夏休みも終わり、新学期も始まったある日の放課後。
陽も傾いた中、江古田高校の生徒達はみな,帰宅する為に一様に江古田駅への道を歩いて行く。
駅近くの繁華街に差し掛かると、真っ直ぐ駅へ向かう者と寄り道する者と二分されるが、本日の黒羽快斗は後者に分類された。
いつもなら、肩を並べて歩いているはずの青子の姿はない。
彼女は帰りに女友達数人と映画を観るとかで、快斗とは一緒ではなかった。
よって、快斗は1人であった。
寄り道と言う程のことではないが、たまたま通りがかった本屋でちょっと目を引く雑誌があった為、彼は足を止めたのだ。
雑誌を立ち読みすること数分。
快斗は、気になる記事を全て目で追った後、その雑誌を再び陳列棚に戻したところで、ふと書店の中へ目をやった。
何やら嫌な気配がしたのである。
その気配をした方向へ視線を投げると、とたんに快斗は表情を曇らせた。
───げ。
書店の奥に居たのは、白馬探。
何冊か本を買い求めたらしい白馬は、今まさに会計を済ませて、快斗のいる出入り口の方へ来ようとしていた。
まさか同じ店に立ち寄っているとは、何たることか。
あまりの不運に快斗はうなだれると、見なかったことにしようと回れ右をする。
だが、
知らん振りしてそのまま本屋から消えようとした快斗を、もちろん白馬が目ざとく見つけたことは言うまでもない。
「黒羽君!」
声をかけられて、快斗は嫌そうに振り向いた。
振り向いた先には、白馬の爽やかな笑みが待っている。
「偶然ですね。君も寄り道ですか?」
「・・・お前こそ、寄り道なんて珍しいな。」
そうなのだ。
憎たらしいが、警視総監ご子息というご身分もあってか、普段、白馬は学校への行き来は専用車で行なっている。
そのため、通学路途中で白馬と出くわすということは、まずないはずなのだが。
「お迎えの車はどうしたんだよ?」
「今日はこれから所用がありましてね。車でない方がいろいろと都合が良いものですから。」
“ああ、そう”と興味なさげに相槌を打つと、快斗はさっさと踵を返した。
所用なら、快斗にだってある。
数日後には、怪盗キッドとしての仕事も控えているのだ。
下準備もあるわけで、ますます白馬などと関わっていたくはない。
「じゃあ・・・。」
「・・・あ!黒羽君!」
去りかけた快斗を追って、白馬が一歩踏み出した時だった。
背後でガシャーンと派手な音がした。
大きなその物音に快斗と白馬は同時に振り返る。
と、地上には何かがぐしゃりと潰れていた。
そこは、先程まで白馬が立っていた地点であった。
瞬間的に、快斗は頭上を見上げた。
二人が立ち寄った書店は建物の1階にあり、上の階が居住区となっている
ビルだ。
快斗が見上げた時、居住区のベランダにも屋上にも怪しい影は見当たらなかった。
一方、白馬は地面に屈み込むと、しげしげと空から降ってきた物体を見つめていた。
「どうやら、ゼラニウムの鉢植えのようですね。」
粉々に砕けた素焼きの鉢の破片を拾いながら言うその声は、実に落ち着いたものである。
「ケガはありませんか?黒羽君。」
そう振り返った白馬に、快斗は酷く呆れた。
「・・・いや、間違いなくケガしそうだったのは、お前の方だと思うけどね。」
「僕はご覧のとおり、傷一つありませんからご安心を。しかし、お互い何事もなくて良かったですね。こんな鉢植えでも、当たっていたら大変なことになっていたかもしれない。」
大変どころか、ヘタをしたら死んでもおかしくない状況である。
───偶然か?
快斗は眉を顰めた。
風はなくはないが、それほど強いわけでもない。
居住区のベランダから、何かの拍子に間違って落ちたということもあるかもしれないが。
単なる事故か、それとも───。
快斗が1人そう思っている間に、白馬は書店の中へ入って、何やら店員と話しこんでいる。
再び戻ってきた白馬は笑顔で快斗に告げた。
「店員の方に割れた鉢植えを片付けてもらうよう、お願いしてきました。」
「・・・ああ、そう。」
溜息一つ、快斗は言った。
「それより用がないんなら、オレは帰るけど?」
「ああ、すみません。呼び止めてしまって。君もいろいろとお忙しいでしょうしね。」
意味深な笑みを浮かべながら、白馬が言う。
それは、既に予告済みのキッドの仕事を明らかに示唆してのこと。
しかし、快斗はそんな白馬には取り合わず、今度こそ「じゃあ」と背を向ける。
歩き始めた快斗の背中に白馬は言った。
「では、黒羽君。また明日、学校で。」
肩越しに小さく振り返った快斗の目には、いつまでも笑顔を送る白馬が映る。
にこやかなその笑みは、先程のアクシデントのことなどまるで気にしていないようだった。
快斗は、そんな白馬を見つめるが。
それはほんの僅かな間だけで、再びまた前を向き、歩き始めたのだった。
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翌日、江古田高校。
いつものとおり遅刻気味で学校に到着した快斗の足は、教室ではなく、校舎の屋上へと向かっていた。
とっくに授業中な校舎内は静まり返っており、ただ快斗の階段を登る足音だけが響いている。
授業に遅れて、なおかつこのままサボりに入ろうという快斗は、相変わらずいい度胸だとしか言いようがないが。
当人はというと、悪びれもせず、のんきにあくびなどしている。
それもそのはず。
昨夜も遅くまで、怪盗キッドとしての仕事の準備に追われていた。
予告日は、明日の夜。
華やかなショーを演出するためには、裏では実は地道な作業があったりするのだ。
───本当なら、家でのんびり寝ていたいとこなんだけどね。
さすがに仕事前日に欠席などしては、厄介な探偵にまた一つネタを提供しかねないので、寝不足の体にムチを打って、登校してきたと言うわけである。
「・・・とりあえず、授業に出るのは午後からってことで。」
屋上へと続くドアを開けると、快斗はまだまだ寝たりないのか、うーんと伸びをした。
そうして誰もいない屋上で、いつものように寝転ぶとそのまま瞳を閉じる。
あっという間に、快斗は眠りの世界へと旅立って行った。
それから、どれくらい経っただろうか。
ふと、屋上へ誰かが来た気配に快斗は目を覚ました。
横になった体勢のまま、快斗は小さく舌打ちする。
この場に現れたのが、誰なのかわかっているからである。
「おはようございます、黒羽君。・・・と、言っても、もう昼休みですがね。まったく君は一体、学校へ何しに来ているんですか。」
まるで母親の小言のような白馬の台詞に、快斗はやれやれと溜息をついた。
安眠もここまでだと、快斗はダルそうに体を持ち上げる。
更に気だるそうに振り返った快斗は、視界に入った白馬の姿を見て、少々目を見開いた。
「・・・・何だ?その顔。」
そこに居たのは、いつものように穏やかに微笑む顔の白馬であったが。
その顔には、不釣合いないくつかの擦り傷。
良く見ると顔だけでなく、手にも傷があった。
おおよそ白馬らしからぬその様に、快斗は不思議そうに首を傾げる。
すると、白馬はバツが悪そうに笑った。
「ああ、これですか。実は昨日、帰宅途中にちょっと転んでしまいまして。」
「転んだ?」
「電車に乗ろうと駅へ行ったのですがね。帰宅ラッシュというんですか?ホームに大勢の人
が溢れていまして。僕がああいった混雑した状況に不慣れなこともあってか、ホームから押し出されてしまったんですよ。」
「・・・もしかして、線路に落ちたのか?」
「お恥ずかしい話ですが。その後、すぐ特急電車がホームに入ってきたんですが、僕はホーム下のスペースに身を寄せましたので、このとおり大したケガもなく。ただ、電車を一時停めてしまったので、ちょっとした騒ぎになってしまいましたがね。」
確かに、ラッシュ時の駅ではそういった事故はなくはない。
ホームに溢れんばかりの人が居れば、間違って線路に転落ということもありえるだろう。
だが、本屋での植木鉢が落ちてきた状況も合わせると、さすがに偶然の事故と片付けるのは少々無理がある。
この場合、誰かが故意にやったと考えるのが妥当だ。
───誰かが白馬を・・・・。
快斗は、その目を僅かに細めた。
しかし、当人である白馬はまるで能天気だった。
「それにしても、昨日はとんだ災難に見舞われた一日でした。こんな偶然もあるのですね。」
───なわけないだろ。バカか、コイツは?
事件を解決する為には、どんな些細な事も見落とさない注意力がありながら、自分自身のことには相当、疎いらしい。
探偵の名が聞いて呆れる
。
「・・・あのな。一日に二度も命を落とすような危険に遭遇するなんて、普通、ありえないだろ。他の可能性を考えろよ。」
「と、言うと───?」
あくまでおとぼけな探偵に、やれやれといった風に快斗は告げた。
「ま、例えば───。誰かがお前の命を狙っているとかね。」
すると、白馬はその目を見開き、さも意外そうな顔をした。
「僕が?!まさか!どうして僕が狙われなくてはならないんです?」
「さぁね。とりあえず、お前は思い当たる事とかないわけ?」
「そう言われても、人に恨まれるようなことをした覚えはありませんが。」
───ああ、そう・・・。
きっぱりと言い放つ白馬に快斗はやや苦笑する。
そこまで自信たっぷりに断言できれば、相当に幸せ者だろう。
しかし。
「お前がそのつもりでも、実際、どうかはわからないだろ?」
「それは・・・・・・。確かにそうですね。」
白馬は少々俯いた。
そんな白馬を、屋上のコンクリートにあぐらをかいた姿勢で、快斗は見上げる。
「ま、ただでさえ、探偵なんてやってれば、余計な恨みを買うことも多いんじゃないかとオレは思うけどね。」
実のところ、白馬の探偵としての仕事は、怪盗キッド絡みのものだけではない。
もちろん、キッドに関しては全件、首を突っ込む姿勢でいることには間違いないが、高校生探偵として、普通の事件の捜査にも参加を要請されている。
要するに、凶悪な殺人事件などの介入だって少なくはないのだ。
「つまり、君は僕が解決した事件の関係者が、何らかの恨みを持って僕の命を狙っていると、こう言いたいわけですか?」
「考えられない話じゃないだろ。」
「しかし───。」
白馬は立ったまま顎に手を添えると、納得がいかないのか考え込んでしまった。
どうやら、彼にとっては“探偵”という職種で誰かに恨まれるとは心外らしい。
───仕事に誇りを持つのはいいけどね。
「・・・お前さ。まさか、犯人は全てお縄になった瞬間、自分の罪を悔い改めてるだなんて思ってないだろうな?犯人だけじゃない。犯人に近しい関係の人間だって、そう物分りのいいヤツばっかりとは限らないんだぜ?」
「そういうのは逆恨みと言うのでは?」
「やられたからやり返すっていうのも、単純でわかりやすい動機だろ?」
「なるほど。復讐というわけですか・・・。」
白馬は低く唸ると、それきり黙り込んでしまった。
快斗はそんな白馬を見、再びコンクリートに寝転んだ。
空に浮かぶ雲が快斗の瞳に映る。
「とりあえず、お前はしばらく大人しくしといた方がいーんじゃないのか?」
「おや?もしかして僕の身を心配してくれているのですか?」
「いや、そういうわけじゃないけどね。」
素っ気無い快斗の返事にも、白馬はうれしそうにする。
だが、次にはニヤリと探偵らしい笑みを浮かべた。
「お気遣いはありがたいのですが、明日はキッドの予告日ですからね。そういうわけにはいかないんですよ。」
「・・・あっそ。じゃあまぁ、殺されないように気をつけることだな。」
人事のように快斗は言った。
実際、人事ではある。
快斗のそんな薄情な物言いをまるで気にしない白馬は、1人自分の考えの淵を彷徨っているようだった。
「それにしても、よくわかりませんね。」
「ん?」
「───いえ。もし、本当に事件の関係者が僕に復讐しようとしているのだとして・・・。一体、何の意味が?僕を殺して、得られるものがあるのかどうか・・・・。」
「・・・さぁ。」
空を見上げたままの快斗の瞳が、僅かに細くなった。
けれども、そんな僅かな快斗の変化を白馬は気づくことなく、続けた。
「やられたらやり返したいという心情は理解はできます。ですが、それを繰り返していたら、永久に憎しみの連鎖に終わりはない。それこそ、悲劇だとは思いませんか?復讐なんて、
何も生み出さないのに。」
快斗は何も言わない。
白馬を振り返ることもなく、ただ黙って空を見つめていた。
二人の間に、僅かな沈黙が落ちた。
やがて。
「・・・まぁ、憎しみに理屈なんてないからな。」
そう返した快斗の声は、昼休みの終わりを告げるベルとちょうど重なってかき消されてしまい、白馬は聞き取る事ができなかった。
「黒羽君、今、何て・・・。」
白馬の言葉を遮るように快斗は反動をつけて体を起こすと、そのまま癖のある黒髪をかきあげながら、立ち上がる。
「さて、教室に行くか。」
そうして、白馬の脇をすっと風のように通り過ぎて行ってしまう。
結局、白馬は快斗が最後に何と言ったのか、わからないまま。
ただ、快斗が消えた屋上の昇降口を、黙って見つめているしかなかった。
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その日、授業を終えた快斗はとあるマンションの一室に居た。
いわゆる、怪盗キッドとしての秘密のアジトというヤツだ。
制服姿のままパソコンに向かっていた快斗は、デスクの上のマグカップに手を伸ばす。
砂糖たっぷりのカフェオレを一口飲み干すと、それからカチリとマウスを指で弾いた。
「・・・なるほどね。」
小さく呟いた快斗の瞳が僅かに細められる。
画面の中にあるのは、この夏休み中に白馬が解決したある事件の詳細について。
明日の仕事の準備も万端な快斗は、とりあえず、本当に白馬が命を狙われるような事件を扱ったのかどうか、調べてみたのだ。
で、実際どうだったかというと、1件それらしいものにヒットした。
それは、夏休みも終わりに近い8月下旬に起こった殺人事件。
まだ20になったばかりの男子学生が、ある男を刺殺したというものだった。
犯人の動機は至って明白。
両親を自殺に追いやった者への復讐だった。
小さな工場を営んでいた犯人の家は不況の煽りを受けて経営が思わしくなかったところ、それを援助すると言う形で現れた男に結局のところ騙され、工場を乗っ取られてしまう。
失意の底に突き落とされた彼の両親は自殺し、彼とまだ中学生の妹だけが取り残された形となったという不幸な出来事がそもそもの原因だ。
そうして今回、彼は見事復讐を果たす事には成功したが、彼の犯した犯罪が白馬によって暴かれたため、今度は兄妹までも引き裂かれることとなった。
快斗は画面の中にある、犯人の妹の顔写真に目をやった。
まだ何処となく幼さが残るかわいらしい少女。
恐らく彼女が白馬を狙っているのだろう。
植木鉢を落としたり、線路に突き落としたりと少々手口が幼稚なところを見てもまず間違いない。
両親とは死に別れ、たった一人の家族の兄まで奪われて、恨まずにはいられないというところか。
「・・・ま、わからなくはないけどね。」
快斗は椅子の背もたれに背中を預けると、小さく息を吐いた。
“人に恨まれるようなことはしていない”
きっぱりと言い放った白馬の言葉。
───アイツの場合、本心からそう言ったんだろうけど。まったくオメデタイ。
「オレが言うのも何だけど、探偵なんていつどこで刺されたって不思議じゃない職業なんだし、もう少し自覚を持ってもいいと思うけどね。」
確かに、怪盗キッドなんてやっているおかげで、命を狙われる心当たりなら山ほどある快斗には白馬も言われたくないかもしれないが。
それにしてもだ。
人の心の闇というものに対して、どうもあの探偵は認識が甘いようである。
“復讐は何も生み出さない”などと堂々と語ったところで、それはだたの正論に過ぎない。
───わかったような顔で言ってくれたけど、実際、どのくらいわかってるんだか?
「・・・・・・理解する事と納得する事は違うんだ。正しい事だけ選んで生きていけるほど、人の心は単純じゃないんだよね。」
快斗は1人呟くと、視線をパソコンから窓へと投げた。
窓の向こうには、すっかりと日が暮れた町並みが映っていた。
とにかく、明日の夜、白馬がキッドを追って出歩くことは確定している。
白馬を狙うなら、まさに絶好のチャンスであって、これを逃す手はないだろう。
ということは、明日が勝負ということになる。
「・・・・ま、とりあえずアイツがどう対処するのか、お手並み拝見させてもらうか。」
口先だけで、快斗は小さく笑ったのだった。
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夜空には綺麗な月が輝いていた。
そして、その闇夜に月と同じように輝くのは、純白のコスチュームを纏った怪盗キッド。
例によって例のごとく獲物を手に入れた怪盗は、いともたやすく警察の追っ手を振り切り、今はその羽を休めるように、とあるビルの屋上に舞い降りたところである。
手の中にある大きなダイヤをキッドは月に翳すと、数秒でジャケットのポケットに仕舞い込んでしまった。
要するに、今夜もまたハズレを掴まされたというわけだ。
ビルの屋上で月をバックに立つ怪盗は、周囲を見渡す。
静まり返った闇の世界には、物騒な客の登場はなさそうな気配である。
「・・・奴らのお出ましも無しか。」
この後、どうせここに来るだろう白馬のことを考えれば、銃撃戦は望ましくない。
白馬だけならまだしも、きっともう1人ゲストが来るはずなのだから。
おそらく白馬を狙う彼女が。
夜風が舞う。
白いマントが風に大きく靡いた時、屋上に息を切らせて白馬が現れた。
「こんばんは。お待ちしていましたよ。」
シルクハットを目深に被った怪盗は、現れた探偵に向かって優雅な笑みを浮かべた。
すると、白馬も挑戦的な光をその目に宿す。
「おや、僕に何か用でも?」
「ええ、実はこちらのダイヤの返却をお願いしたくて。」
大きなダイヤをその掌に乗せ、キッドはにっこりと笑った。
「なるほど。持ち主のためにも、直ちに返却していただけるのはありがたい話ですが。それはつまり、今夜の獲物も君の求めるものではなかったというわけですね?」
ニヤリとする白馬に、キッド「さて?」ととぼけて返した。
白馬はそんなキッドを見つめ、改めてキッドと対峙しようと、一歩、前へと足を踏み出す。
と、それをキッドは片手を挙げて制した。
「・・・ストップ。どうやら、この場にもう1人、ゲストがいらっしゃったようだ。」
キッドが僅かにシルクハットのつばを上げ、クスリと笑った。
その視線は、白馬の後方へと向けられている。
キッドの台詞に、白馬はえ?と背後を振り返った。
すると、昇降口の影に隠れていた黒い影が小さく揺れる。
黒い影より、その影が持つ銀色の刃物が月光に照らされて目に付いた。
刃渡りはさほど大きい物ではないが、それでも立派なナイフだ。
「誰です?!」
白馬が声を上げると、影が月光の下に姿を現した。
セーラー服姿の少女だ。
彼女の顔を見止めた白馬の瞳が見開いた。
「・・・君はっ!」
キッドにとっては、当然、思っていたとおりの人物の登場だったわけだが、白馬にとっては予想外だったのか、酷く驚いた表情だった。
「一体、君がどうしてこんなところに・・・。」
───理由なんて、他にないだろ。
とは言わずに、キッドは少女を見つめた。
ギラリと光るナイフを握り締めた少女の手は、かすかに震えている。
が、彼女は白馬の先にいる怪盗の姿をも気にしているようだった。
まぁ、確かに一般人がキッドを至近距離で見られることはあまりないことなので、気持ちはわからなくもない。
ナイフを手にした少女に、ようやく全てを悟ったらしい白馬は、キッドを振り返って言った。
「すみません。彼女は僕のお客のようだ。ダイヤは後でお預かりしますので、彼女との話が終わるまで、少しお時間をいただけますか?」
「どうぞ。」
キッドは静かに笑みを浮かべると、ゆったりと屋上のフェンスに寄りかかった。
白馬は、改めて少女を見据える。
「貴方は、市村そのみさんでしたね。ここ数日、僕を狙っていたのは貴方だったんですか。」
「そうよ!絶対に許さない!お兄ちゃんは何も悪い事はしてないのに!アイツは私達のお父さんとお母さんを殺したも同然で、死んで当然なんだから!どうしてお兄ちゃんを捕まえるのよ!」
少女の感情的で甲高い声が屋上に響いた。
それでも白馬は冷静だ。
「ご両親のことは、お察しします。しかし、だからといって貴方のお兄さんが殺人を犯していいことにはならない。この世の中に死んで当然の人なんていないんです。それが、たとえどんな悪人だとしても。」
すると、彼女は目を剥いた。
「そんなの納得できるわけないでしょ?!お父さんとお母さんを奪われて、どうやって許せって言うのよ!?」
「もちろん許せる事ではないでしょうね。ですが、復讐などして、お亡くなりになったご両親が喜ばれるとでも?」
少女の目が真っ赤になり、見る見るうちに涙に濡れた。
「何よ?!天国で悲しんでいるとか言いたいの?!そんなの・・・!そんなのわかるわけない
じゃない!!天国だろうが地獄だろうがもう会えないんだから!それにうちの親の事、何も知らないクセにわかったようなこと言わないで!自殺するまで追い詰められて、アイツの事、恨んでなかったわけない
んだから!!」
大粒の涙を零しながら言う彼女に、白馬はしばし押し黙った。
少女の嗚咽だけが屋上に響く。
「・・・貴方の言うとおりですね。確かに、僕は貴方のご両親の事は何も知りません。実際、お会いした事もなければ、話したこともありませんからね。しかし、これだけは言えます。」
白馬の言葉に、彼女が泣き腫らした目を向けた。
「貴方と貴方のお兄さんを道連れにしなかったのは、せめて貴方達だけには生きて幸せになって欲しかったんじゃないでしょうか?子供の幸せを願わない親はいないはずです。」
ポタポタと落ちる彼女の涙の雫が、屋上のアスファルトに染みを作っていた。
「僕に復讐して、貴方はそれで幸せになれますか?一時的な達成感は得られるかもしれませんが、その先、貴方を待ってるのは牢獄の日々です。僕はこれでも探偵ですから、黙って殺されるようなマネはしません。貴方が犯人だと言う決定的な証拠は残させてもらいます。それでもよろしければ
・・・犯罪者として生きていく覚悟がおありなら、どうぞ。」
そう言うと、白馬は両手を広げて、まるで的にでもなるようなポーズをした。
一瞬、屋上に緊張感が張り詰めた。
ナイフを握る少女の手に力が込められているのがわかる。
彼女が白馬の胸にでもその刃を突き立てたら、まさに万事休すだが。
キッドは
ただフェンスに身を預けたまま、そんな様子を黙って見つめていた。
あくまで傍観者の姿勢を崩す事はない。
僅かな沈黙が支配する。
やがて、 セーラー服の少女はしばらく白馬を見つめていたが、その手からナイフを落とし、その場にへたり込んでしまった。
どうやら、修羅場は脱したらしい。
白馬は一呼吸つくと彼女の傍まで行き、ナイフを拾う。
「貴方は、ご両親の分まで幸せにならなければ。こんなところで道を誤ってはいけません。いずれ貴方のお兄さんも罪を償ったら、今度こそ兄妹二人で幸せに暮らすんです。」
泣きじゃくる少女の肩に、白馬は優しく手を置いた。
───これで、一件落着か。
二人の様子を見つめていたキッドの表情は、安堵というよりは心なしどこか、冷めていた。
しかし、白馬は自分を見つめる怪盗の目が感情の無い、冷ややかな視線であることには気づく余裕はない。
やがて、少し落ち着きを取り戻した少女の肩を抱くと、白馬は言う。
「下に僕の車があります。ご自宅までお送りしますので、先に車に乗って待っていてください。用が済んだら、僕もすぐ行きますから。」
その声に少女が頷くと白馬は屋上の昇降口まで彼女を送り、彼女の姿が完全に消えてからやっと、キッドを振り返った。
その時には、キッドはいつもの彼らしい独特の笑みを浮かべていた。
「お騒がせしてすみませんでした。」
苦笑する白馬に、キッドもにっこり笑いを作る。
「探偵という仕事も、なかなか大変そうだ。」
「君ほどではないですよ。」
キッドはそれには返さずに、代わりに今夜の獲物であったダイヤを投げて寄こした。
白馬はそれを慌ててキャッチすると、持っていた自分のハンカチにそっとくるんで上着の胸ポケットに仕舞う。
キッドはずっともたれていたフェンスから背を持ち上げると、シルクハットに手を添えて月を仰いだ。
白馬はそんなキッドの様子を目だけで追う。
それから、小さく息を吐いて言った。
「実を言うと、正直、どうなることかと思ったんですがね。彼女が僕の言葉を聞き入れてくれて、本当に助かりました。」
「それはそれは。物分りのいいお嬢さんであったことを感謝すべきですね。」
多少の皮肉が含まれているキッドの言葉に、白馬は少々首を竦めた。
「これはまた手厳しい。僕なりに誠心誠意、彼女を説得したつもりですが。ではお聞きしますが、君ならどんな言葉で彼女を止めると?」
「別に、止めるつもりはありませんが。」
あっさりと帰ってきたキッドの答えに、白馬は僅かにその目を開いた。
「・・・つまり君は、彼女の復讐という行為を肯定するのですか?!」
「肯定も否定も何も───。」
───オレ自身が、復讐者だしね。
微笑をたたえているキッドに、白馬は一瞬、ぞっとするほどの殺気を感じた。
“もしかして”と良からぬ考えが白馬の頭を過ぎり、白馬はたまらず、キッドの方へ踏み出す。
「君は・・・・!」
すると、夜空を向いていたキッドの顔が、白馬へ向き直った。
「あのお嬢さんを説得をした貴方のご意見は立派でした。でも、例えば、貴方の大切な誰かが殺されるようなことがあったとしても、貴方は同じ事が言えますか?」
「それは───。」
白馬は思わず言いよどむ。
目深に被るシルクハットは完全にキッドの表所を隠し、白馬には伺うことができない。
それが余計に白馬を不安にさせた。
言葉を失った白馬に、キッドはマントを翻して背を向ける。
「復讐する事を正当化するかどうかは別にして、そこに意味があるかないか、それを決めるのは本人の問題なんですよ。」
それだけ言うと、キッドは屋上からふわりと身を投げた。
白馬は何も言えずに、遠ざかっていく白いグライダーをただ目で追っている。
「・・・確かに本当の意味では、復讐したいと思う人達の気持ちはわかりません。僕には大事な人を理不尽に奪われたという経験がないありませんからね。ですが、もしこの先そういうことが起きたとしても誰も恨まずにいたいと、僕はそう思っているのですよ。」
その気持ちにウソはなかった。
どんな事情があろうと、復讐など認めるわけにはいかないと白馬はそう思っている。
───でも、黒羽君。君は・・・。
怪盗キッドが時折、見せる闇の部分。
それはもしかして。
白馬は、やや悲痛な面持ちで闇に消えていく白い鳥を見つめていた。
一方、夜空を舞うキッドは眼下に夜景を映しながら、疲れたように溜息をついていた。
「・・・余計なことを喋り過ぎたか。」
本来であれば白馬がどう言おうと、適当に聞き流してやるべきだった。
なのに、それができなかったのは、実際にキッド本人が復讐者であるからこそ。
───何もわかっていないくせに、正論を振りかざすアイツが無性に腹立たしかったから。
別に、白馬にそれについて理解を求めるつもりはない。
所詮、どうやっても相容れないことというのはあるものだ。
「・・・やれやれ、まだまだ修行が足りないね。」
キッドはそう零すと、そのまま闇夜に掻き消えたのだった。