死闘はすでに始まっていた。
闇の中で交錯するのは、二つの黒い影。
その影の一つ。
青い目をしたその殺人鬼は、見る者すべてがすくみそうな形相でにやりと笑っている。
銀のナイフを持つ左手を、頭上高くに振り上げ、そして空気を叩き潰す勢いで振り下ろした。
空気が鳴る。
闇を切り裂く剣のように、ナイフは真っ直ぐにキッドへと向かっていた。
そのビスク・ドールの攻撃を、キッドは察知する余裕があった。
ナイフの速度と、自分の反応速度を計算にいれ、ナイフが届く寸前にかたわらの石柱の影へ入る。
それだけでは防ぎ切れないだろう攻撃の余波を予想して、両手で顔をカバーした。
だが、ビスク・ドールの攻撃はキッドには届かなかった。
キッドは柱から身を乗り出すと、ナイフがその柱を僅かに削ったあとを発見した。
どうやら、それでナイフの起動がズレたらしい。
「ラッキー。」
ぼそりとうれしそうでもなく呟き、2撃目が訪れる前にキッドは、細い隙間に身を隠した。
相変わらず、体に残る毒が体を蝕んでいる。
冷や汗が伝うその頬は、お世辞にも顔色がいいとは言えなかった。
床に刺さるいくつものナイフには目もくれず、キッドは背後にあるゴージャスなベットを振り返った。
「・・・・ひと眠りしたいなぁ。」
のんきにもそう言う。
体調不良からして、横になりたいというのは心底本音だったかもしれないが、この状況でそんなことを言えるとは、まったくふざけているとしか言いようが無い。
「いつまで、隠れているつもりだ?」
部屋の明かりはなくとも、窓から差し込む月明かりが、その人物を照らしていた。
キッドは柱と壁の隙間に体を預けたままの体勢で、その声の方に意識だけ集中する。
胸元には、トランプ銃を構えていた。
「オレと決着をつけるために、ここへ来たんだろう?キッド。出て来いよ?」
「・・・まぁ、そうなんだけどね。」
キッドがそう言った瞬間、即座にナイフがビスク・ドールの手から放たれる。
ナイフはまるで意志でも持つかのように、キッドが身を隠していたその場所へ忍び込んだ。
壁にナイフが突き刺さる。
キッドが床を蹴るのが少しでも遅かったとしたら、今頃串刺しだっただろう。
白いマントが闇いっぱいに拡がって、キッドは再びビスク・ドールの前に姿を見せた。
「さすがだな。オレのナイフをここまでかわせるとは。やはりお前は、どこか並外れたところがある。これから先、ますます楽しみだ。」
「先はないよ。」
キッドはのんびりと言うと、赤い唇が笑った。
「なぜだ?ここで死ぬつもりか?」
「冗談!」
やや不満そうに唇を尖らしたキッドを、ビスク・ドールはバカにしたように見返した。
「名探偵にも言っておいた筈だが。お前達が生き延びるためには、大人しくオレについてくるしか道はない。さもなければ、待っているのは死だけだ。」
蛇のようにその目が光るのを、キッドは何も言わずに見据えていた。
「どちらもイヤか?なら、道は一つだ。お前がこのオレを殺すしかない。ああ、それとも。相変わらず、コロシはできないとか、まだ甘いことを言うつもりか?」
ビスク・ドールは、手の中にある銀のナイフを器用に回しながら笑う。
「オレ一人殺す気でやれないで、どうやってあの組織に対抗するつもりなんだ? 復讐するつもりなんだろう?奴らに。」
赤い目が細められた。
キッドは、眉間に僅かにしわを寄せるだけで、やはり何も言葉を発しなかった。
やがて、キッドはそのシルクハットのつばをぐっと下げると、ようやく口を開く。
押し殺したような声だった。
「───その点について、お前と議論するつもりはない。」
赤い唇が斜めに吊りあがった。
「なるほど?ま、お前が復讐できようができまいが、オレにはどうでもいいことだ。」
「どうでもいいなら、放っておいてもらおう。本題から逸れてるぞ。」
「そうでもない。お前がここで死のうがどうしようが、それもどうでもいいのだからな。」
言われて、キッドはポカンと口を開ける。
呆れて物が言えない。
散々、人に執着しておいて見せながら、どうでもいいとはずいぶんな言い草である。
「・・・お前、どうでもいいくせに、今までオレにチョッカイを出してきたワケ?」
「単なるヒマ潰しだな。」
「・・・・・・・もう少しマシなヒマの潰し方を考えてくれると助かるんだけどね。迷惑だ。」
腕組みし頷いた上で、キッドは目の前の殺人鬼を斜めに見上げた。
ビスク・ドールはキッドの言葉に声を上げて笑う。
暗闇の中で、不気味な笑い声だけが響いていた。
+++ +++ +++
ドアノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。
ドアの向こうに広がる新たな闇を、オレはごくりと生唾を呑んで見据えた。
オレに背を向けるようにして立つ、一つの影。
月の薄明かりが、その人物の金の髪を眩しく照らしていた。
・・・・・ビスク・ドールっっ!
そして。
ビスク・ドールからそう大して距離の離れていないところの壁に、だるそうに体を預けている白い怪盗の姿がオレの目に映った。
薄闇で、キッドがどんな状態なのかよくわからない。
もしかして、動けないようなケガをしているのかも。
そうだ。 アイツ、もともと調子が良くねーし!
「・・・キッドっっ!!」
思わず声を上げ、ヤツのもとへ近づこうとしたところで、オレの足は足元に刺さったナイフを前に踏みとどまった。
ゆっくりと、ビスク・ドールがオレを振り返る。
何度見ても見慣れないゾッとするような青い瞳が、オレを映していた。
「よく来たな、名探偵。遅かったじゃないか。」
「・・・・ここへ来るまでいろいろとあったんでね。」
「へぇ?それで?決心はついたか?大人しくオレについてくるか、それともここで死ぬか。まさかここまで来て、むざむざ殺されに来たとでも言うつもりか?」
赤い舌がチロリと動く。
ビスク・ドールは銀のナイフを翳し、オレを見据えていた。
ヤツの背後に立つキッドは、肩で息をしたままだ。
オレは、無言のまま銃を構える。
銃口を真っ直ぐビスク・ドールへと向けて。
すると、赤い唇が笑いを象った。
「・・・・・・答えは“イエス”か。」
間髪入れずに、オレをナイフが襲う。
転がるようにしてそれらを避けながら、オレはキッドの居る方へ回り込んだ。
「おい、キッド!」
「・・・よぉ、名探偵。」
間近で見たキッドの姿は、多少なりとも切り刻まれた跡があったものの、そう酷いケガはなさそうだった。
表情はいつもどおり人を喰った笑いで。
月明かりしかない部屋では、ヤツの顔色までは窺い知ることはできなかった。
「大丈夫なのか?」
「・・・ああ、コレ?別に、そんなにザックリやられたわけでもないし。」
キッドは僅かに血の滲んだスーツを見下ろすと、能天気に笑った。
そのキッドの顔が白いのは、単に月に照らされているからだけではないに違いない。
「お前、体調は?」
「・・・うーん。そりゃ良くはないけどね。とりあえず、そうも言ってられないだろう?」
確かにそうだが。
まぁ、コイツの場合、万一本当にダメでも絶対そうは言わねーだろうな・・・
キッドはトランプ銃のカードの残りを確認していた。
オレも銃のグリップを持つ手に力を込めた。
「動けるなら問題ない。」
「今のところはな。ただ、長期戦はヤバいかも。」
おちゃらけて、キッドは笑う。
だが、キッドの台詞はウソではないだろう。
「───さて。名探偵は、あの厄介な殺人鬼に対してどうやるつもりかな?」
シルクハットのつばをちょっと下げて、キッドはオレに訊ねてきた。
オレは視線だけ、キッドに向ける。
「別にオレは・・・・・。アイツを監獄にさえぶち込めれば、それでいい。」
「・・・というと、もしかして警察を呼んでくれているとか?」
「ああ、もちろん。だが、それだけじゃないぜ?ヤツを追ってFBIまでここへ来てる。」
「それはそれは。にぎやかになりそうだ。けど、アイツが捕まる保証はどこにもない。仮に捕まってくれたとしても、オレ達を諦めてくれるとは限らないが?」
「弱音を吐くなら、ホテルに帰ってカジノでもしてろよ?」
「この件を片付けてから、仰せに従うよ。」
ぺろっと舌を出しながら、間延びした口調でキッドは言った。
その時。
オレ達の会話に割って入るように、ナイフが飛んできた。
お互いに目だけで合図し、飛び退く。
オレは、再び銃を握る手に、力を込めたのだった。
+++ +++ +++
「・・・・ぐっ・・っ!」
唸るような声を上げて、オレの体はそのまま壁まで吹っ飛んだ。
ビスク・ドールに蹴りを食らわせてやるつもりが、蹴り負けて、反対に鋭い一撃を腹にもらってしまったのだ。
・・・・くそ。
腹を抱えるようにして、オレはヤツを睨みつけた。
しゃがみこんでるオレの代わりに、キッドが前線に出て攻撃を始めている。
悪いが、相手がビスク・ドールに限っての場合。
2対1でも、オレには良心の呵責なんてない。
これは、ルールのない命がけのケンカだ。
───にしても。
やっぱり、キッドの動きが鈍い。
アイツの言うとおり、やっぱり長期戦はヤバイな。
オレは、僅かに血の滴った傷へ手を添えると、立ち上がる。
と、飛ぶようにしながら、ナイフを避けていたキッドが、ちょうど、オレの前に舞い降りた。
そして着地と同時に、すぐ横にあった椅子を掴むと、キッドはそのまま窓へ向かってその椅子を投げた。
オレが椅子の行方を目で追う間もなく、それは大きな一枚のガラス板を割った。
瞬間、派手な音が部屋に鳴り響き、ガラスの破片が月光を綺麗に反射しながら、飛び散る。
その一瞬。
破片が、ビスク・ドールを襲うその時を、キッドは狙っていたらしい。
ヤツは掌に持っていた何かを床に叩きつける。
すると、今度は闇が目を覆うばかりの閃光に包まれた。
その白い光の中、キッドは果敢にもビスク・ドールに突っ込んでいく。
二つの影が交錯したのを、オレは見たような気がしたが、それ以上は目を開けていられなかった。
そして。
再び視界が回復した時、目の前に立っていたビスク・ドールの白い肌に赤い線が一筋入っていた。
オレの横には、キッドが立っていた。
右手のシルクの手袋が真っ赤に濡れている。
それもそのはず。
キッドは右手で、ナイフの刃を握り締めていた。
・・・避け切れなかったナイフを掴んだのか!
「・・・・キッドっ!」
「ちぇ。今のは結構、本気だったんだけどね。」
血まみれのナイフを捨てて、キッドが苦笑する。
と、目の前のビスク・ドールも頬を伝う血を拭って、笑って見せた。
「・・・惜しかったな。さて、遊びは終わりだ。」
青い目がスッと細められた。
ヤツの纏っている殺人鬼のオーラが、一層高まる気がした。
・・・・くそっ!!
警察もFBIもまだ来ない。
ここは、もう少しだけ何とか踏ん張るしかないが───。
「キッド・・・・。」
オレは隣の怪盗を見る。
さっきから、ずっと戦い通しで体力もかなり消費しているはず。
・・・コイツ、まだ、大丈夫か?
と、突然、何の前触れもなく、白いそのマントが闇に揺らめいた。
・・・・え?
風もないのに、揺れたマント。
いや、揺らめいたのはマントだけじゃない。キッドの体もだった。
オレのすぐ横に立っていたはずの、ヤツの体が。
そのままゆっくりと崩れるように、床に沈みこむ。
「───キッドっっ!!」
思わず叫んで、その体を抱き起こしたその時。
触れたヤツの肌のあまりの冷たさに、オレは驚いた。
氷のようだった。
「・・・・おいっ!」
やっぱり毒が!
当たり前だ。 ろくに治療もしないで、毒を中和できるわけがない。
無理しやがって!!
・・・のヤロウ!!
ちっとも“大丈夫”なんかじゃねーだろうがっっ!!
堅く目を閉じたキッドに、オレは唇を噛んだ。
「やれやれ。これからって時に、キッドはダウンか。さて、名探偵、どうする?」
背後で笑うビスク・ドールの不気味な声がした。
オレは、ヤツを振り返った。
「ここでキッド共々死ぬか、それとも───。」
ゆっくりとビスク・ドールがナイフを構える。
オレは、いったんは抱き起こしたキッドの体を床に寝かせると、片膝をついた姿勢のまま、キッドを背にしてビスク・ドールを見据えた。
ガラス玉のような瞳が、愉しそうにオレを映している。
オレは、痛いくらいに銃を強く握り締めていた。
───どうする?!
ヤツは、本気でオレ達を殺る気だ。
まさか、この状態でキッドかついで逃げるなんて、できない。
かと言って、キッドをこのままに戦いを続行したところで、ヤツがキッドに手を出さないなんて保証はどこにもない。
ましてや、オレとこの殺人鬼じゃ───。
悔しいが、どっちが有利かなんて、わかりきっている。
どうしたらいいっっ?!!
オレは、唇を噛み締めながら肩越しに倒れたままのキッドを見つめる。
堅く閉じた瞼はぴくりともしていなかった。
・・・・・いや。
答えはとっくに出ている・・・・か。
───今、ここで。
見す見す、コイツを殺されるわけにもいかないからな。
オレは、苦笑した。
銃を持つ右手の力を抜いた。
ゴトリという音を立てて銃が床に落ちた時、ビスク・ドールは僅かに目を見開いた。
「どうした?降参か?」
「───ああ。不本意だけど、仕方ねーな。」
オレは不敵に笑って見せた。
と、ビスク・ドールも目を細めて、僅かに微笑む。
「・・・いい判断だ。そうやって、せいぜい長生きするがいい。」
「だが、条件がある。」
「何だ?」
「・・・お前の言うとおり、大人しくついて行ってやる。だから、この場はとりあえず、オレだけで我慢しろ。」
オレは、ビスク・ドールを真っ直ぐに見つめて、そう言ったのだった。
To be continued
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