「───えっと、では月並みな質問で悪いけど、いよいよ本因坊戦予選開始に向けて、まずは塔矢君の意気込みなんかを聞かせてもらおうかな。」
そう言いながら、僕の目の前でメモを広げてるのは『週刊碁』ではもう馴染みの記者だ。
棋院内にあるこの『週刊碁』の編集部に隣接する応接室で、僕はインタビューを受けていた。
彼から繰り出される質問は、おおむね本因坊戦に向けての僕の心構えとか、ライバル視している棋士はいるかとか、リーグ戦入りの自信のほどは、などとまぁありきたりのものばかり。
そんなわけで、返す僕の言葉もありきたりにならざるを得ない。
「とにかく僕は・・・・。ただ、全力で前に向かって進むだけですから。その先にタイトルがあったとしても、僕にとっては通過点でしかありませんので───。」
「なるほど、さすがは塔矢君。囲碁界のサブレッドにふさわしい発言だ。」
うんうんと頷きながら、その記者がペンを走らせる。
───“囲碁界のサラブレッド”・・・か。
名人だった父を持つ僕には、一生ついて回る言葉なんだろうな。
僕は目の前に座る記者の手元から、目線を外に移した。
囲碁界において、引退してもなお父の存在は大きい。
そんな名人の家に生まれた僕を、僕のその環境を妬む者も多いのだと昔、人から聞いたことがある。
だが、それが何だというのだろう。
確かに、恵まれた環境であったことは事実だ。
しかし、囲碁は血筋や環境で上手くなるものではない。
そう言えるだけの努力を僕はしてきたのだから。
「じゃあ、今のは天才棋士たる塔矢君の名言集として、バッチリ掲載させてもらうから。」
何気ない調子で、記者が言う。
その台詞に僕は僅かな不快感を感じて、眉を寄せた。
そんな僕の様子を空気で感じとったのか、記者が慌てて言葉を紡いだ。
「・・・あ、あれ?何か気に入らなかった?」
「───いえ。」
僕の機嫌を損ねたと思ったその若手の記者は、必死に僕の顔色を伺いながら話題を変える。
他愛のない質問に僕はいくつか答え、予定のインタビューを程なく終えた。
なぜ、僕は先程、不快感など感じたのだろう?
あの“天才”という言葉に。
小さな頃から良く言われる言葉で、別に今更、否定するつもりもないそれに。
ソファから立ち上がった僕に、記者はまだ気にしているのか愛想笑いをしてきた。
「そういえば、今日は塔矢君が唯一ライバル視している進藤君の対局があったんだっけ。ああ、もう始まっちゃってるか。実は彼にもこの後、取材をすることになってるんだ。で、塔矢君と対で次号の表紙を飾るからね。」
「・・・そうですか。」
「ああ、ごめん。塔矢君も早く進藤君の対局、見たいよね。引き止めてしまって。」
「いえ、では僕はこれで。 ───失礼します。」
そそくさとそう頭を下げると、僕は部屋を後にする。
そのままエレベーターへ乗り込んで、進藤の対局が行なわれている大広間へと急いだのだった。
○●● ○○● ●○●
僕が大広間を覗き込んだ時、まだ進藤の他にも対局者が残っていた。
だが、特に進藤達の碁盤を取り囲むものはおらず、部屋はしんと水を打ったように静まり返っている。
一歩足を踏み入れようとした僕の肩をトントンとつつく人がいて、僕は慌てて振り返った。
そこに居たのは、相変わらず人懐っこい笑みを浮かべた芦原さんだった。
「アキラもやっぱり進藤君の対局、見に来たんだ?」
「・・・芦原さんっ!」
「やっぱり気になるよなぁ。彼、面白い打ち手だしなぁ。」
ニコニコしながら芦原さんが僕を手招きする。
「アキラ、こっち。今、別室で彼の対局、最初から並べてるから。」
「・・・え。」
言われるままに芦原さんについていくと、隣の部屋で数名が碁盤を囲んでいる。
僕が部屋に入ると、ふとその中の1人が顔を上げた。
越智だ。
「・・・あ。塔矢。」
越智のその声に、碁盤に向いていた全員の顔が僕へ向く。
その場にいたのは、越智の他に進藤と同じ森下九段の門下生が2名。
和谷と冴木という人だった。
彼らは進藤の周りによくいることが多いので、必然的に顔を合わせることも多かった。
取り立てて親しいわけではなかったが、口を利いたことがないというわけでもなかった。
彼らは僕を一瞬だけ目に留めると、すぐさま碁盤に目を落とした。
芦原さんに促され、僕もみんなが取り囲む碁盤へと近づく。
上から覗いたその対局は、もう終盤に差し掛かっていた。
「黒が進藤君。序盤から黒優勢で飛ばしていたんだけどね。さすがに高段者の壁はまだキツイかなぁ。ここへ来て窮地に追い込まれてる感じだね。」
後ろから芦原さんが進藤の対局をそう分析する。
確かに芦原さんの言うとおり、今、黒の形勢は極めて不利だった。
このままでは───。
僕だけでなく、ここに居る誰もが進藤の負けを予感しているように、みな碁盤を見つめる表情は厳しい。
やがて、腕組みをしたままの和谷という人物が唸った。
「うーん・・・。やっぱ、さっきのあの石が死んだのが、痛かったよな。」
続いて越智が口を挟む。
「甘いんだよ、進藤は。あんな強気な攻めが通用する相手かどうか、見極められないなんて。」
彼の言葉を最後に、部屋はシンと静まり返った。
越智の言葉どおり、進藤が相手の力量を見極められなかったとは僕は思わない。
だがどうあがいても、この局面からの逆転は無理だ。
それだけは間違いないと思っていた。
───なのに、その僕の考えを進藤は見事にひっくり返した。
進藤の次の一手に、僕は目を見張る事になる。
いや、僕だけでなく、その場に居た全員が一瞬、凍りつくようなそんな衝撃すらあった。
「・・・うそだろ?!ありえねぇ・・・。これで一気に逆転かよ!」
「こんな手があるなんて・・・!すごい。考えもつかなかった・・・・。」
みんなが驚嘆の声を上げる。
誰も予想できなかった一手。
だが、その一手で見事に進藤は形勢逆転に持ち込んだのだ。
「・・・何ていうか、こういう発想って普通ないよな。やっぱりタダモノじゃないよ。」
信じられないという顔をしながらそう呟いたのは、進藤の同門で確か先輩にあたる冴木という人物だ。
その彼の弟分のような存在であるらしい和谷が胡散臭そうに目を向ける。
「タダモノじゃないって・・・・。」
「───いや、だからさ。こういうのが“天才”?」
彼の言葉が、僕の胸にズキリと突き刺さった。
僕は拳を握り締める。
すると、越智が二人の会話に割って入った。
「フン、バカバカしい。進藤が天才だって?僕はそんなの認めないけどね。」
「けど、越智。お前だって、今の進藤の手、読めなかったんだろ?」
和谷にそう指摘されると越智は返す言葉もなく、不貞腐れたように顔を背けてしまったが。
進藤が“天才”?
確かにそうなのかもしれない。
別にそれを否定するつもりは僕にはない。
なら、僕は───?
進藤のあの一手を読みきれなかった僕は───。
どんよりと胸にどす黒いものが立ち込める。
その気持ちが一体何なのか、この時の僕にはまだわからなかった。
○●● ○○● ●○●
大広間を覗いてきたらしい芦原さんが、僕達全員に向けて声をかけた。
「進藤君の対局、終わったみたいだよ。いやぁ、蓋を開けてみれば、彼の大逆転かぁ。大したもんだ。」
その声を合図に、大広間の方からざわざわと声が響いてくる。
対局者達が部屋から出てきたのだ。
その中に進藤の声も混じっているのがわかる。
碁盤を取り囲んでいた僕らが立ち上がったところで、ちょうど進藤が通りかかり、こちらの部屋を覗き込んできていた。
その顔はいつもどおり明るく、およそ苦しい一勝を勝ち取った者とは思えなかった。
「・・・あ!何だ、みんな、こんなとこに居たんだ!塔矢も!」
僕が何か言おうとする前に、越智だけを残してみんなが進藤の周りに集まる。
「おい、進藤!お前、最後、すげー大逆転じゃん!」
「えへへ〜!まぁね!」
「すごい一手だったね。僕も驚いたよ。一気に形勢逆転しちゃったもんなぁ。」
芦原さんにまでそう言われて、進藤はちょっと照れくさそうに笑っていた。
そんな進藤を和谷がつつく。
「けどさ。あんな追い込まれた状況で、よく焦らず大逆転の一手が思いついたもんだよな!」
「そうそう。どうあがいてもどうしようもないあの局面で、よくあんな発想ができたもんだ。」
同門の二人に挟まれそう追求されると、進藤は至って平然と言葉を発した。
「え〜?いや、別にああいう風に打ったら、ちょっと面白いかなって、それだけ。」
何でもないことのように発せられたその進藤の言葉で、一瞬、また辺りは愕然とするが。
さらに突っ込もうとした和谷をかわすように、進藤は言う。
「悪い、和谷。オレ、これから『週刊碁』のインタビューがあるんだ。」
うまくこの場を退散する理由をつけた進藤は、ようやく僕に目線を向けてにっこりした。
そして、そのまま僕に近づくと小声で告げる。
「ゴメン、塔矢。今日は碁会所に行けそうもないんだ。塔矢さえよかったら、オレの部屋に先に行ってて。」
進藤はそれだけ言うと、僕の返事も聞かずに軽く手を振り、部屋を去って行く。
僕は、そんな進藤の背中をただ無言で見送るしかなかった。
「“ああいう風に打ったら、面白いかな”だって? まったく進藤のヤツ、バカにして。」
後ろでそう面白く無さそうに越智が呟く。
越智のその台詞が聞こえているのかいないのか、進藤と同門の彼らも進藤の背を見ながら口を開いた。
「まったく、こっちが必死に考えても思いつかないような手を、そんな軽く言われちゃったら、どうすりゃいいんだか。」
「アイツには、院生時代から驚かされてばっかだな。冴木さんの言うとおり、ああいうのが“天才”って言うのかねぇ?」
そんな彼らのやり取りを横目で伺っていた僕の顔を、芦原さんが覗きこんできた。
「どうした、アキラ?」
「・・・あ、いえ、別に・・・。」
「疲れてるのか?なんか冴えない顔してるぞ?」
「いえ、本当に。大丈夫です。」
「そうか?ならいいけど。」
進藤の対局を見届けた芦原さんは、もう用はないとばかりに棋院を去ろうとしていた。
本当なら僕と食事にでも行きたかったと、苦笑する。
「悪いな、アキラ。今日は人と約束があってさ。」
「デートですか?」
そう返すと、彼は慌てて否定した。
「・・・ったく、アキラも最近はすっかり色気づいたことを言うようになったよな!まったく、お前こそ彼女でもできたんじゃないのか?」
「そんなこと、芦原さんにはナイショですよ。」
それだけ言うと、僕にアヤシイ眼差しを向けている彼を適当に誤魔化して強引にエレベーターに誘導する。
そうして、エレベーターの扉が閉まって彼の姿が見えなくなるまで笑顔で見送った。
無論、僕に彼女などいない。
“恋人”と呼ぶべき人物はいるが。
自分でもこんなことになったことを驚いていないと言ったら嘘になる。
確かに、進藤は生涯のライバルとして僕が唯一認めた相手だ。
だが、気づいたら、ただそれだけでなく、彼自身も大事になっていた。
進藤のことをライバルとしてだけでなく、愛しいと思う。
その想いを告げて、お互いの想いを認めて、僕達は心を通い合わせた。
進藤と一緒にいられることが幸せで、碁盤を前に進藤と向き合えることが幸せだった。
───なのに。
どうしてだろう? 最近、進藤といることが時々苦しいと思うことがある。
いつから、そんなことを思うようになったのだろう?
僕は、答えの出せないその問いに対して、ただ立ちすくむことしかできないでいた。
●○○●● To be continued