ホテル屋上に、まだ警察のヘリが到着した気配はなかった。
新一は重い足を必死に動かして、非常階段を下りていく。
まさに命がけの鬼ごっこである。捕まれば、ジ・エンドだ。
しかし、ただやみくもにホテルの中を逃げ回ることは無駄に体力を消耗するだけで、得策とは言えない。
新一は冷や汗を拭った。
とりあえず、どこかに身を隠して奴らをやり過ごす事ができれば───。
隠れるのに適当なところはないかと、よく回らなくなった頭で考える。
ホテルだけに客室だけは何百とあるだろう。
しかしオートロックのドアは鍵がなければ、どこも開かずの扉で意味はない。
と、そこまで考えて、新一はふと気づく。
そして、おもむろに傷を負っていない右手をジャケットのポケットに突っ込むと、中から1つの部屋のキーを取り出した。
それは、寿かれんの客室のもの。
例の事件の捜査のために、園子から借りたままになっていたのだ。
新一は、手にしたキーを握り締める。
そこへ逃げ込んだからといって、組織の手から逃れられるとは限らない。
もし部屋まで押し入られたら、それこそ逃げ道はないのだ。
ぎりっと新一は唇を噛み締める。
と、ポタリと新一の血が落ちて、床を汚した。
それを見た新一は、噛み締めていた唇を斜め上へ持ち上げるとニヤリと笑った。
「・・・考えてるヒマはないか。このままじゃ、奴らに捕まるのは時間の問題だしな。」
新一は大きく息をつくと非常口のドアを開き、再び客室フロアへと戻って、エレベーターホールを目指した。
幸いすぐエレベーターに乗り込むことができた新一は、迷わずかれんの部屋のあったフロアへ向かう。
願わくば、動き出したエレベーターに組織の連中が気づかないことを。
だが、それは叶わない。
やがて、新一より一足遅れてエレベーターホールの前を通りかかったジンの足が、ふと止まった。
稼動しているエレベーターに気づいたのだ。
ジンの冷たく青い瞳は、上層階へ向かうそれがどこで停止したかも、しっかりと捕らえていた。
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かれんの部屋に辿り着いた新一は、震える手でキーを差し込んだ。
中に入るとすぐさま明かりを消し、辺りを見渡す。
「・・・さて、この部屋に逃げ込んだのが吉と出るか、凶と出るか・・・。」
このまま逃げ遂せればいいが、組織の連中相手にそう上手く行くとも思えない。
それでもここはひとまず休養し、体力を温存するに限る。
新一は足を引きずって寝室へ向かうと、そのまま大きなベッドへ倒れこんだ。
暗闇の中、ベッドに大の字で寝転んだ新一は、瞳を堅く閉じて体中を襲う痛みに必死に耐えていた。
「───具合悪そうだね?」
突然、上から降ってきた声に、新一は目を見開く。
慌ててベッドから飛び起きると、新一の目に入ったのは見覚えのある白いコスチューム。
そんなふざけた格好をしている人間を、新一は一人しか知らない。
「・・・キ、キッドっっ!?」
「やぁ、こんばんは。」
「お、お前・・・っ!何でここにっ!?」
「ただの通りすがりかな。」
そんなわけはない。
新一が抗議の言葉を口にするより早く、キッドが先に言った。
「───腕。血が出てるね。」
「・・・あ、ああ、これは・・・。大したことは・・・」
新一は腕を押えて隠そうとしたが、キッドはそれを許さなかった。
少し乱暴に新一の腕を捻り上げると、マジマジと傷口を見る。
「・・・イっっ・・・!!」
「掠っただけだね。でもまぁ一応、止血はしておいた方がいい。」
言うなり、キッドは自分のスーツのポケットから常備しているらしい薬品やらを出し、新一の手当てを始めた。
そのあまりの手早さに、新一は驚いて言葉も出ないが。
とりあえず、新一はベッドに腰掛け、大人しくキッドの手当てを受けることにした。
やっと口を開けたのは、綺麗に巻かれた包帯がきちんと結ばれたその瞬間だった。
「・・・お前、どうしてここにいるんだ?まさか、このホテルのパーティに出てたとか言うんじゃないだろうな?」
「さぁ?そっちこそ、その姿はずいぶんお久しぶりな気がするけどね?」
工藤新一と江戸川コナンが同一人物だと知るからこその台詞である。
新一は、小さく舌打ちした。
「・・・今夜、この姿に戻れたのは、ほんの偶然なんだよ。実際、タイムアウトも迫ってるしな。またすぐ小学生に逆戻りだ。」
「それはそれは。」
ワザとらしく肩を竦めて見せる怪盗を新一は睨みつけるが、もちろんキッドは素知らぬ顔でやり過ごす。
「───で?
その体調不良は、魔法が解ける予兆ってこと?」
「・・・まぁな。」
「なるほど?さすがに本当の魔法のようにはいかないわけだ?」
「・・・当たり前だろ。人の体の細胞や骨がそう簡単に伸び縮みしてたまるかよ。こっちは死ぬ思いなんだぞ。」
「想像を絶するね。けど、個人的には変身シーンには興味あるなぁ。」
「・・・バーロー。見世物じゃねーんだよ!」
そう吐き捨ててから、新一はその秀麗な眉を寄せる。
突然のキッドの登場で緊張感を忘れてしまったが、今はそんなのんきな状況ではないのだ。
「悪いけど、今はお前に構ってる場合じゃねーんだ。冷やかしに来たのなら、とっとと失せろ。」
切迫した顔で新一はそうすごんだのだが。
明かりの落ちた部屋の中、ベッドに腰を落としている新一には、月明かりを後ろに背負って立つキッドの表情までは、逆光でよく見えない。
それでも、キッドの纏う空気が相変わらずの飄々としたものであることはわかる。
苛立った新一が次の言葉を告げるより先に、キッドが小さく言った。
「別に、冷やかしに来たつもりはないよ。」
「なら、何の用だ?」
「いや、どっちかというと、用があるのは名探偵じゃなくて、黒尽くめの物騒な連中の方なんだけどね。」
そのキッドの台詞には、新一は眼を見張る。
目の前に立つ怪盗は、ただ不敵に笑っていた。
To be continued