彼女はベットの上に横たわっていた。
顔の上までカバーをかけているその姿は、周囲の喧騒にも気づかないくらいに、ただ昏々と眠っているのではないかと考えたくなるほど穏やかで、ひどく密やかにも見えた。
だが、それがいかにも見せかけであることは、室内に立ち込めている匂いと、彼女が身を横たえているシーツの色が物語っていた。
ベットカバーの白さに比べて、彼女が横たわるシーツの方は鮮やかな赤。
さらにその赤は、ベットの下のカーペットにまでべっとりと滴っていた。
そして。
室内の至る所に飛んでいる血しぶき。
それは、この部屋こそが凶行の現場であった事を物語るには充分だった。
「これでは、下手に近づけないですね。」
都心に位置する、とあるホテルのスイートルームの入り口に警視庁捜査一課の面々とともに立ち尽くしたオレ、工藤新一は重苦しく息を吐きながらそう言った。
オレの言葉に、隣に立っていた目暮警部はうめくような声で頷く。
さらにその後ろでは、ハンカチで鼻を押さえた高木刑事が、眉をひそめて血に濡れたベットの方を嫌そうに覗いていた。
無理もない。
このむせ返る程の血の匂い。
ドアを開けた途端、オレの全身にまとわりついたその匂いは、何かを考え、判断するより先に、ほとんど本能的に「ただごとではない」とそう感じさせる。
探偵なんてやってるおかげで、今まで幾度となくこういう現場には遭遇してきた。
けれど。
何度見ても、良い気分はしない。
「通報者は?遺体の身元確認も済んでいると聞いたが。」
目暮警部が振り返るのと同時に、オレも少し離れた位置に立っている警官を見た。
すっかり青ざめてしまっているその若い警官はかすれた声で僅かに言葉を詰まらせながら、「被害者の仕事の関係者という男性です。」と答えた。
「第一発見者と一緒に、別室で待ってもらってますが。」
と、警官は付け加えた。
「第一発見者は?」
「このホテルの従業員の女性で。ルームサービスで部屋に飲み物を届けようとした際に・・・とのことで。」
「通報者と第一発見者を一緒にしているのかね?」
ギロリと目暮警部がその若い警官を睨む。
確かに、それはあまり好ましくはない。
仮にこれが殺人事件だったとすると、どちらかが犯人ということもありえるからだ。
「あっ・・・いえ。何しろ、二人ともひどく動揺しておりまして。手を握り合って離れないんです。特に第一発見者の方が泣きじゃくってしまって・・・。」
警官は慌ててそう弁明した。
仕方のない話だ。
誰だって、突然こんな状況に直面したら、取り乱すに決まっている。
いわゆる変死体と呼ばれる、不自死を遂げた死体は、最終的に事件性が認められなかったとしても、見る者に想像を絶する衝撃を与えるに違いないのだから。
「高木君、第一発見者らに詳しく話を聞いてきてくれ。」
目暮警部の指示に高木刑事が飛んでいく。
高木刑事を見送った後、目暮警部は意を決したように血塗られた部屋へ一歩踏み出した。
オレも目暮警部に続いて、部屋に入り込む。
血痕を踏まないように慎重に足を進めて、ベットへと近づいた。
先にベットにたどり着いた目暮警部は、そっと身を屈めてベットカバーの端をつまんだ。
そしてゆっくりとめくりあげる。
警部と一緒に、覗き込んだオレの瞳に飛び込んできたのは、血染めの枕にのった若い女性の横顔だった。
・・・これは。
一見して尋常な死体じゃなかった。
胸の上で組まれていた両手は、粘着テープでぐるぐる巻き。
一際、血に染まったその女性の細い頸部は、大きな口を開けていた。
オレは可能な限り身を屈めると、その頸部に顔を近づけた。
「凶器は刃物のようですね。切ったか、刺したか・・・。」
言いながら、ベットの周囲、そして部屋全体へと視線をめぐらす。
血しぶきさえなければ、そこはゴージャスなホテルの一室でしかなく、争った形跡など微塵もなかった。
「凶器らしいものは見当たりませんが。」
オレがそう呟くと、目暮警部もゆっくりと頷きながら、もう一度、血まみれの死体に目をやった。
「両手をこんな風に縛られていることからすると、自殺というのは考えにくいだろうな。」
そう。
これは、自殺じゃない。
―――殺人だ。
重苦しい空気が部屋を覆う。
と、その空気を打破するように部屋に大きな声が響いた。
目暮警部を呼ぶ、高木刑事のものだった。
「目暮警部、大変ですっっ!」
「何事だね?」
「い、今、第一発見者ら関係者の方々に話を聞いていたら、これは強盗殺人で、犯人は怪盗キッドだと言うんですっっ!」
なっ・・・。 バカな! 何でアイツが?
「なにぃ?! キッドが犯人っっ??!!」
目を見開くオレの横で、目暮警部の驚嘆も驚嘆の声をあげる。
ちょうどその頃、現場に鑑識が到着したようで、室内はやがて、制服を着た人達でいっぱいになり、事件現場特有の物々しさと奇妙な賑やかに包まれたのだった。
その日の午後5時には、早速、今回の殺人事件の捜査本部が本庁に設置された。
これから捜査会議だ。
無論、目暮警部と現場を検証したオレも会議には同席させてもらった。
多くの捜査員で埋め尽くされた会議室を見渡す。
・・・いたいた。(笑)
予想に違わぬその人物を見止めて、オレはニヤリとする。
その人物とは。
もちろん、捜査二課の中森警部。
事件の真犯人がキッドであるかどうかは別として。
キッドと聞いて、あの人が出てこないわけないもんな。
いらいらした様子でタバコを灰皿に押し付ける中森警部を、オレは離れた席からそっと見守った。
数分後、目暮警部の挨拶で始まった捜査会議では、まず今日一日の報告から行われた。
被害者の女性は藤代 美咲(ふじしろ みさき)さん、二十三歳で、海外で活躍中のスーパーモデル。
死因は首筋を鋭利な刃物で切りつけられたことによる失血死であることが確認された。
通報者である男性は、宮坂 孝(みやさか たかし)さん。
海外では有名な高級宝飾ブランド『デミアス』の社員で、現在はNY在住。
今回、仕事で被害者である藤代さんと供に、今朝、極秘来日していたとのことだった。
「極秘?何だね?その極秘というのは。」
若い刑事の報告を受けて、目暮警部が髭を撫でながら顔を上げた。
と、刑事は手帳をぺらぺらとめくり、慌てた様子で補足説明を始める。
「高級宝飾ブランド『デミアス』では、明日、直営店が入る日本橋タカシヤマで、日本への本格進出を記念した一夜限りのイベントを開催する予定だったそうです。」
「一夜限りのイベント?」
中森警部が口を挟む。
若い刑事はそれに頷きながら、先を続けた。
「世界最大級のダイヤモンド『ミレニアム・スター』の一般公開だそうです。スーパーモデルの藤代 美咲さんが『ミレニアム・スター』を身につけてリムジンで乗りつけるはずだったとかで。」
「『ミレニアム・スター』??」
「はい。二百三カラットと世界最大級の大きさで、市場価格は約八十八億円。透明度や輝きでは、至上、最も美しいダイヤだそうです。」
「・・・は、八十八億ぅぅぅ???」
あまりにも現実離れした額に、会議室中から声が上がった。
なるほど。
これほど高価な宝石なら、極秘で日本に持ち込んだという関係者らの気持ちもわかる。
ヘタに騒がれて、盗難の危険にさらすのを防ぐつもりだったんだろう。
「おいっ、ちょっと待て。ご、強盗殺人って、もしかして盗られたのは、このダイヤだって言うのか?」
中森警部の問いに、刑事は首を立てに振った。
宮坂氏の話では、被害者である藤代さんの部屋にダイヤは保管されていたそうだが、第一発見者の報告を受けて、彼が部屋を訪れた時にはすでにダイヤはなかったという。
と、なると。
今回の事件は、『ミレニアム・スター』を奪うために藤代さんを殺害したと、そういうことになるのだろうか。
思案するオレをよそに、中森警部が質問を繰り出す。
「・・・で。キッドが犯人ってのは、どういうことなんだ?」
そう。
確かにこれほどのビック・ジュエルであるなら、キッドが狙っても不思議じゃない。
けど、アイツが殺人まで犯して盗むなんて・・・。
ことキッドにおいては、並々ならぬ執着を見せる中森警部の見解も、やはりオレと同じだった。
「『ミレニアム・スター』がキッドの獲物になりそうな宝石なことはわかった。だが、それだけでキッドが犯人とは言い切れんだろう。大体、ヤツはいつも犯行前に予告状を送りつけてくるしな。予告状無しに、キッドが現れた話は聞いたことがないぞ。」
しかも、こんな血生臭い手口でキッドが盗むことなどあるものかと、中森警部は溜息交じりに言った。
けれども。
「いえ、関係者らはキッドから予告状を受け取っていたそうです。」
何っ?
オレは眉を顰めた。
「今日昼前、関係者らが滞在先であるホテルに到着した時、部屋の前に花束と一緒に届いていたとかで。」
「なんだとぉぉ?!」
中森警部は目を剥いて、さっさとキッドの予告状を見せろと指示する。
が、報告をしていた刑事は、困ったような顔をした。
「・・・それが。予告状は被害者が捨ててしまったようで。」
「「捨てた???」」
中森警部の声に目暮警部の声も重なる。
関係者らの話では、キッドの予告状をまともに取り合うつもりなどなく、不愉快に思った藤代さんがその場で燃やしてしまったとのことだった。
かろうじて、現存するのはいつものキッドのトレードマークのイラスト部分のみ。
とりあえず、それがキッドの予告状であったであろうことは確認できたが、肝心の予告状の本文は既に灰と化していた。
・・・おいおい。
これじゃあ、暗号解読どころじゃねぇじゃねーか。
いくらオレでも、現存しない予告文の解読なんてできるはずもない。
つまり、キッドが何て予告してきたのか、永遠に闇の中というわけだ。
オレは苦笑した。
「・・・確かにキッドがそのダイヤを狙っていたとして。藤代さん殺害の犯人であると決め付けるのはまだ早い。キッドの今までの犯行パターンからしても、殺人まで犯すというのは考えにくいのでは?」
口を挟んだオレに、中森警部が睨みつけてきた。
「そんなこたーわかっとる! キッドの事だ。いつもどおり派手なパフォーマンスで犯行におよぶとしたら、明日のイベントが最適だからな。」
さすがは中森警部。
キッドのお祭り好きのヤツの性格は充分にわかっているらしい。
そんな中森警部の言葉に目暮警部も頷く。
「だとすると、殺人犯はキッドではなく別にいて、その犯人がキッドより先にダイヤを奪った可能性があるというわけか。」
「わはは! キッドめ。獲物を先に横取りされて、さぞ悔しがってるだろうな。」
そう大口を開けて、中森警部は笑うが。
いや、それは違うんじゃないか?
「安心するのはまだ早いですよ、中森警部。殺人犯がキッドの獲物であるダイヤを奪ったなら、キッドも僕らと同じ様に犯人を追っていると考えられます。」
「なっ?!」
眉をつり上げる中森警部に、オレはにっこり微笑んだ。
「つまり、僕らはキッドより先に犯人を見つけなければなりません。でないと、『ミレニアム・スター』はヤツの手に落ちることになりますからね。」
オレの意見にぐっと息を詰めた中森警部は、目暮警部に捜査方針についてさっさと示せと噛み付いた。
とりあえず、捜査は事情を知る関係者の洗い出しから始めることとなった。
まずは関係者および、関係者が接触したと思われる人物についての事情聴取というわけだ。
配布された関係者の資料を眺めているオレの横で、高木刑事が溜息混じりに呟いた。
「二百三カラットのダイヤか・・・。そんなうそみたいにデカイ宝石、世の中にあるんだなぁ。」
二百三カラットっていうと。
・・・こんなもんか?
オレは両手の指を使って、大体の大きさを作ってみる。
と、突然、オレの耳元にささやく声。
「そうそう。大体それくらい。赤ちゃんの拳くらいの大きさかしらね。」
驚いて振り向くと、そこには見知った顔があった。
「佐藤さん?」
オレが声を上げるより先に、隣の高木刑事が驚いた風に目を大きくした。
「どうしたんですか?佐藤さん。昨日から3日間、有給だったはずじゃあ?」
「家に居てもつまらないから、つい出てきちゃった。そしたら事件なんだもの。出てきた甲斐もあったってものよね。」
ウインクしながら、佐藤刑事はそうニッコリ微笑む。
だらしなく高木刑事が鼻の下を伸ばしている隙に、佐藤刑事は目暮警部のところに行き、捜査に加えてもらえるよう話をつけて、再びオレ達の傍に戻ってきた。
「『ミレニアム・スター』か。ステキな宝石よね。」
「え?佐藤さん、知ってるんですか?」
高木刑事の問いに、佐藤刑事はもちろんと笑って見せた。
「宝飾用のカラーレスダイヤモンドとしては、世界第六位の大きさで、全く傷もなく、最高のクオリティだと有名なのよ。」
「カラーレスダイヤモンド?何ですか、それ?」
「完全に無色透明なダイヤモンドという意味ですよ。」
石に特に詳しくないオレでも、それくらいは聞いたことがあったので、そっと付け加えた。
佐藤刑事もにっこり頷く。
「何でも原石は九十年代初めに、コンゴ共和国で採掘。3年もかけてペアシェイプにカットされ、そのあまりに完璧な美しさに、世界のダイヤモンド専門家も値をつけることの出来ないダイヤモンド。それが『ミレニアム・スター』よ。」
「へぇー。佐藤さんがそんなに宝石に詳しいなんて、知らなかったですよ。」
同感だ。
なんとなくらしくない気がして、オレはじっと彼女を見つめるが。
「あら、女なんて誰でも、光物には少なからず興味はあるものよ。」
佐藤刑事は、そう綺麗に笑っただけで。
次には、これくらいゴージャスな石をもらったりしたら今すぐ嫁に行くのに、なんて冗談を飛ばし、高木刑事を慌てさせていた。
結局、捜査会議はその日、深夜まで続き。
捜査は明朝開始ということで、お開きとなった。
というわけで、オレが帰宅したのは夜遅くだったのだが。
人を訪ねるにはいささか不謹慎な時間に、オレは何の気兼ねも無く、阿笠邸を訪れていた。
「『ミレニアム・スター』?」
「そ。何でも、世界で最も美しいダイヤモンドなんだとさ。」
リビングのソファに腰掛けたオレは、博士の入れてくれたコーヒーを受け取りながらそう答える。
オレの隣では同じ様にコーヒーを飲みながら、雑誌に目をやっている灰原の姿があった。
「にしても、時価八十八億か。すごいダイヤじゃのう。」
「ダイヤモンド業界の大御所で二千年に亡くなったバリー氏も、『ミレニアム・スター』について、自分が今まで見た中で最も美しいダイヤだと言ってたくらいだもの。相当なものなんじゃない?」
どうやら、灰原も『ミレニアム・スター』について少なからず知ってるらしい。
佐藤刑事が言うように、やっぱり女は誰でも光物には興味があるんだろうか。
それに対して、灰原は別に、と小さく返した。
前に読んだファッション雑誌に例の宝石について記事が掲載されていたことがあって、それを覚えているだけなのだそうだ。
「そういえば、『ミレニアム・スター』は、別名 奇跡の石とも呼ばれているそうよ?」
不意に灰原が雑誌から目を上げ、オレを見た。
「奇跡の石?」
首を傾げるオレに、灰原は冷ややかに笑う。
「過去、二度の盗難から幸運にも、無事に戻ってきたんですって。」
・・・なるほど。だから、奇跡の石か。
「それにしても、殺人犯の逮捕だけでなく、キッドの動きにも警戒せねばならんとは、いささか厄介な事件じゃな。」
ふーむと唸りながら、博士が言う。
「でも。 キッドは意外と身近に居たりしてね。」
再び雑誌に目を落とした灰原が、小さな手をカップに伸ばしながら言った。
「どういうことじゃ?哀君?」
不思議そうに首を傾げる博士に、灰原はニヤリとする。
「あら、だって。 犯人を自分で探す手間を省く、一番効率的な方法は一つしかないでしょ?」
「・・まさかっ!」
息を呑む博士を尻目に、オレは僅かに目を細めて灰原を見返す。
目の前の少女は、口元に薄い笑みを浮かべていた。
人の悪い笑いだ。
「そう。つまり、キッドは工藤君の傍にいて、工藤君が真犯人を見つけてくれるのを待っているのかも。」
確信めいた灰原の台詞に、オレは何も告げず、ただコーヒーを一口飲み干して、視線を窓の外に移した。
夜空には、大きな月。
どこかの気障な怪盗が、バックに背負って立つにはちょうど絵になるくらい綺麗な月夜だった。
To be continued |