ハァ、ハァと荒い自分の息遣いだけが、妙に耳につく。
もう何も考えられなかった。
勝手に足が動き出して、棋院を飛び出していた。
背中で天野さんや奈瀬の声がしたような気がしたけど、振り返る余裕なんてなかった。
行き交う人の波と逆流しているオレは、人とぶつかり突き飛ばされながらもひたすらタクシー乗り場まで全力で走った。
そのまま、運良く空いていた一台に滑り込むように乗り込む。
「・・・都立総合病院までっっ!!」
行き先を告げる自分の声は、ひどく落ち着きのないもので。
運転手に驚きの表情で振り返られたりもしたけど、そんなこと構わない。
オレは、「急いで」と付け足すと、ようやく後部座席のソファに体を沈めた。
塔矢は今日は都内でイベントだったらしい。
主催者側が用意した車が、アイツを家まで迎えに行ったということだったが。
“塔矢君の乗った車が交通事故に巻き込まれたらしいんだ!”
“病院に運び込まれたというだけで、まだ塔矢君の具合までは―――・・・・”
天野さんの言った言葉が、頭の中でぐるぐると回る。
嫌な汗がオレの背を伝った。
―――事故っ?!
塔矢の乗った車が??!
・・・・・・塔矢っっ!!!
オレはぎゅっと目をつぶった。
頭を掠めるのは、塔矢の顔。
碁を打つときの真剣な眼差し。
オレと検討している時の小難しい表情。
―――そして。
夜、オレにだけ見せる甘く優しい顔。
だけど、最後に見たのは。
・・・ひどく悲しそうな顔したアイツ。
オレを好きだと言ってくれた塔矢を拒絶して、理由も告げずに傷つけた。
このまま一緒にいたら、アイツと離れられなくなりそうで。
塔矢を失うのが怖くて。
だから、そうなる前に自分から別れを決意した。
オレの中に佐為を探そうとしている塔矢にも、諦めてもらうにはいい機会だと思ったから。
なのに―――!!
膝の上でぐっと握り締めた拳に、短い爪が食い込む。
心臓が高鳴った。
胸の中に溢れ出すのは、どうしようもない焦りと不安。
今と同じこの気持ちを、オレは一度味わった事がある。
―――そう。
それは、佐為がオレの前から消えてしまったあの瞬間から。
じーちゃんの蔵、棋院、因島、そして巣鴨の本妙寺まで必死で佐為を探し回ったあの時。
佐為が本当に消えたなんて、認めたくなくて。
どこかにきっとアイツがいてくれると、そう信じていたくて。
それこそ、神様にすがるような気持ちだった。
それでも。
どんなに望んでも、叶わなかった願い。
佐為は消えてしまった。
そして、今。
もし、佐為と同じ様に、塔矢とも二度と会うことができなかったら―――・・・っ!!
どうしようもない恐怖だった。
また同じ思いをするのかと思うと。
また同じ過ちを犯したのかと思うと。
胸の中にどっと押し寄せる不安の波に、飲み込まれそうになる。
だから、オレは願わずにはいられなかった。
たとえ、自分の願いを都合よく聞いてくれる神様なんて、この世にいないのだとわかっていても。
どうか。
お願いだから、塔矢を連れて行かないで。
オレから、塔矢まで奪ったりしないで―――と。
○●○○●● ○●○ ○○●○●○
「・・・塔矢っっ・・・・!!」
ノックもせずに飛び込んだ病室の向こうでオレを出迎えたのは、塔矢のお母さんだった。
驚いたようにオレを見る。
「し、進藤君?!」
「・・・あっ、あのすみませんっっ!!塔矢が・・・事故にあったって聞いて、オレ・・・・っっ!!」
塔矢のいるだろうベットは、カーテンに隠れてその姿を確認する事はできない。
それが余計にオレを不安にさせた。
けれども、そのオレの焦り具合と顔色の悪さを見て取ったのか、塔矢のお母さんは塔矢に似た優しい面持ちでオレを安心させるように微笑んだ。
「進藤君、アキラを心配してきてくれたの?ありがとう。アキラは大丈夫よ。」
と、塔矢のお母さんがそう言った時、カーテンの向こうで声がした。
それは久々に聞く塔矢の声だった。
「・・・進藤?」
「塔矢っっ・・・・・・・!!」
すっと開いたカーテンの先に、ベットから身を起こしている塔矢がいた。
その左腕は白い包帯で巻かれ、肩から吊るされている姿が痛々しい。
けれど、他にケガをしている様子は見られなかった。
オレを見つめる塔矢の顔もその瞳も何一つ変わらない。
塔矢は―――。
間違いなくそこにいた。
佐為のようにオレの前から消えたりしてはいなかった。
良かった。
素直にそう思った。
「・・・・・・良かった・・・・・・。」
今度はオレは声に出してそう呟くと、そのままその場所にヘナヘナとしゃがみこむ。
さっきまで胸の中に渦巻いていた不安が消えていく代わりに、何か別の温かいものがこみ上げて来る。
ほっとしたからかもしれない。
気を許したら、迂闊にも泣いてしまいそうで。
だから、オレは必死で耐えた。
「進藤?!」
「進藤君?どうしたの?どこか具合でも悪いの?!」
オレのことを気遣って声をかけてくれる塔矢と塔矢のお母さんに、オレはただただ首を横に振るだけで、それ以上、何も言葉を言う事ができない。
「・・・お母さん、悪いけど少し外してもらえるかな?進藤と二人で話をしたいんだ。」
俯いたオレの頭の上で、塔矢がそう言うのが聞こえた。
と、塔矢のお母さんはそれに優しく頷くと、そのまま病室を後にする。
扉が静かに閉まる音がすると、オレと塔矢の間には静寂が訪れた。
「・・・進藤。」
名前を呼ばれて顔を上げた先には、塔矢の優しい眼差しがあった。
そんな塔矢を見て、オレは少し自分を取り戻す。
慌てて床から立ち上がって、塔矢のいるベットまで駆け寄った。
「・・・塔矢。塔矢、お前っ、大丈夫なのかっっ?!ケガは?!」
「・・・大丈夫。右腕はちゃんと無事だから碁を打つことも出来るし。左腕もこんな大げさに包帯を巻かれているけど、大したことはないんだ。心配はいらないよ。」
「他は?どこもケガはないのか?!」
「あちこち打撲はあるとは思うが・・・。でも本当に大丈夫なんだ。僕のこと、心配してくれたのか?進藤・・・。」
そう柔らかく塔矢に微笑まれて、オレは気恥ずかしくなり思わず目を逸らす。
そんなオレの素振りを目に映し、塔矢は口元を緩めた。
「・・・・・・ありがとう、進藤。まさか、君が来てくれるとは思わなかった。」
「・・・塔矢。塔矢、オレ・・・・っ。」
何て言っていいか、わからなかった。
言いたいことはたくさんあったはずなのに、言葉が上手く出てこない。
「久しぶりだね。君とこうして話をするのは―――。」
オレの言葉を待たずして、塔矢の口からはそう零れる。
確かにそうだった。
こないだ、オレが一方的に別れを告げてから塔矢とは口を利くどころか、顔を合わせる機会すらなかった。
そう思うと、少々バツの悪さを感じずにはいられない。
正直、ケンカ別れのような形で終わっていたわけだし。
すると、塔矢は白い包帯に包まれた左腕をそっと撫でながら言う。
「・・・今回、幸いなことにこんなケガですんだけど、それでも事故にあった瞬間は、死ぬかもしれないって本当に思ったりもした。これで最後かもしれないと思った時、頭に浮かんだのは君のことだったよ?」
「・・・・塔矢。」
「こないだ、君とあんな別れ方をしたままになっていたことを後悔した。なぜ、もっと君の気持ちをちゃんと聞かなかったのか。そして、どうしてもっと自分の気持ちをちゃんと君に伝えなかったのかと・・・。」
驚いた。
まさか、塔矢がそんな風に思っていてくれているなんて。
だって、別れを決めたのはオレだ。 しかも自分の勝手で、一方的に。
「何・・言ってんだよ、塔矢!お前は何にも悪くない!!オレが・・・・っ。全部、オレが勝手に決めたことだろ!」
「―――それでも、話し合う余地はあったはずなんだ。なのに、僕はそれを怠った。自分の感情に流されて、君にきちんと自分の気持ちを伝える事ができなかったんだ。君にもう会えないのかもしれないと思った時、そんな自分をひどく呪った。」
塔矢はとても辛そうにそう言った。
塔矢の言うことはとてもよくわかった。
―――アイツにもっと打たせてやればよかった!!
―――オレなんか、いらない!!
佐為を失った時、そう後悔した。
だけど、すべてはもう遅い。 時間は戻ってくれたりはしない。
―――塔矢もオレと同じ気持ちだった?
胸につかえていたものが、すっと取れていくようなそんな気がした。
「・・・・・オレだって・・・・。オレだって、お前と別れるって言ったけど、だけど、別に一生会わないつもりで別れたんじゃない。お前に伝えたい言葉だってまだあるし、本当はオレっ・・・。
」
そこまで、思ってはッとした。
そう。
本当は、オレ―――。
塔矢の瞳がじっとオレを真っ直ぐに捉えている。
オレもそんな塔矢を改めて見つめ直すと、一つ呼吸してから次の言葉を言った。
「・・・・塔矢とはずっと会いたいし、ずっとお前と打っていきたい。」
離れたくない。
ずっと一緒にいたい。
佐為にもそう言ってやりたかった。
アイツには、本当の気持ちを伝える時間はなかったから。
だから、せめて塔矢には本当の気持ちを伝えたい。
「・・・オレ、塔矢と一緒にいたいよ・・・。」
「・・・進藤。」
「お前が―――。」
不意に周りの景色がぼやけて、頬を熱いものが伝う。
それが自分の涙だなんて、そのときは気づかなかった。
「・・・お前がオレじゃなくて、本当は佐為と打ちたがっているんだとしても・・・。それでも構わないから・・・っ。だから・・・っ!」
そこまで言った時、塔矢の右手がグッとオレの腕を掴んで引き寄せる。
思わずベットに倒れこむような形になったオレは、塔矢の胸に収まった。
「・・・進藤。君は思い違いをしているよ。」
「え?」
「確かに、僕は君とsaiの関係は知らないし、saiの正体に興味がないと言えば嘘になる。だけどね、進藤。2年4ヶ月ぶりに君と対局したあの日、僕が何と言ったか、君は忘れてしまったのか?」
あの日、塔矢が言ったこと―――。
それは、“君の中にsaiがいる” と、いう実に確信をついた言葉だった。
実際には、佐為はもうその時オレの中にはいなかったけど。
だけど、オレの碁の中に佐為がいると、塔矢はそう見破った。
「君はsaiではない。だけど、君の中に間違いなくsaiがいる。そして、僕はそんな君が好きになったんだ。君の中にある謎の部分も含めて、全部だ。」
「・・・・塔矢。」
「僕がずっと打っていきたいのは、進藤、君だよ。」
そう言って、塔矢は自由になる右手だけでオレを強く抱きしめてくれた。
オレは。
なんだかわからないけど、ただうれしくて。
たまらなく塔矢が愛しくて。
オレは自分から塔矢に唇を重ねた。
気持ちが通じ合うっていうのは、きっとこういうことを言うんだと初めてわかったような気がした。
○●○○●● ○●○ ○○●○●○
その夜、オレは久々に佐為に会った。
もちろん、夢の中だ。
実は、佐為の夢はあまり見ない。
オレがどんなに会いたいと願っても、アイツはそう簡単には現れてはくれないから。
佐為に夢で会ったのは、そう。
塔矢と2年4ヶ月ぶりに対局をした後、あの時以来だった。
あの時と同じ様に、佐為は明るい光に包まれてただじっと何も言わずにオレを見つめている。
佐為は相変わらず美しかった。
―――佐為、佐為!
お前、会いに来てくれたんだ!?
久しぶりだな。 お前、ちっとも会いに来てくれないから、オレ、寂しかったんだぜ?
言いながら、少し目頭が熱くなるのを感じて、一生懸命こらえる。
佐為に泣き顔を見せたくなかった。
佐為は何も言わない。
長い髪が、穏やかな風に揺れているだけだ。
・・・・なぁ、佐為。
お前はとっくに知ってるかもしれないけど、オレ、塔矢といろいろあってさ・・・。
アイツと一緒に居られて、最初はうれしかったんだけど、その内、不安になっちゃってさ。
また、お前が消えた時みたいになっちゃたら、どうしようって、そればっかり考えてて・・・。
―――オレ、バカだよな。
自分の気持ち、誤魔化して塔矢から逃げたんだ。
・・・・オレ、また後悔するところだった。
そう言って、オレは佐為の顔を見上げる。確認をするように。
佐為は、黙ってオレの話を聞いてくれているようだった。
・・・・・佐為。
なぁ、佐為。
塔矢がさ。
オレの中にいるお前も含めて、全部、オレのこと好きっだってさ。
お前もうれしい?
オレは、塔矢がそう言ってくれて、本当にうれしかった。
・・・うれしかったんだ。
佐為―――。
オレ、塔矢と一緒に居ていいかな?
これからもずっと、アイツと一緒に碁を打っていきたいんだ。
これが今のオレの正直な気持ちで。
ちゃんと、それをアイツにも伝えたよ。
佐為。
お前にも―――。
お前にも、ちゃんと伝えたかったな。
お前が消えて、オレの傍から居なくなる前に。
お前とずっと一緒に居たいって。
お前のことが大好きだって。
さわやかな風がオレの前髪をさらう。
同じ様に、佐為の長い髪が風になびいて。
オレを見つめる佐為の瞳が優しい色を灯す。
その薄い唇が僅かに上に持ち上がり。
佐為は。
穏やかに微笑んだ。
何も言わなかったけれど。
だけど、オレの心の中には。
“知っていますよ、ヒカル”
そう言ってくれたように聞こえたんだ。
○●○○●● ○●○ ○○●○●○
「お〜い!進藤!!晩飯、一緒にファミレスで食ってくか?伊角さんも来ることになっててさ、その後、オレの部屋で勉強会しよっかってことになってんだけど。」
棋院のエレベーター前、背中越しに聞こえた和谷の声にオレは振り返る。
見ると、和谷がちょうどけた箱で靴を履いているところだった。
「わりィ、和谷。オレ、これから用事があるからさ・・・。また今度誘ってよ。」
苦笑しながら、エレベーターに乗り込もうとしたオレは、その肩をグイっと引っ張られて一台乗り過ごすハメになる。
「・・・あ〜ん?オレ様の誘いを断るとはどういうことだ?おい、進藤!お前、これからどこに行くつもりだよ?!」
「・・・い、いや、えっと―・・・。」
「・・・・・お前、まさか、塔矢の碁会所か?」
・・・するどい。
和谷って、昔から思うけど、結構するどいんだよな〜・・・。
よくよく考えると、オレを佐為かと最初に疑ったのって、和谷じゃなかったっけ?
オレはそんな今更どうでもいいことを思い出しつつ、どう和谷から逃げようか考える。
「進藤、お前、もう塔矢とはつるまないって、こないだ言ってなかったか?」
「う、う〜ん、まぁそうなんだけど・・・。」
「・・・これは、やっぱ森下先生に一言注意してもらった方が良さそうだな。」
「あ、何なら、和谷達も一緒に塔矢の碁会所で打てば?塔矢門下の人たちもいっぱい来てるし、違った意味で勉強になるかもしれないじゃん!」
「バカ、お前、何言ってんだ!んなマネできっこないだろ?!!」
「何で?ヘーキだよ。別にさ。門下とか派閥とかそんなの関係ないって。打ちたい奴と打てるのが一番だとオレは思うけどな。」
「・・・・なっ!」
思わず言葉を失った和谷を、オレはトンと突き飛ばす。
そのまま、ちょうどよく現れたエレベーターに飛び乗って。
あんぐりと口を開けた和谷に、ペロリと舌を出してそのまま手を振った。
「だから、何だ、その手は!そこは右から当てるのが当然だろう!?」
「何でだよ!先にこっちをヒイたって、別に問題ねーだろ!?」
「それが結果として、白を有利な形勢に持ち込んでいるじゃないか!それが君の敗因だ!」
「なっにィィィ〜〜〜っ!!」
碁盤をひっくり返して、立ち上がってやろうかと思った時、「はい」と手元にお茶を差し出される。
市川さんだった。
「・・・どうぞ。」
「どうも!!」
フン!勢いづいたままお茶を受け取り、そのままごくごくと飲み干す・・・には、少々熱いお茶だったが。
「塔矢君も、お茶、ここに置くわね。」
「・・・ありがとうございます。」
塔矢は笑顔でそう返す。
ケ☆!
ナニが“ありがとうございます”だ! この猫っかぶり野郎め!
オレには散々、ボロボロにけなすようなことを言っておいて。
オレは塔矢を睨みつけながら、出されたお茶菓子にも手を出す。
塔矢はそんなオレを丸っきり無視した状態で、優雅にお茶を口に運んでいた。
オレ達の間でしばし立ちすくんでいた市川さんは、お盆を左手に持ち返ると、口元を緩めてクスリと笑った。
「・・・にしても。こないだまで進藤君が来なくて、二人のケンカが見られなくて寂しいなんて言ってた自分を反省するわ。まったく、いざ始まるとなると気が気じゃないんだもの。今日だって、初めていらしたお客さんが二人に驚いて帰っちゃうし・・・。」
「ごめんなさい、市川さん。つい力が入ってしまって・・・。ほら、君も謝れ、進藤。」
「お前がオレを怒らせるような言い方しなけりゃ、いいんだよ!」
「なんだと?!」
「ほらほら、二人とも〜・・・・」
鼻息荒くするオレ達二人の前に、市川さんは困ったような顔をしながらも、ちょっと楽しそうに笑ってる。
ともすれば、碁会所中の客達がオレ達の席の周りに集まって。
なんだか、面白いものを見るようにオレ達を眺めていた。
こんな風に碁盤を挟んで塔矢と向き合う時は、いつも同じ事の繰り返し。
だけど、これがオレ達の日常で。
オレにとっては、かけがえのない大事なもの。
塔矢も。
そして、もちろん囲碁も。
佐為。
なぁ、佐為。
オレと塔矢はこんなだけどさ。
これからも二人でずっと一緒に打っていくんだ。
そして、いつかお前が目指していた神の一手に届くように。
二人で一緒に目指していくから―――
だから、お前も見ててよ。
ずっと、その空の上で。
どんなに遠く 離れていても
僕らはいつでもそばにいる
例えば君が くじけそうな日には
愛している人がいることを
思い出して
どんなに遠く 離れていても
僕らは同じ空の下で
いつかあの日 夢見た場所へと
旅している同志だって事を
忘れないで
●○○●● The End