キッドが例の屋上を去った後、新一は一人、ひっそりと帰宅した。
青い、けだるげな闇に閉ざされた空気だけが新一を出迎える。
ノロノロと靴を脱ぎ、そのまま自室に向かおうとして、ふとリビングを覗くと、テーブルの上に
置いたままの快斗のカップが月明かりに照らされていた。
冷静にそれを見つめる新一の瞳が、僅かに細くなる。
「・・・・・アイツ、もう帰ってこないかもしれないな。」
そう小さく呟いた。
そして、二階へと続く階段を一歩一歩上っていく。
その足取りは心持ち重い。
自室にたどり着くと、新一は上着を脱いで椅子の背に引っ掛け、ベットに腰を落とした。
部屋の明かりはつけておらず、ただ窓から淡い月の光だけが差し込んでいた。
新一は、おもむろにさっき脱いだばかりの上着を取ると、短銃をその胸ポケットから抜き去った。
・・・結局、コイツの出番はなかったか。
銀色に鈍く光るダブル・デリンジャーの弾倉から、手馴れた動作で弾を抜いていく。
そうして、銃をデスクの引出しの奥へとしまうと、窓の外の月を眺めた。
・・・・・共同戦線は終わりだ。
それは、新一の確信だった。
あの『RUM』というコードネームを持つ男の真意は、正直、今の段階では量ることはできない。
本気で「怪盗キッド」を迎え入れようとしているのかどうか。
そして、初代キッドが組織の一員であったという話も。
キッドが言うところのコードネームの件からして、あながちまったくのデタラメというわけでは
ないという予感はあるものの、断定するにはまだ早すぎる。
だが、それらが真実かどうかは、ともかく。
確かめる一番の手立ては、あの男の誘いに乗ること。
そうすることで、キッドは組織へと繋がる道を間違いなく確保できる。
もともとこの共同戦線は、お互いを上手く利用し合って、対組織のための有力な情報を得るためのモノ。
けれども、もうこれ以上、共同戦線を続けていく意味はなくなった。
新一を利用するまでもなく、キッドが最も有力な道を手に入れた現時点では。
ギブ&テイクで成り立っていたこの関係で、相手から得ようとする情報がなくなったら、それまで。
それでオシマイである。
最初から、そういう約束だったのだから。
・・・・・アイツ、行くんだろうな。 きっと。
引き合いに出された、初代キッドを殺した奴らの処遇の件もある。
それがキッドにとって魅力的な話であることは、新一もわかっていた。
たとえ、それが全部ウソでも。
たとえ、それがワナだっとしても。
それでも、『キッド』は敵のところへ飛び込む覚悟だろうと、新一は思っていた。
キッドの考えは充分すぎるほど、わかる。
新一とて、同じ立場だったら、そうするつもりだからだ。
先に待ち構えている道が、どれほど危険なものかはわからない。
それでも、確実に組織へと続く道なら・・・・!
・・・・・アイツは。
・・・・・行ってしまう。 ・・・・・一人で。
新一は、ギュッと拳を握り締めた。
アイツにとって、オレはもう必要がなくなったんだ。
だから、この関係は終わり。
最初から、わかりきっていたことだ。
何を今更・・・!
まさか、この先、ずっとアイツと一緒にやっていくつもりだったのか?!
・・・何をバカな事を、オレは・・・!!
冗談じゃねえっっ!!!
もともと、アイツが勝手に来て、勝手にいなくなるだけの話じゃないか!!
ただ、それだけのことだ!!
アイツにとってのオレの必要性だなんて、そんなもん、知ったことか!
・・・何を期待してたんだ!オレは!!
最悪だ!!!
新一は腰掛けていたベットに、そのままボスンと引っくり返った。
やり場の無い思いが体中を駆け巡り、イライラしながら天井を睨みつける。
苛立ちの原因が、混沌としていてよくわからない。
だが、腹を立てている相手がキッドだけでなく、自分自身でもあることに新一は気付いていた。
同じ頃。
白い衣装に包まれた怪盗は、とある高層タワーの頂上で茫洋と月を眺めていた。
右目をモノクルに隠されたその表情は、相変わらず飄然としている。
それは何か重大な決意を胸に秘めたようでもあり、逆にまるで何も考えていないようにも取れた。
相変わらずのポーカーフェイスであった。
「・・・さて。 行くか。」
口元に笑いを浮かべ、キッドは一気に頂上から身を投げる。
白い翼を広げ、夜空で大きく旋回すると、そのまま寝静まった街の方へ目指して飛んでいったのだった。
どのくらい時間が経ったのか。
ふと、外気が流れ込む気配に、新一は何気なく目を窓の方へ向けた。
開けっ放しになった窓から、涼しげな風が吹いてカーテンを揺らしている。
その向こうに、月の光を浴びて、銀色のシルエットだけがうっすらと浮かび上がった。
新一の蒼い目がはっきりとその人物を捕らえる。
もちろん、それは怪盗キッドだった。
+++ +++ +++
「・・・まだ起きてたんだ。」
音もさせずに部屋に忍び込んで来て、キッドはクスリと笑った。
そう言われて、新一は幾分ムッとした顔でキッドを見返す。
もともと、自分より組織へ一歩前進した、キッドへの苛立ちもなくはない。
「もしかして、オレを待っててくれたとか?」
「・・・ちげーよ、バカ!」
「・・・大体、お前、オレんちに帰ってくるなら、その格好はやめろって言ったろ?!
誰かに見られたら、どーしてくれるんだ!」
「そんなドジ踏まねーって。今までオレが、新一に迷惑をかけたことあった?」
・・・ナイけど。
悪びれずにニヤニヤするキッドが無性に腹立たしくて、新一はフイと顔を横に逸らした。
そんな新一を見、キッドはやや瞳を細めて笑う。
「・・・・・もうここに、帰ってこないかと思った?」
「・・・・・ああ、そうだな。」
短い沈黙が二人の間に落ちた。
やがて、新一は薄っすら笑いを浮かべて、ゆっくりとキッドの方へ向いて見せる。
「・・・・・行く・・・つもりなんだろう?」
その笑みは、いくらか自嘲気味だったかもしれない。
何より笑っている新一自身の胸が、締め付けられるように痛んだ。
対して、キッドは何も言わず、真っ直ぐに新一へとその眼差しを投げただけ。
だが、それを新一は肯定だと受け取った。
・・・やっぱりな。
コイツは、一人で行くつもりなんだ。
・・・わかってる。
そうする事が、今、コイツに出来る一番の・・・。
・・・でも・・・!!
新一は両手の拳をギュッと握り締めた。
「・・・信用するのか?奴の言った事を・・・。奴らが本気でお前を仲間にしようとしてるなんて・・・!」
「さぁ? でも、アイツらに限りなく接近できるチャンスだからね。」
「・・・初代キッドの事も気になってるんだろ?」
「それもある。」
あっさりと返すキッドに、新一はギリッと唇を噛み締めた。
伝えたい事はそんな事じゃないのに、上手く言葉がみつからない。
自分で自分がもどかしく、どうしようもなく腹が立って仕方が無かった。
そんな新一の様子を見ながら、キッドは苦笑する。
「・・・悪いけど、新一は連れて行けないよ?」
「べっ、別にオレは・・・っっ!!」
言いかけて、残りの言葉を新一は飲み込んだ。
代わりに、僅かに視線だけ逸らす。
「・・・・・好きにすればいいだろ?オレも好きにする。もともとそういう約束だ。」
新一の言葉に、キッドは僅かに目を細めた。
そして、穏やかに微笑むと、
「・・・そういうこと。 だから・・・。『共同戦線』は終わりだよ?新一。」
そう告げた。
弾かれたように、新一が顔を上げる。
想像どおりのキッド言葉なのに、何故か無性に胸が苦しくなった。
「・・・・・お前、これが本当にワナだったら、どうするつもりなんだ?
たった一人で敵の懐に飛び込んだ後じゃ、もうどこにも逃げ場はない。
・・・それでも・・・。 ・・・・そんな無茶を犯してでも、やっぱり行くつもりなのか?」
押し殺したような声でそう言う新一に、キッドはにっこりした。
「オヤ? いつも無茶ばかりをしてる『名探偵』に、そんなこと言われたくはないけどね。」
キッドの言うとおりである。
どちらかと言えば、後先考えずに無茶をするのはいつも新一の方で。
自分の無謀さを棚に上げて、何を言い出しているのかと、新一自身もその矛盾に笑った。
これからキッドのやろうとしていることへの理解は充分ある。
なのに、どうして?
それでも、溢れ出してしまった気持ちは止められない。
唐突に、新一は一つの結論に達した。
・・・もしかして、オレ・・・。
コイツを・・・一人で行かせたくない・・・?!
黙って見つめるキッドの瞳に捕らわれて、新一は反射的に瞳を逸らす。
そんな新一の心理を見透かすようにキッドは小さく笑った。
「・・・新一。 オレに行ってほしくないとか思ってる?」
「・・・そっ!そんなわけねーだろっっ!!何ほざいてんだ!てめーっ!!」
新一が真っ赤になって怒鳴ったので、ますますキッドはニヤニヤする。
床を軽く蹴って、一気に新一との間合いを詰めた。
「・・・なっ!」
慌てて身を引こうとした新一の腕を取って引き寄せると、その耳元に唇を持っていった。
「・・・オレと。 離れたくない?新一・・・。」
「何を言って・・・っっ!!」
大きく見開いた蒼い瞳に、自分の姿が映っているのを確認すると、キッドはそのまま自分の唇を
新一のそれへと重ねていく。
白いシルクハットが、静かな音を立てて、フローリングの床に落ちて転がった。
+++ +++ +++
・・・柔らかい。
人の唇って、こんなに柔らかいもんだっけ?
新一は妙なことに関心していた。
それは、驚きのあまり、正確な思考が定まっていないがゆえのことかもしれなかった。
なので、当然、次の対処が遅れる。
キッドの手が新一の肩にかかり、ゆっくりと体重をかけるようにされると、抵抗する間もなく
あっけないほど簡単に押し倒された。
ベットのスプリングが軋んで、その振動に新一は眉を寄せる。
押し当てられただけの唇はゆっくりと去り、吐息がかかるほどの距離のところにあるキッドの顔が
新一の目の前でニヤリと微笑んだ。
見慣れた怪盗のクソ生意気な笑顔。
それを見て。
ようやく、新一の頭脳は働き始め、正確に事態を把握する。
慌てて唇を拭い、力の限りキッドの胸を突っぱねて、真っ赤になって怒鳴った。
「・・・てっ、てめーーーっっ!!な、な、何しやがるっっ!!」
「何って、キス。」
「・・んなこと、わかるっっ!! 何で、そんなことするのかって聞いてんだっ!バカっっ!!」
「何でって、キスするのに理由なんて決まってるだろ?」
悪戯っぽくそう笑うキッドの胸と肩に両手を添えて、新一は精一杯、押し返す。
だが、キッドはそんな新一の抵抗をあっさりとかわして、新一の胸にコトンと頭を落とした。
柔らかいクセのある黒髪が、新一の頬に少しかかる。
くすぐったさから、新一は僅かに身じろぎした。
「・・・なっ、何なんだよ、お前、一体・・・・!」
新一の抗議の声に、キッドはくぐもった声で笑い、そのまま顔を上げずに言った。
「・・・・・あーあ。やっぱ、ヤメヤメ。 無理するのは体によろしくないからなぁ。」
「・・な、何が?」
キッドの言っていることの意味がわからない。
新一は、自分の胸元に頭を預けている怪盗の頭を引き起こして訊ねた。
「いやなに。こんなかわいい新一を残して行くのは、もったいないと思ってね。」
「・・・か、かわいいって、何だっ!!」
「そーゆートコ、全部。 全身でオレに行くなって言ってるみたいでさ。
新一にそんな風にされたら、オレが逆らえないのはわかってるんだろ?新一も大概、確信犯だよな。」
ニヤリとウインク一つ、キッドが笑う。
それを見て、新一は猛反撃をした。
「・・・どっ!どういう意味だ!てめー!!大体オレはお前を止めてなんかいねーぞ!」
「アレ?違うの?」
「ち、ちっ、違うっっ!!」
「ふーん? そう?」
真っ赤になって睨み返す新一を、キッドは面白そうに見やると、その頬に唇を寄せる。
「期待していいんだろう?新一・・・。」
「何をだっ!」
「オレを愛してくれてるってさ!」
「!!」
愛しているだと?!
このオレが?!
このフザけた怪盗を?!
新一は蒼い瞳を見開いてキッドを見つめる。
あまりにも自分とはかけ離れたキッドの発想に、ついていけない新一だった。
確かに。
一瞬でも、キッドと離れたくないと思った自分がいたことは認める。
でも、だからって。
オレがコイツを好きだなんて、そんなこと・・・・!!
そんなこと、今はまだわからないっっ!!!
「・・・かっ、勝手に勘違いするな!オレはお前を止めてもいないし、愛してなんかっ・・・・」
「そうかな?新一はたぶん、たぶんオレの事、愛してるよ。
だから、行かせたくないって思ったんだ。オレと離れたくないって、そう思ったろう?」
「・・・そんなっ・・・こっ!」
反論しようとした新一の唇は、再びキッドのそれに塞がれた。
先程のとは違う、もっと深く激しい口付けに、新一は言葉も吐息もすべて奪われてしまう。
キッドの唇が新一の白い喉を伝い、胸へ、そしてさらに下へと落ちていく。
進む行為に、新一は思考さえもままならない。
いや、最後は、新一は自分の意思で考える事を放棄したのかもしれなかった。
押し寄せる快感の波にこのまま流されて、このままどうなってもいいと。
甘い声をあげる新一の耳元で、キッドが囁く。
「・・・オレを引き止めるんなら、それなりの覚悟があるんだよな?」
その夜、キッドはまだ自分を愛しているか自覚のない新一を、だますように抱いた。
+++ +++ +++
まだ夜が明け切らない内に、蒼い瞳がゆっくりと光を取り戻す。
と、同時にすぐそばにある自分と良く似た顔の持ち主をジロリと睨みつけた。
「・・・おはよう、新一。って、言ってもまだ朝には早いよ。 もう少し寝た方がいい。」
新一のとなりで横になっていた快斗がにっこりと言う。
綿毛布からはみ出た上半身裸のその快斗の姿が、先程までの行為を思い起こさせて、
新一は顔を真っ赤にしてする。
「・・・・・・・テメェ。」
やっと発した新一の声は、ひどく掠れたものだった。
それを聞いて、快斗は苦笑する。
「・・・何?」
「・・・・・・・・もし、オレが目が覚めてお前がいなかったら、ぶっとばしてやるつもりだった。」
「それはコワイね。」
クスリと笑う快斗に、新一は舌打ちすると重い体をなんとか動かして、快斗の方へ向き直る。
「・・・・好き放題しやがって。人の体を何だと思ってやがる!」
「いや、悪い悪い。つい歯止めが効かなくってさ。」
「・・・大体、何であんなこと・・・。」
「そりゃ、好き同士なんだから当然でしょ?」
「・・・・・・・。好き同士・・・。ま、いいや。それについてはゆっくり考えることにする。
時間はたっぷりあるんだろう?」
「・・・・・そうだね。」
新一の問いに快斗は穏やかに笑った。
新一はその快斗の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「・・・・・お前、本当に行かないつもりなのか?」
「・・・・・ああ。もう決めた。」
そう微笑む快斗の瞳には真実の光しかなく。
それを見て、新一は再度、訊ねる。
「・・・・・いいのか?お前にとっては、またとないチャンスを潰す事になるかもしれないんだぞ?」
「いいんだよ。オレにとっては、もっと大事なもんを手に入れたからさ!」
快斗は屈託無く笑いかけ、新一の方に手を伸ばす。
だが、その手は軽く新一に叩かれた。
「・・・組織の事はどうするんだ?」
「ま、なんとかなるだろ。断ったら断ったで、何か向こうからアクションがあるかもしれないし・・・。
とりあえず、先の事は先の事。その時、また考えるさ。」
「・・・ったく、楽観的なヤツ。」
「まぁ、そう言うなって。新一こそ、実はオレを組織に売った方がよかったとは思わないのか?
組織に行ったオレから、有力な情報を得ようとか、そういう風には考えなかったわけ?」
快斗が逆にそう訊ねると、新一は目を僅かに細めて笑う。
「・・・まぁ、確かに考えなくもないけどな。組織に行ったお前が、オレにわざわざ情報を運んでくれるか
どうかは、アヤシイもんだろ。」
「そりゃそうだ。」
お互いニヤリとしながら、見詰め合うことしばし。
それから、小さく声を上げて二人とも笑い出した。
「・・・親父のことも別にいいんだ。 もし、本当に組織の人間だったとしても、オレにはいい親父だったし。
だから、オレは親父を信じたい。」
「・・・・・そうか。」
「もしかして、すっごい悪人だったとしてもね。」
快斗の言葉に新一は優しく頷いた。
すると、突然快斗はボスンと勢いつけて、体をベットに沈ませる。
と、同時に横にいる新一もギュッと抱きしめた。
「とりあえず、まだ夜明けまで時間はあるし。もうひと眠りしようぜ!」
「・・・え?あ、おいっ・・・!」
ハネ除けようとする新一の手をいとも簡単に振り払って、快斗はしっかりと離さない。
どうにもこうにも剥がれない快斗に、新一は観念したように目を閉じた。
心地良い快斗の温もりが、すぐさま新一の眠気を呼び起こす。
そのまま、新一は穏やかに眠りについた。
新一の優しい寝息を確認しながら、快斗は微笑む。
そして、その唇を新一の柔らかい新一の黒髪へと優しく落とした。
「大丈夫。 新一をおいてオレはどこにも行かないからさ。 だから新一もオレの傍にいて。」
その声は新一には届かなかったけれど。
心はしっかりと届いていた。
そう。
確実に。