キッドがさっき椅子を叩きつけて割った窓から、涼しい夜風が舞い込んでいた。
レースのカーテンが踊るように揺れている。
月明かりを背にして立つ金の髪の殺人鬼は、相変わらず何の感情も持ち合わせていないようなガラス玉の瞳を、真っ直ぐにオレに向けていた。
細い眉が僅かに寄せられ、赤い唇が薄く開く。
嫌な笑いだ。
「・・・ずいぶんと面白いことを言う。名探偵がオレと一緒に来る代わりに、この場はキッドを諦めろだと?」
「───そうだ。」
「それは友情か?何の役にも立たないな。」
ビスク・ドールがオレを見下したように、鼻で笑う。
オレは銃を手放して空になった右手を、強く握り締めた。
───友情?
いや、オレとキッドはそういうんじゃない。
・・・・だけど。
今ここで、このまま二人死ぬよりはマシだ。
オレは小さく息をつくと、そのままゆっくりとした動作で立ち上がった。
背後で気を失ったキッドは倒れたまま、動かない。
ビスク・ドールは唇をやや上へ持ち上げて、オレに近づいて来る。
やがて、もう手の届くところまでやってきた殺人鬼を、オレはただじっと見つめた。
こんなにじっくりとヤツを見るのは、初めてだったかもしれない。
だからなのか、愚問だと思いつつ、つい頭を過ぎった事がそのまま口から出てしまった。
「・・・・・人を殺す時、一体、何を考えている?」
「何も。」
「殺した人のことを、覚えているか?」
「そんなもの、いちいち覚えていられるか。取るに足らない命だろう?」
・・・のヤロウ!
思うよりも先に、気づいたらオレは右足を大きく振り上げていた。
が、瞬間、鈍い音。
オレのそのとっさの攻撃は、ヤツの左腕一本でガードされてしまう。
蹴り上げたままのオレの足は、やがてヤツの腕に簡単に押し戻されてしまった。
クソっっ!!
オレは怒りに任せて、体を捻る。
1ターンで、再度蹴りを繰り出した。
だが、狙いはヤツじゃない。
テーブルの上に乗ったままのアタッシュケース。
『矢車菊の青』と引き換えに、ヤツが得たはずの大金が入っているに違いなかった。
今度はオレの黄金の右足はクリーンヒットした。
ロックされていなかったのか、アタッシュケースは蹴られた拍子に口を開き、札束をばら撒きながら、上手い具合にさっきキッドが破った窓から落ちて行く。
ザマーミロっ!
そう思って、オレはニヤリとしたが。
目の前に立つ殺人鬼は刺すように、オレを睨みつけていた。
「・・・大人しくついて来るんじゃなかったのか?」
・・・・しまった。 つい・・・。
「その右足はジャマだな。これ以上、何かされても面倒だ。切っておくか。」
ナイフを翳しながら、赤い唇が物騒なことを言い出す。
オレは、ゴクリと息を呑んだ。
───やばい。 どうする??!
オレは、僅かに後ずさりする。
すると。
突然、オレはガシっと体に後ろから何かがぶつかるような、激しい衝撃を受けた。
え・・・・っ!?
そう思った時には、オレの体はふわりと持ち上がり、移動した。
一瞬、何が起きたのか理解できなかったが、自分の体を支えているのがキッドの腕であるのをオレは見た。
・・・・・キッドっっ??!
オレはヤツの顔を見る。
───お前、何のマネだっ??!
キッドに抱きかかえられるような格好のままで、オレは思った。
が、視界に映った景色に、目を見開く。
迫り来るのは、大きく割れた窓の外。
あ・・・っ!と思う間もなく、オレはキッドと一緒にホテル最上階の部屋の窓から身を投げ出していた。
いや、正確にはキッドによって投げ出されていた・・・のだが。
・・・う・・・わっっ・・・・・!!
ものすごい加速度とともに、オレはキッドと真っ逆様。
オレは夜空へダイブしていたのだった。
+++ +++ +++
───落ちるっっ!!!
依然として、オレ達の体は重力に引かれて落ちていく。
キッドがハングライダーを使用するのに、ある程度の加速度が必要だとしても、ここまで落ちる必要なないだろう。
・・・っていうか、お前、グライダー、使う気あるんだろうな???
───と。
カシャンと金属音が響いたと思うと、瞬間、フワリと体が浮いて、オレはキッドの背に白い翼が広がったのを確認した。
だが、それもつかの間。
オレには、空中浮遊するのを味わう時間はなかった。
次の瞬間、ドボンという激しい水音。
ゴボゴボっっ!
真っ暗闇な水の世界に、自分の吐いた息の白い泡だけが見える。
オレは慌てて水をかき、何とか水面に出た。
ぷはっ!と、息をつき、辺りを見渡す。
・・・ここはっ! プールか・・・!
オレは上を見上げた。
そこは、オレ達がいたはずのVIPのルームから、5階ほど下に位置する。
ホテルの高層階に確かVIP専用のプールがあったことを、オレは思い出した。
キッドのヤツは、部屋から飛び降りてこのプールに着水したのだ。
水面を良く見ると、さっきオレが蹴り飛ばしたアタッシュケースもここに落ちたのか、ドル紙幣があちらこちらに浮いていた。
・・・・そうだ、キッドは??!
慌てて周囲を見渡すと、少し離れたところに一つの影を見つけた。
それが水面に漂っているのではなく、間違いなくちゃんと立っている姿だったので、オレはちょっと胸を撫で下ろしたが。
「キッド!」
ザバザバと水音を立てながら、キッドの方に近寄る。
ヤツは水面に浮かんだシルクハットを取り、水気を払って被りなおすと改めてオレを見た。
その顔はニヤリと笑っている。
「テメー、どういうつもりだ?!」
「どういうつもりも何も。名探偵が無茶な事するからだろ?それとも名探偵は右足を切られた上に、アイツについて行きたかったのか?」
・・・コイツ! 倒れてたクセに意識はあったのか?
オレとビスク・ドールの会話をしっかり聞いてやがるキッドに、目を見開いた。
「・・・ばーろーっ!大体、お前がぶっ倒れたりするから・・・っ!あの場はああでも言わなきゃ、他に助かる道はなかったんだよっ!」
オレの台詞に、キッドは“まぁ確かに”と頷く。
「──だけど、自分を犠牲にするなんてやり方は、あまり感心しないね。」
そう言って、その顔をオレにぐっと近づけて笑った。
いや、正確に言えば、ヤツのその目は笑ってはいない。
少し怒っているのかもしれなかった。
けど、オレにだって言い分はあるぞ?
「仕方ねーだろ?ぶっ倒れてるお前をヤツに引き渡すなんてマネしたら、寝覚めが悪そうだしな。」
もとはと言えば、お前がぶっ倒れるのが悪い。
オレもなんだか腹立たしくなって、キッドを睨みつける。
わかってる。
コイツは、オレに庇われたと思って、それが気に入らないんだろうけど・・・・。
オレは──。
キッドを庇うなんてことは、あの場では特に考えていなかった。
気づいたら、そうしていた。
ただそれだけのことだ。
ふぅと溜息を漏らし、頭を切り変える。
今は、そんなことをコイツと論じ合ってる場合じゃない。
「──それより、これからどうするつもりだ?」
オレは、さっきまでいた最上階の部屋を振り仰ぐ。
割れた窓辺の傍に立つ人影は、じっとこちらを真っ直ぐに見下ろしていた。
ビスク・ドールにはキッドのような飛行手段はないから、今すぐここへ飛び降りてくるなんてことは不可能だ。
電気系統がイカれているので、エレベーターも使用できないとなると、ヤツがここへ来るには非常階段を使うしかないが。
もうそろそろ同じ経路で、警察が向かっている頃だろう。
いくらヤツがずば抜けた殺傷能力を持っていようが、一度に殺れる人数には限界もあるはず。
だとすれば、不用意に大勢の警察の前に現れるなんてリスクを冒す可能性は低い。
・・・・と、言うことは、だ。
とりあえずは、ヤツの魔の手から逃げ切れたと喜んでいいのか?
いや、まぁ逃げっぱなしでは、ヤツとの決着がついたとは言えないが。
と、キッドがポケットから何やらスイッチのようなものを取り出して見せた。
・・・・・何だ?
オレはいぶかしげに眉を寄せた。
「何かしたのか?」
「これからするのさ。」
言いながら、キッドはにっこりそのスイッチを押した。
+++ +++ +++
瞬間、ポンと音が弾ける。
見上げると、最上階のビスク・ドールの部屋から僅かに煙が舞い上がっていた。
窓辺に居たはずの殺人鬼の人影は、白い煙に隠れて見えない。
何が起きたんだ?!
眼を見張るオレの視界を、今度は眩しい光が奪った。
それは轟音とともに現れたFBIのヘリによるライトだった。
「ナイスタイミング♪ 警察とFBIの突入が開始されたかな。これも名探偵が手引きしてくれたおかげだね。」
「お前、何をしたんだ?」
「いや、なに。せっかくだから、アイツが警察に大人しく捕まったりしないかなぁと思って、ちょっと動きを拘束させてもらったり。」
「拘束?」
「そ。さっきあの部屋であちこち飛び回ってる時に、網をしかけてみたんだよね。一応ナイフでも切れない特殊性。」
「・・・・じゃあ・・・・。」
オレはもう一度、ビスク・ドールの部屋を見上げた。
煙が収まりかけたその部屋には、FBI捜査官らが屋上から続々と進入し、なんだか物々しくなっていた。
部屋の詳しい様子は、オレ達の居る場所からは窺い知ることは出来ない。
「──さてと。」
区切りをつけるように、キッドが一呼吸置いてプールから上がった。
オレもそれを目で追いつつ、プールサイドに手をかけるとキッドが血に濡れていない方の手をオレに貸した。
「じゃあ、ビスク・ドールのことは警察の方々にお願いするとして。とりあえずは、アイツから無事逃げ切れたということで、ヨシとしようか。」
ヤレヤレと苦笑するキッドに、オレも唇の端を持ち上げる。
「・・・・こんなんで、アイツに勝ったとは言えねーだろうけどな。」
「でもまぁ、オレ達が無事で、かつヤツについて行かずに済んだことを思えば、事実上の負けにはなってはいないって。」
・・・・・・まぁ、そうだ。
オレはほっと息を漏らして、プールの水面に浮かぶドル紙幣を見やった。
「一応、『矢車菊の青』の取引を、ぶっ潰してやったことには違いないしな。」
「そうそう。」
キッドはにっこりと笑い、それから水に濡れたマントをバサっと大きく翻した。
「どこ行くんだ?」
今にも、この場を去ろうとしているキッドに、オレは声をかけた。
「どこって。オレの仕事、忘れた?」
──あ・・・! 『矢車菊の青』!
怪盗であるコイツの目的が、石の奪還であったことをオレは思い出した。
と、同時に、キッドが求めるその宝石が今、どこにあるのかも。
オレは、自分のポケットに手を当てる。
濡れた布地の下には、しっかりとその存在を主張する硬い石。
しばし固まったオレに、キッドはどうした?と言いたげに見つめ返してくる。
そのキッドの視線をオレは僅かにかわすと、ポケットからソレを取り出して、自分の右手の掌に乗せ、ヤツの目の前に差し出した。
オレの掌には、美しく輝くブルーサファイア。
瞬間、キッドの目が見開く。
が、次にはニヤリと笑みを浮かべて。
「まさか、名探偵が本当にオレの仕事の助手をしてくれるとはね。」
「・・・バーローっ。んなわけねーだろ?これは偶然だ!」
「へぇ?そうなんだ?」
「だからっっ!これは、ヴィンセントの奴らとやりあった時に、偶然拾っただけで・・・っ!」
「ありがとう。」
「──別に、お前にやるとは言ってない。とりあえず、ビスク・ドールやヴィンセント達にはこの石は渡せないと思っただけだ。」
ニコニコしている怪盗に、オレは掌に乗せたままだった蒼く光る石を軽く握るとその腕をヤツの前から引いてみせるつもりだった。
・・・が、それは叶わない。
オレの右腕をキッドが捕まえていた。
引くつもりだった腕が、逆にキッドに引き寄せられる。
とたんに、あろうことかキッドの野郎、オレのその右手に唇を押し付けやがった!
「うわっ!何しやがるっっ!!」
そう叫んだ時には、オレの手から既に石は奪われて。
キッドの右目がモノクル越しにもニヤついているのが見えた。
「ありがたく頂戴させていただくよ、名探偵。」
「・・・のやろうっ!」
オレがそう舌打ちした時、上空を飛んでいたヘリのサーチライトが、オレ達のいるプールへと向けられた。
「・・・おっと。これ以上の長居は禁物。とりあえず、ここから退散した方が良さそうだ。ほら、行くぞ!名探偵!!」
言いながら、キッドがまた白い翼を広げると、オレに有無を言わせぬ状態で抱え込む。
そうして。
オレ達は死闘の場であった、MGMグランドホテルをあとにしたのだった。
+++ +++ +++
──結局。
『矢車菊の青』は、キッドの求めている石ではなかった。
「・・・・・それで?あの殺人鬼相手に、わざわざ毒に侵された体を押してまで奪いに行った宝石が、お目当ての物じゃなかっただなんて、とんだ笑い話にしか思えないけど?」
ホテル・ヴェネチアン。
ベットに沈む怪盗を前に、そこまで辛辣な言葉を吐けるのは灰原しかいない。
彼女は、キッドの脈を取りながら冷ややかにそう告げていた。
「ま、まぁまぁ哀君。とりあえず、二人ともそう酷いケガもなく無事に帰ってきたことじゃし、良かったって言うことで・・・・。」
「甘いわね、博士。今回も彼らが生きて帰ってこれたのは、単に運が良かっただけ。いつまでもそうラッキーが続くわけなんかないんだから。」
灰原がピシャリと言い切ると、博士も首を竦めるしかない。
早々に手当てが済んでいたオレは、ソファに腰掛けて横たわるキッドを見ていた。
キッドと言えば。
MGMでビスク・ドールとやりあってきた時が体調不良のピークだったようで、その後は割りとピンピンしていた。
今も、灰原の言葉にベロなんか出しているし。
「まぁ、確かにこのブルーサファイアがオレの目当ての石じゃなかったのは、残念なんだけど。とりあえずは、怪盗として自分の獲物を奪われたままでいるわけには、いかなかったんでね。」
キッドが笑う。
灰原は赤毛を揺らして、溜息をついた。
「リベンジのつもり?バカげてるわ。」
「そう言われると、返す言葉がないなぁ。」
ポリポリと頭をかいて見せるキッドに、灰原は二度目の溜息をつくと、今度はオレを振り返った。
やべ・・・! 矛先がこっちに向いてきやがった。
「・・・・・・・・貴方もよ? 工藤君。」
「わかってるって。今回も結果オーライなっただけってことはな。ま、オレだって、もうこれ以上ビスク・ドールと関わりたくねーし、今回で最後にできればって思ってる。」
オレの言葉に、灰原が眉を寄せた。
「でも、ビスク・ドールが逮捕されただなんて公式発表は、まだされていないわよ?本当に貴方達の思惑どおり、彼が捕まったかどうか、わからないじゃない?」
そのとおりだった。
可能性から言って、ビスク・ドールが逮捕されたとは考えにくい。
これでは、決着がついたとは言えないだろうな。
オレは腕組みして、小さく息を吐いた。
そんなオレの目の前に、博士がコーヒーを差し出してくれた。
「まぁ、しかしじゃ。ラスベガスを根城に悪事を働いていたヴィンセント一味を一網打尽にすることができたんじゃ。それだけでも大した功績じゃとは思うが。」
なぁ、新一?と言わんばかりに笑顔を向ける博士に、オレも苦笑したりして。
けれども、灰原は相変わらず手厳しい。
「あら。私には、あの凶悪な殺人鬼を相手に、無駄にケンカを売ったとしか思えないけど?世界的にも有名な大悪党が大事な取引を貴方達に台無しにされて、このまま大人しく引き下がってくれるのかしら?」
あまりにも的を得ている灰原の意見に、オレはもう返事をする気も失せてくる。
と、ベットに横たわりながらも上半身だけを起こしているキッドが、両手を頭の後へ持っていき、間の抜けた声を出した。
「・・・・なんだか聞いていると、ずいぶん低次元のケンカしてる気分になってきたなぁ。」
「あら、違うの?」
「いや、違わないけどね。」
冷ややかに哂う灰原を横目に、キッドも唇を斜めに持ち上げる。
「──で?そこにある『矢車菊の青』は、どうするつもりなんだ、キッド?」
テーブルの上に無造作に置かれているブルーサファイア。
もともとの持ち主が既にこの世にいない石だとはいえ、このまま懐に入れるつもりか?
オレが訊ねると、キッドはああ、と思い出したようにテーブルの上を見た。
「ソイツにはもう用はないからね。あとでこっそり警察にでも届けに行くよ。」
「外をうろついたりして、ビスク・ドールに出くわさないといいけど?」
意地悪く笑う灰原に、キッドも苦笑する。
「縁起でもないなぁ。万一、そんなことがあったとしても、これ以上、関わらないように大人しく逃げ帰ってくるだけだね。」
確かに、それが一番だとオレも頷いた。
ラスベガスの夜が間もなく明ける。
明るくなり始めた空を、ホテルの窓から見上げながら。
もうヤツがオレ達の前に現れることがないようにと、オレはそう願わずにはいられなかった。
The end
BACK NOVEL
|