
迫り来る銃口に向けて、キッドが言った。
「何だ?」
「場所を変えませんか?」
飄々たる雰囲気を一向に崩さないキッドに、男はクックッと不気味に笑った。
「・・・死に場所は自分で選びたいか?悪いが、諦めろ。オレ達はそこまでお優しくないんでな。」
「・・・やっぱりね。」
そう上手くはいかないか。
キッドの口元を淡い微笑がかすめた。
その頃。
大使館内はまだ騒然としていた。
大使暗殺を企てた犯人は確保できたものの、ダイヤはキッドに持ち去られてしまったのだ。
警備員達は必死でキッドの行方を追っていた。すでに館内からグライダーで逃亡したという情報が
入ったため、今まさにキッド追走部隊が編制されたところである。
しかし、白馬はその警備員達とは逆流して、大使館内の廊下をひた走っていた。
・・・キッドは、まだここから出てはいない!きっと、まだ大使館内のどこかにいるはずだっっ!!!
白馬はそう信じて、館内の階段を必死で駆け上がって行ったのだった。
□ □ □
ドサリ!と、また一人キッドの足元に黒い影が横たわった。
「クソッッ!!」
男の一人がそううめき、銃を乱射する。だが、キッドには当たらない。
まるで、本物の羽根が生えたようにフワリと宙を舞って、銃弾を軽々避けて見せるのだ。
5人の殺し屋を相手に、キッドはなんとかここまで対等に戦っていた。
残すところ、キッドを挟むように立つ2人の男達だけ。
だが、彼らもプロの意地にかけて、キッド抹殺を諦めてはいない。再び銃口をキッドに向けた。
キッドは、右手に持っていたトランプ銃を左手に持ち替える。
負傷した右腕がそろそろダルくなってきたのだ。銃を使えないほどではないが、やはり本調子とまでは
いかなかった。失血のせいかもしれない。
と、その時、背後で激鉄を下ろす音が響いた。
即座に音に反応し、キッドの足が地を蹴ったところで、前方からも撃ちこまれる。
それらを避けるのに、ややキッドの体勢が崩れた。そんな隙をもちろん男達が見逃すはずがない。
後方の男は、方膝をついて着地したキッドの背中を拳銃を持った腕で殴打し、
前方の男は、よろめいたキッドの鼻先に銃を突きつけて、にやりと笑った。
「・・・手間をかけさせやがって!これで最期だな、キッド!」
だが、キッドの眼に闘志の光はまだ消えていなかった。
男の指が引き金にかかった瞬間、キッドのトランプ銃が火を噴く。
キッドの放ったトランプはまっすぐに銃を持つ男の手に命中し、男は悲鳴とともに銃を落とした。
そこを間髪入れずに、蹴り飛ばす。
「・・・このヤロウ!!」
今度は後方から低い男の声が響く。
前方の敵は倒した。が、後方からの第二の攻撃をよける余裕は、今のキッドにはない。
キッドは銃弾を一発くらいは食らう覚悟はできていた。
そこへ。
「キッド!!!」
声とともに、突然現れた一つの影が、キッドの後ろにいた男を殴り飛ばした。
男は低いうめき声を上げて、あえなく地に伏す。
暗闇から飛び出た影が月光に照らされると、その姿を認めて、キッドの目が見開かれた。
・・・白馬っ?!
「大丈夫ですかっ?!キッド!!」
白馬がキッドのもとへ駆け寄ろうと、足を踏み出す。
「・・・白馬っ・・」
キッドがそう口を開きかけた時だった。
白馬が殴り飛ばした男が、伏せたまま僅かに動いて、銃口を持ち上げたのだ。
次の瞬間、キッドの目の前で白馬の体はよろめき、ひざをついて、そしてそこから崩れるように倒れた。
・・・・はく・・・・
キッドの瞳が大きく見開かれる。
目の前で起きた事を理解するより早く、キッドは無意識にトランプ銃を放ち、すでにもう意識の無い男の
手から銃を吹き飛ばした。
それから、キッドは一気に白馬へ駆け寄り、その倒れ伏した体を抱き起こす。
「・・・白馬っ!!白馬っっ!!」
すると。
「・・・はい!」
と、その当人は何でもないことのようにパチリと目を開け、むくりと起き上がった。
「・・・なっ!!お、お前、撃たれたんじゃ・・・!!」
「あ、はい。でも、大丈夫です。防弾チョッキを着けていたので。さすがにすごい衝撃でしたが。」
言いながら、白馬はジャケットの中をそっとキッドに見せる。そこには確かに銃弾がめり込んだ
防弾チョッキがあった。
呆然として、キッドはそれを見つめたまま。
「・・・どうしました?」
そう言って白馬がキッドの顔を覗き込もうとした時、暖かい温もりが白馬の体を包んだ。
白馬の瞳が驚愕に見開く。
その白馬の首に、キッドの腕がきつくきつく絡まった。
まさかキッドの方から抱きつかれた事など、一度としてなかった白馬は大いに動揺した。
「・・・えっ?!あ、あの・・・キ、キッド・・・?!」
ドキマギしていると、一瞬のうちに白馬は解放される。
白馬は去っていくキッドの腕を、甘い気持ちで名残惜しげに見つめた。
だが、キッドはそんな白馬をギっと睨みつけると、すっとその手を高く振り上げて、
勢い良く白馬の白い頬を叩く。
バチン!!と乾いた音が響いた。
「・・・なっ!何するんですかっっ!!!」
とたんに、甘い気持ちが一掃されて、白馬が悲痛な声を上げる。
「・・・うるさいっ!今日はここに来るなって言ったろ?!」
言いながら、キッドはプイと顔をそらしてしまう。本気で怒っているのか、その顔は少し赤かった。
そんなキッドの様子を見て。
頬に感じる痛みも忘れて、心にうれしい気持ちが後から後から湧いて出るのを止められなかった。
・・・もしかして、いや、もしかしなくても。
・・・僕のことを・・・心配してくれたんですね?
だが、喜びの気持ちと同時に、若干、怒りの気持ちも膨らんでくる。
僕のことを心配してくれる気持ちがあるなら、
どうして、同じように、僕が君のことを心配しているとは思わないんだろうか?
「・・・確かに、君に来るなとは言われましたが。それで大人しく引き下がるような僕ではありません。
君が僕を心配してくれるように、僕だって君が心配なんです。君を放っておくことなんてできない。」
白馬はじっとキッドを見据えて言った。対して、キッドはそっぽを向いたままだ。
それでも、白馬は構わず続けた。
「・・・僕には君を止める事はできない。・・・・君は僕に何も話してはくれないし、話せない事情があるのも
わかっています。しかし、だからといって、僕は君一人を危険な目に合わせるのは嫌なんです。
君がしたいことを好きにするなら、僕だって好きにやらせてもらいます。文句は言わせませんよ?!」
確かに白馬の言うことは正論である。キッドはムッとしながらも、返す言葉がなかった。
そのまましばらく、お互いに一歩も譲らず、といった感じでにらみ合っていたが。
先に視線を逸らしたのは、キッドの方だった。
「・・・・お前だって、オレに何にも言わないくせに。」
ぼそりとキッドが呟く。 が、その言葉ははっきりと白馬の耳に届いた。
「僕は、君に隠し事なんて!!」
そう反論した白馬に、キッドは食ってかかった。
「してるじゃねーか!お前がロンドンに帰る話なんて、オレは聞いてねーぞ!」
瞬間、白馬の顔がハッとする。
「・・・ど、どうしてそれを?!・・・あ、いや、それはですね!まだ・・・いろいろと・・・」
しどろもどろになった白馬に向かって、キッドは、けっ!と吐き捨てるように言った。
「別にお前がどこへ行こうとオレには関係ないことだし?
ま、お前なんかいなくなった方が、はっきり言って、せいせいするかもしれねーけどな!」
そのままキッドは白馬に背を向けてしまう。
白いマントを翻すその姿は、間違いなくあの大怪盗なのだが。その子供っぽい仕草は一体何事か。
そんなキッドの様子に、白馬は目を丸くした。
・・・これは、まるで・・・。 子供がスネているみたいじゃないか?
彼の自分に対する態度は、傍に居て欲しいとそう言っているようにしか思えない。
とたんに白馬は理解した。
自分は、もしかして思っている以上に、彼に必要とされているのかもしれないと。
「・・・あの。」
背中を向けたままのキッドに、白馬はおずおずと声をかけた。キッドは返事をしない。
「・・・あの、僕はロンドンには行きませんよ?」
ややあって、キッドは振向いた。
「・・・え?」
「・・・ですから。ロンドンへは行きません。・・・君を残してどこへも行ったりはしませんよ。」
白馬は優しく言い聞かせるように、にっこりと笑った。
そんな白馬の顔をきょとんとした顔でキッドが見返す。が、次の瞬間、ふいと横を向いた。
「・・・何だ。行かないのか・・・。」
明らかに残念そうな声色を作って。でも、それが照れ隠しのものだということが白馬にはわかる。
だから、もう一度言った。彼を安心させるように。
「・・・・君を本当に捕まえるまで、僕はどこへも行きません。」
すると、キッドはいつもの不敵な笑みを浮かべた。
「・・・バーカ。お前なんて、一生かけてもオレを捕まえられるわけねーだろ?」
「・・・だったら、一生君の傍を離れるわけにはいきませんね。」
白馬もうれしそうに微笑む。
キッドはクスリと口元に笑いを浮かべると、踊るように優雅に一歩前へ出て、白馬の腕を軽く引き寄せた。
青白い月明かりの下、二つの影がほんの一瞬だけ一つに重なった。
ふと、キッドが白馬から遠ざかる。
「・・・今夜はこれで失礼致します。宝石は貴方の手から、大使にお返しください。
・・・では・・・。あまり無茶はされるものではないですよ?白馬探偵。」
唇を持ち上げてそうニヤリと笑った顔は、紛れも無くあの不敵な大怪盗のものだった。
キッドはそれだけ言うと、そのまま闇に溶け込むように消えてしまった。
白馬の上着のポケットにダイヤを残して。
□ □ □
白馬が帰宅の途についたのは、日付もとうに変わった頃だった。
あれからダイヤを大使に返却し、そのまままっすぐ帰宅しようと思ったところを大使館の外で
待機していた捜査2課の連中に捕まって、そのまま警視庁へと連行されていたのである。
警視庁では、中森警部を含むお偉方と、警視総監である彼の父が大層ご立腹で待ち構えていた。
まぁ、白馬にしてみれば、ある程度予想のついた結果なのであるが。
というわけで、たっぷりとお説教をされて、たった今解放されたばかり。
勝手な行動は以後慎むようにと、厳重な注意を受けて、もちろんそれに歯向かう事など無く
白馬は優等生的な返事をきちんと返してはいたものの。
それがその場だけのものであったことは言うまでも無い。
キッドの事に関しては、大人しくしているつもりなど毛頭ないのだから。
ある意味、彼もそうとうしたたかである。
瞬く星空を見上げて、白馬は闇に消えた怪盗のことを思った。
「・・・あのあと、彼は無事に帰ることはできただろうか?」
マンションの部屋へと続く通路を静かに歩きながら、白馬はポケットからキーを出した。
ドアを開けると、久々に見かけた快斗のスニーカーが白馬の目に飛び込んできた。
・・・黒羽君っっ!!
白馬は慌てて自分の靴を脱ぎ捨てた。
リビングを通過して、まっすぐおそらく快斗がいるだろう寝室へと向かう。
ドアを開けると。
ベットに転がっている、愛しい者の姿があった。
・・・黒羽君・・・。 帰ってきてくれたんですね・・・。
白馬は羽毛布団に包まっている快斗を見て、安心したように微笑んだ。
ゆっくりと足音を忍ばせて、白馬が快斗に近寄る。
覗きこんだ寝顔はあどけない少年のものだった。
「・・・黒羽君。」
白馬がその髪を優しく撫でる。と、快斗の瞳がゆっくりと開いた。
黒曜の瞳が白馬の姿をすぐさま捕らえる。
「・・・・お帰りなさい。黒羽君。」
白馬は優しくそう言った。
快斗は何も言わずに、白馬を見上げたまま。やがて、ぼそりと呟いた。
「・・・お前こそ、ずいぶん遅かったな。」
「・・・ええ。実は、警視庁の方でたっぷりとお叱りの言葉をいただいていたので。」
白馬が言いながら苦笑する。快斗も、納得したように頷いた。
「それより、黒羽君!君、怪我をしていたでしょう?手当ては・・・」
言いかけた白馬の唇を、快斗は人差し指を添えて止める。
「ちゃんとやったって。もともとかすり傷なんだからさ、大した事はない。」
「ですが、銃の傷は甘く見てはいけません。
朝になったら、僕の知り合いの医者にでも診てもらった方が・・・。」
「・・・大丈夫だよ、心配すんな!」
溜息をつきながら快斗が言うが、白馬はまだ幾分納得ができないまま、快斗を心配そうに見つめた。
「・・・とにかく。・・・・君が無事でよかった。」
白馬は心の底からそう言った。
快斗はそれに応えるように黙って白馬を見つめていたが、よっこらしょともう一度布団を被り直す。
「・・・別にこんなケガ、昼まで寝りゃ、治るって。」
言いながら、快斗は瞳を閉じる。が、すぐさまその両瞼が開いた。
瞼の内側から現れた瞳はどこかしら、悪戯めいた光を帯びている。
「・・・そういや、ここのところまともなもん、食って無くてさ。久々に誰かの手料理とか、食べたいかも。」
それは、明らかに白馬に食事の支度をしろと言っているに違いないのだが。
どうしてこうヒネた言い方しかできないのだろう?
白馬は苦笑しながら、彼の申出に了解したと頷いて見せた。
白馬の方も、さすがに緊張感から解き放たれて、小さな欠伸を漏らす。
「・・・さて。では、僕もシャワーを浴びてから、寝るとしますか。
あ、黒羽君、先に寝てて構わないですけど、僕の分のスペース、ベットを開けておいてくださいね?」
大きなベットをまさに自分一人で、占領している快斗に向かって、白馬が言う。
快斗は相変わらずベットの真中に寝転がりながら、ウインクした。
「覚えてたらな♪」
調子のいい快斗の返事に、白馬も笑顔で返す。
「僕は、別に君の上に重なって寝ても、構わないんですけどね。」
すると、快斗はぎょっとして肩を竦める。
「・・・・・・勘弁してくれ。」
白馬は満足そうに笑うと、快斗の額に唇を落としてから、寝室を後にした。
バスルームへ向かいながら、白馬はふと窓辺に目をやった。
マンションの庭木の桜が満開である。
そうだ。
もし、お昼頃起きて、黒羽君の具合が悪くなかったら、お弁当を持って近くの公園にでもお花見に
行くのもいいかもしれませんね。
白馬は、早々にお弁当のおかずは何にしようかと考えながら、幸せそうに微笑んだのであった。
■ The End ■