「だから、ここはこう打ち込んだ方が黒にとってより有効的な手立てになるだろう?」
「・・・ああ、そっか。」
「相変わらず読みが甘いな、進藤。 僕がこの石をどう対処するか、考えなかったのか?」
「考えてるよ! けどオレは、こっちに連絡して、右上スミと中央の白石を切り離すつもりだったんだ。」
「それでは黒の地は守れない。 その読みの甘さが今回の君の敗因だ。」
きっぱりとそう言い放つ塔矢を、オレは悔しいけれど何も言い返せずに、ただムッして見せた。
今日の対局も、結局オレの2目半負け。
・・・敗因なんて自分でわかり過ぎるくらいわかってるのに、コイツに言われるとホントに腹が立つんだよな。
おキレイな顔をして、その白くて細い指をオレの一手一手に突きつけながら、塔矢の口は閉まることなく後から後から厳しい言葉が出てくる。
佐為が消えてからしばらく。
オレは碁をやめるつもりでいたけど、あの伊角さんとの一局で自分の中に佐為を見つけて、そうしてオレはまたこの世界に帰って来た。
塔矢とも、やっとお互い本気で打てるようになって。
時間のある時は、こうやってコイツと碁会所で打つのも、もうすっかりここ最近のオレの日常になった。
今までは、毎日、佐為としか打ってなかったけど。
こうして塔矢と打つようになって、本当に実感する。
塔矢は強い。
そりゃ今までだって強いと思ってたけど、オレ自身、本当にコイツの力を推し量れるようになった今だからこそそう思う。
少しはお前と対等に打てるようになった、今のオレだからこそ。
じっと碁盤を見つめていた塔矢の視線がふと、オレの方へと向いた。
「・・・・聞いているのか?進藤。」
「聞いてるよ。」
いささかうんざりした様子でオレが返答すると、塔矢はその細い眉を寄せてから再び視線を盤上へ落とす。
「ああ、それから・・・。」
「まだあんのかよ?!」
オレはあからさまに嫌そうな声を出すと、両手を上げてうーんと伸びをした。
構わず、塔矢は続ける。
アイツの指が指し示した1子を見て、オレはアクビをして涙目になっていた瞳を僅かに見開いた。
「・・・この君の一手。 これは僕の考えの範疇を越えていた。 これは・・・。この打ち方はまるで・・・。」
言いながら、塔矢の目が鋭い光を帯びて細められる。
コイツが何を言いたいかは、オレにはわかっていた。
どうにも次の一手に困った時、無意識に佐為を思うのはオレの癖。
・・・・アイツなら、どう打つかな?
佐為なら、アイツならどう打つだろうと考えると、不思議に新たな道が生まれてくる。
アイツならこう打つんじゃないかと思うと、自然と自信を持って石を置くことができるんだ。
ずっと一緒に打っていたからこそ、オレだけがよく知ってる佐為の打ち方。
その石の運びも。
・・・・やっぱ、お前にはわかっちまうよな?塔矢。今のが佐為の手だってこと。
・・・・お前が求めて止まない、あの『 sai 』だってことに。
瞬間、オレの胸のどこかでツキンと軋む音がした。
ジャラっと音を立てて、オレは盤上の石を両手でかき集め始める。
「あ、おい!進藤っっ!! まだ検討は終わっていないぞ! 何するんだ! 進藤??!」
塔矢の制止の声を無視して、オレは無言で石を片付け続けた。
「進藤?」
「・・・・・もう、今日はヤメにしようぜ。 オレ、疲れちゃったから、帰る。」
「・・・なっ! 進藤?!」
納得行かなさげな顔をして、オレを見つめる塔矢の真っ直ぐな瞳から、オレは視線をそらすと、そのままガタンと席を立った。
背中で塔矢が何度もオレを呼んでいた。
だけど、オレは一度として振り返らなかった。 振り返りたくなかった。
オレを見つめる塔矢の顔が見たくなくて、そのままオレは碁会所を後にした。
○●○ ●○● ○●○
佐為が消えてしまってから、一度はもう碁なんか、やめようと心に誓った。
アイツが打てないのに、オレなんかが打つわけにはいかないと、そう思ったから。
だけど、アイツはオレの碁の中にいて、今も碁盤の上で生きている。
オレが打てば、アイツに会えるんだ。
だから。
そうやってでも佐為に会いたいと思ったから、オレはまた碁を始めようと戻ってきた。
オレが打つことで、佐為がこの世に生きるような気がして。
もう打てなくなってしまったアイツの代わりに、オレが打ち続けなければならないと。
結局、それが碁を捨てられなかった自分の都合の良い言い訳にしか過ぎなかったとしても。
時折、自分の碁の中に垣間見る事が出来る佐為の存在は、かけがえのないものだったから。
本因坊秀策。
今もこの世に語り継がれているその名前は、世界中の碁打ちを圧倒する程のもので。
なぁ、佐為。
お前と打ちたがっている人は、今でもすっごいたくさんいるんだぜ? 知ってたか?
塔矢や、塔矢名人や、緒方先生だけじゃなくてさ。
ま、それだけ、お前がすごかったってことなんだろうけど。
そう。
佐為はすごい。
まさに、1000年もの間、生き続けた囲碁の神様だと言ってもおかしくはないだろう。
「・・・佐為のヤツ、ホントは今頃、オレなんかに取り憑いて、ツイてなかったとか思ってるかもなぁ。」
アイツにもっと打たせてやればよかったという後悔の念は、今も消えない。
たぶん、これからもずっと。
だから、せめて佐為のために、オレはオレでできることをするべきなんだ。
オレの碁の中にお前が生きているなら。
お前のために、そしてオレのために、オレはこれからも碁を打ち続けていく。
吹き抜ける風に真っ青な空を仰ぐと、オレは佐為のあの優しい笑顔を思い浮かべていた。
○●○ ●○● ○●○
「進藤っっ!!」
振り返ると、ものすごい形相をした塔矢が息を切らして立っていた。
どうやら、碁会所からオレを追って走ってきたらしい。
いつもは整った真っ直ぐな髪がちょっと乱れていて、ぼんやり公園で道草に呆けていたオレの笑いを誘った。
「何してんの?お前・・・。」
「それはこっちの台詞だ。 あんな風にいきなり出て行かれたら、気になるじゃないか!」
「だからって、それでオレの後を追っかけてきたのか? お前も、案外、ヒマなヤツだなぁ。」
オレがそう笑って見せると、塔矢はかなり心外そうな顔をして溜息を零し、乱れた髪を軽く手ぐしで整えた。
・・・・ったく、冗談だって。
聞き流せよな?これくらい。 オレだって、お前が本気でヒマだなんて思っちゃいねーよ。
公園のブランコに腰掛けていたオレは、反動をつけてちょっと漕いだ。
それを目で追っていた塔矢も、オレの隣に一つ空いたブランコに腰を落とす。
「・・・・・また、君が僕の前から消えてしまうかと思った。」
俯いたままの塔矢が、消え入りそうな声でそう言う。
オレはちょっとびっくりして、塔矢を振り返った。
「・・・・・君は時々、ひどく寂しそうな顔をする。 さっき僕が言った事で何かあったのか?」
「別に何もないよ。」
「とぼけるな、進藤! 僕だって、君とこれだけ顔を付き合わせていれば、それくらいのことはわかる。触れられたくない何かを、思い出してしまったんだろう?」
「・・・・・思い出してなんか、いない。」
「しかし、君はっっ・・・・!!」
・・・違うよ、塔矢。
思い出すなんてこと、あるはずないんだ。
なぜってオレは、一瞬だって佐為のことを忘れたことはないんだから。
「・・・余計な心配すんなって。ほんとにちょっと疲れただけ。ホラ、お前との検討って、いっつもオレ、お説教されてばっかだしさ。」
オレがそう曖昧な笑みを浮かべてやると、塔矢はその瞳を少し曇らせた。
妙なところで鋭いコイツを納得させるのは、オレにとっても至難の業だ。
これ以上、下手なことを言って勘ぐられるのは避けたいので、オレはそのまま黙ってブランコを漕ぎ続けた。
風を切ってブランコを漕ぐオレの体が、塔矢の横を行ったり来たりする。
それを見つめていた塔矢が、静かに口を開いた。
「・・・いつか、君が僕に話すと言ってくれたことと、何か関係があるのか?」
オレは何も応えなかった。 塔矢の視線は痛いほど感じるけど、ただ前を向いたまま、ブランコを漕いだ。
塔矢は続ける。
「・・・さっきの対局で、僕はまた君の中にもう一人の君を見た。 だが、それを指摘したのは君にそれを問いただそうとしたわけじゃない。
・・・2年4ヶ月も待つことができたんだ。 君の心の準備ができるまで僕はいくらでも待つよ。」
「・・・・・塔矢。」
肩越しに塔矢を見ると、こっちを見つめて綺麗に微笑んでいる塔矢の顔があった。
その優しい眼差しに、オレはまた少し胸が痛くなるのを感じた。
塔矢。
お前になら、佐為のことをいつか話してもいいと、いや、話したいと思ったのは本当だよ。
だけど。
逆に、お前にだけは話せない、話したくないとも思ったんだ。
オレの碁の中には、確かに佐為が生きている。
でも、オレは佐為じゃない。
コイツがこうやって、オレの中の佐為を見つけるたびに、オレはこれからもそう思い知らされる。
オレがお前の求めてる『 sai 』じゃないとわかったら、お前はどうするんだろう?
また、オレを軽蔑する?
また、オレなんか相手にしなくなるんだろうか?
そう思うと、怖くてしかたがない。
お前がオレを見てくれなくなるのが。
「・・・塔矢、お前さ・・・。碁、好き?」
唐突に繰り出したオレの質問に、塔矢は目を少し大きくし、それから考えるような素振りを見せてからいつもの落ち着き払った声で答えた。
「僕にとって、囲碁とは好き嫌いで推し量れるものではない。
何しろ、物心ついた時には、既に碁石を持っていたし・・・。碁をしていない自分なんて考えられない。・・・いや、というよりむしろ、他の生き方を知らないと言った方が正しいか・・・。」
その、いかにも塔矢らしい答えに、オレは少し声を立てて笑った。
「そうだよな! 碁をしてないお前なんて、オレもちょっと想像できねーかも・・・。」
ひとしきり笑い終えたオレを見て、今度は塔矢がオレに同じことを聞き返してきた。
充分に予想できたことだった。
「・・・・君はどうなんだ? 進藤。 碁は好きか?」
「そうだなぁ。 オレなんて、お前に比べれば囲碁をしてきた年数も全然違うしな。思い入れも違うだろうケド。もともとやり始めの動機だって、不純だしさ。」
オレはにっこり笑いながら、そう答えた。
「じゃあ、君は碁が好きではないのか?」
やや心配な顔をしてオレを覗く塔矢に、オレは苦笑して見せる。
「そんなことないよ。碁を打つのは楽しいし。今じゃ、他にこんな楽しみはないと思ってる。こないだ、碁をやめてみて初めてわかったんだ。 オレ、自分がこんなに碁が打ちたいと思ってるなんて。」
そう言ったオレを、塔矢が少し複雑そうな顔をして見返した。
その顔は、そんなに碁が打ちたいなら、なぜやめたりしたんだと言っている。
けれども、塔矢は何も言わなかった。
しばらくして。
一言だけ。
「・・・なら、君も碁は好きなんだな。」
少し安心したような声色で、そう微笑んでくれたから。
だから、オレも同じ様に笑って頷いた。
「・・・・・塔矢、心配しなくても、オレはもう碁をやめたりなんかしないよ。」
「進藤・・・・・。」
「僕達は、ずっと碁を打とう。・・・これからもずっと。」
「・・・ああ、そうだな。」
キィとブランコが音を立てる。
流れる景色とともに、少しだけ近づく空を見つめながら、オレは忘れる事などできない佐為の顔を思った。
こめんな、塔矢。
もうお前を『 sai 』とは打たせてやれないけど。
たぶん、オレは一生かかっても佐為には追いつけないから。
だけど。
それでも、がんばるから。
いつか、お前が本当のことを知ったとしても、お前ががっかりしないですむように、オレ、がんばるから。
だから、塔矢・・・。
オレと打ちたいと言ってくれた塔矢の笑顔が眩しい。
とてもうれしくて。
そして、少し痛かった。
まだ行き先は遠くて見えない
それでも今、信じて歩いていこうとしている
僕がここに生まれたから
見ていてね
今まで探していたこの場所を
“僕の居場所”と名づける
THE END