一瞬の戸惑いの後、彼女の表情が大きく動いた。
「・・・あっ、あの・・・っ。」
オレを見つめる瞳が、落ち着きなく揺れる。
「すみません。いきなり声なんかお掛けして。僕のこと、覚えていらっしゃいますか?」
忘れるはずはないと思う。
一年前の事件を彼女がどう捉えているかわからないが、オレに対する印象は薄くはないだろう。
案の定、彼女はオレの事をしっかりと記憶していた。
動揺して見えたのは、ほんの僅かな間だけ。
次にはにっこり微笑んで「その節はいろいろお世話になりました。」と頭を下げた。
「びっくりした。まさかこんなところでまた探偵さんと会うとは思ってなかったから・・・。」
それは、こっちの台詞だ。
まさか、また別の事件で関わることになるなんて。
「僕の方こそ、びっくりしました。でも、お元気そうで何よりです。」
オレの言葉に相槌を打つように、彼女も微笑んだ。
それから彼女は目を細めて、僅かに探るような表情になる。
「探偵さんは?今日はこんなところでお仕事?・・・って、もしかしなくても藤代さんの件?」
事件については、昨夜から既に報道されている。
彼女が知っているのも当然だった。
オレは黙って頷く。
「先程、モデルの葛岡さんにお話を伺ってきたところなんです。そこで皆さんの写真も見せていただいて。」
「ああ、応接室に飾ってある・・・。新年会の?」
「ええ、そうです。でも、最初拝見した時は、貴方とはわかりませんでした。一年前と印象もずいぶん変わられていましたし、お名前も違っていたので。」
「あ、ええ。結婚したんです、私。今は狩野といいます。」
小さく俯いた彼女の前髪を風が靡かせる。
その顔を見つめて、オレが祝いの言葉を述べると、彼女は短く「いえ」と言った。
「狩野さんは、今日はどうしてここへ?お休みだと伺ったんですが。」
「・・・あ、いえ・・・。今度使う衣装の件で、どうしても確認したい事があって、それで・・・。」
小脇に抱えたバッグの手を、ぎゅっと握り締めながら彼女はそう言う。
オレは特に言及もせずに、会話を進めた。
「でも、ちょうど良かった。狩野さんにもお話をお聞きしたいと思っていたところだったんですよ。」
すると、彼女の目線が、オレから誰も乗っていない赤のアンフィニへと流れる。
「あの・・・。他の警察の人は?一緒ではないの?」
「ええ、女性の刑事さんに僕が同行させてもらってます。今、彼女は買い出しに。」
正確に言うと、『彼女』ではなく『彼』だ。
もっと正確に言うと、『刑事』ではなく『泥棒』だし、さらに言わせてもらえば、『同行させてもらってる』のではなく、オレがヤツを『同行させてやっている』のだが。
オレの答えに、彼女は少し考えるような素振りを見せ、それから、口を開いた。
「じゃあ、ここで立ち話もなんだし、私の部屋にどうぞ?すぐ近くだから、私のマンション・・・。」
え?彼女の自宅住所は、確か千葉じゃなかったか?
「この近くのマンションって・・・。お引越しされたんですか?ご自宅は千葉だと伺っていたんですが。」
「引越したんです。職場に近い方が便利だし。」
あっさりと、彼女はそう言う。
・・・確かに便利は便利だけど、ここは六本木だぞ?
こんな一等地に住めるなんて、彼女のご主人はよっぽど羽振りのいい仕事なのか?
「とりあえず、詳しい話は部屋で。」
そう言って、彼女は来た道を引き返し始める。
肩に下げたバックから携帯電話を取り出して、
誰かにメールを送っているような素振りが見られた。
確かに話が聞けるのはありがたい。
けど、オレはまだ行くとも何とも言ってないんだが。
それに、まだキッドのヤツも戻ってきてないし。
いや、別に。アイツに抜け駆けしちゃ悪いなんて、思ってるわけじゃないけど。
足が止まったままのオレを、彼女が振り返る。
「どうしたの?探偵さん?」
彼女は笑っていた。
その顔は、間違いなくオレを誘っている。
どうしようか一瞬だけ、躊躇したものの。
結局、オレは足を踏み出した。
彼女の誘いに乗る事にしたのだ。
しばらくして。
暖かいファーストフードとドリンクを手に戻ってきた怪盗は、誰もいない車内を見て、やれやれと溜息をつく事になる。
それから、車の屋根の上に買ってきた品を並べて、おもぬろにポテトを口に運んだ。
「やぁね、工藤君ったら。車の中で待っててっていったはずなんだけど。せっかくコーヒー買ってきてあげたのに、冷めちゃうじゃない?」
もうその必要はないと思うが、見た目は確かに佐藤刑事な怪盗は、あくまで演技を続行していたのであった。
狩野さんが案内してくれたマンションは、本当にモデル事務所から近くにあった。
まだ新しいのか、綺麗で、さすが六本木という土地柄、オシャレなデザインの建物だった。
・・・あれ?この住所って。
見覚えがある番地だった。
確か、藤代さんの関係者一覧の中にあったような。
でもあそこにあったのは、藤代さんのモデル仲間や親しい友人だけで、狩野さんの名前はなかったはずだが。
同じマンションに住んでいるのか?
僅かな疑問を抱きつつ、促されるままエレベーターに乗りこむ。
彼女は三階のボタンを押した。
エレベーターのドアが開くと、彼女は先に立って三階の通路を進み、一つのドアの前でオレを確かめるように振り返った。
「ここです。」
オレが小さく頷くのを見てから、狩野さんは鍵も開けずにそのままドアに手をかけた。
ドアは簡単に開いた。
・・・戸締りもせずに出てきたのか?
中にご主人がいるのかもしれないとも思ったが、その考えは一瞬でかき消した。
玄関に並んでいるのは、女性ものの靴ばかり。
いや、それ以前に下駄箱の上に積み重なっているたくさんの靴箱も全部女性もので、おまけにブランド品ばかりだった。
ご主人の靴はどこに?と聞くたくなるくらいだ。
「今日はご主人は?お仕事ですか?」
そう訊ねると、彼女は短く「ええ」と答えた。
彼女はフローリングの床を歩くと、その先にあるガラスの扉に近づいていく。
オレが通されたのは、そのガラスの扉の奥にあった、十二畳くらいのリビングだ。
中央にはローテーブルと革張りのソファ。
壁際には大きな液晶のテレビ、その横には背の高い本棚がある。
中にあるのは、主にファッション関係の雑誌か。
・・・にしても。
なんか、新婚さんの部屋というより、丸っきり女性の一人暮らしの部屋みたいだな。
「適当に座ってください。今、何か飲み物でも持ってきます。」
オレの視線に気づいたらしい彼女が、やや早口で言う。
いそいそとキッチンの方へ向かう彼女の背中に、オレは「お構いなく」と声をかけ、ソファに腰を下ろした。
彼女が消えてから、オレは改めて部屋を見回す。
インテリアにも十分な気配りが感じられるそこは、まるでモデルルームのようで、あまり生活感がなかった。
・・・それに。
やっぱり、ここにもご主人のものと思しきものは何一つ見当たらない。
本当に一緒に住んでいるのか?
改めて、そんな疑問が頭をよぎる。
このリビングに通される前、廊下の突き当たりにはもう一つドアがあったのを見た。
そこがご主人の書斎ということかもしれないが。
いや、でも、造りから言って、寝室とも取れる。
・・・何か、おかしい。
直感的に、オレはそう思っていた。
「お待たせしちゃって。冷たいものしかないけど、いいですか?」
戻ってきた狩野さんの手には、グラスが一つ。
大き目のそのグラスは、オレンジジュースが満たされていた。
オレは「いただきます」と会釈をし、目の前に置かれたジュースを眺めた。
ジュースを入れるだけにしては、いやに時間がかかったな。
なかなか戻ってこないから、コーヒーでも入れているのかと思った。
そう思いつつも、グラスに手をかける。
とりあえず、喉は渇いていた。
オレがジュースを飲んだのを見てから、彼女は口を開いた。
「・・・探偵さんは、あの頃と変わりないみたいね。」
あの頃とは、一年前の事件のことを指す。
確かに彼女の風貌の変化に比べれば、オレは何も変わっていなかった。
オレはグラスをテーブルに置いた。
ジュースはもう残り少ない。
「確か、短大の被服科に通われていましたよね。卒業して、今の仕事に?」
「短大はやめたの。今の仕事はバイト先で紹介されて。」
彼女は僅かに視線を逸らしながら言った。
「実は、私。兄が起こした事件からいろいろあって。」
「・・・そう・・・だったんですか。」
それくらいは想像がついた。
事件が人に及ぼす影響は大きい。
「やっぱり、犯罪者が身内にいたりなんかすると、何かとね・・・。うちの場合、両親も自殺だったし。」
少し迷惑そうな顔をして、彼女が話す。
事件後は、ロクな事がなかったという口ぶりだ。
「だけど、ご結婚されたんですよね?」
明るい話題が全くなかったわけじゃないはずだ。
それに今はまだ新婚で、幸せいっぱいのはずなんじゃないのか?
ちょうど、話題が結婚になったところで、オレは彼女の夫の事を聞き出してみることにした。
「ご主人は何をされている方なんですか?」
「えっと・・・。まぁ、自由業みたいな・・・。」
曖昧な返事だ。
自由業って言ったって。こんなマンションに住める程、景気のいい仕事って一体?
まさか、彼女が生計を支えているとは考え難いし。
また疑問が湧く。
やっぱり、何か変だ。
「すみません。他のお部屋を見せてもらってもよろしいですか?」
そうオレが言うと、彼女が目を細めてオレを見る。
「探偵さんは、藤代さんの話を聞きに来たんでしょ?私のマンションの部屋が何か?」
「ええ。ちょっと気になる事があって。」
「ここが、私の部屋でないとでも思ってるの?」
彼女の言葉が、妙にすとんとオレの胸に落ちる。
そのとおりだった。
ここが彼女の部屋ではなく、藤代さんのモデル仲間の誰かの部屋だと考えれば、すべて納得が行く。
女性の一人暮らしのようなスタイルも。
見覚えのある住所も。
そう思っているのに。
何故か、考えが上手くまとまらず、言葉にならなかった。
急激に頭が重い。
その内、瞼が重くなり、視界まで揺れ出した。
・・・おかしい。どうして、こんな?
「いいわよ?他の部屋を見せましょうか?」
狩野さんの声が、妙に遠く聞こえた。
と、その時、彼女の後ろのガラスの扉が開いた。
奥から、茶色い髪の男がこっちを見ている。
彼が彼女の夫?なんだ、居たのか。
やっぱり、彼女はウソをついていたじゃないか。
ウソ? どうしてウソなんか・・・!
反射的に立ち上がろうとして、それは叶わなかった。
足に力が入らずに、オレはそのまま倒れ込む。
両腕に必死に力を込めて、彼女を見上げた。
「無駄よ。もう薬が効いてきたわ。」
「・・・薬って、一体・・・っ」
もう腕で体重を支える事もできなかった。
必死に頭だけを上げて、男の方を見る。
その時、揺れる視界の中で鈍く光る細長い物が見えた。
男の手に握られて、どす黒い色をした・・・。
良く働かない頭でも、オレは瞬時に状況を理解した。
だけど、もう何の役にも立たない。
・・・ああ、クソっっ!
あとは、もう唇を噛み締めるしかできなかった。
目の前に立つ男こそが、例の殺人犯に違いないのだ。
この部屋にヤツがいるということは、ここの本来の住人であったはずのモデルも、もう殺害されてしまったということかもしれない。
それは、あの血塗られたナイフが物語っていた。
「貴方が悪いのよ、探偵さん。」
頭の上で、狩野さんの声が遠く響く。
振り向いて、彼女の顔を見たかった。
けれども、もう体に力が入らない。
頬にひんやりとしたフローリングの感触があたる。
そのまま、頭の中に黒い霧が立ち込め、その霧の向こうから、「恨むなら、この事件に関わった自分を恨んでね」という声を聞いたような気がした。
それきり、オレの意識は闇に沈んでいった。
二人目の被害者が発見されたのは、その日の正午過ぎ。
いつまでも撮影現場に現れない被害者を心配した関係者が、マンションの管理人に連絡を取った事から明らかとなる。
そして、殺害の状況などから、同一犯による犯行とほぼ断定された。
警視庁捜査本部。
「あの現場に、工藤君がいた可能性があるだと?」
目暮警部の声が会議室に響き渡った。
「は、はい。マンションの管理人の話では、若い女性と一緒にマンションに入っていく工藤君を目撃したとのことで・・・。」
高木刑事の報告に、さらに目暮警部が突っ込む。
「若い女性って誰だ?被害者かね?」
「い、いえ、あの。マンションの住人ではないようで、見覚えがないと・・・。」
「それで、そのまま工藤君が行方不明・・・ということは・・・。」
目暮警部が低く唸る。
と、彼の前に立つ、相変わらず佐藤刑事の皮を被った怪盗が口を挟んだ。
「犯人に拉致されたと考えて、まず、間違いないんじゃないでしょうか。」
その一言で会議室の空気が、凍りつく。
高木刑事が震えた声を出した。
「く、工藤君、無事・・・ですよね?」
「殺すつもりなら、あの場でできたはず。そうしなかったという事は、彼を生かしておいて、何か利用するつもりなんじゃないかしら?」
「・・・利用って・・・。」
高木刑事が言いよどむ。
と、佐藤刑事の顔をしたキッドは、バックから写真を一枚取り出した。
モデル事務所の応接室にあった写真だ。
一番右端に写っている女性を指差して見せた。
「ところで、この女性に見覚えはありませんか?」
写真を見せながら、キッドはその人物の説明も行なう。
「・・・なるほど。じゃあ彼女の事を工藤君は気にしていたわけか。」
ひげを撫でながら言う目暮警部に、佐藤刑事の顔でキッドがにっこり微笑む。
「ええ。工藤君が、過去に関わった事件の関係者かもしれません。そして、彼をマンションに連れ込んだというのも、もしかすると・・・。」
「よし、わかった! 工藤君の関わった事件を全件、洗い出しだ!それから、マンションの管理人にも確認を!大至急だ!!」
目暮警部の指示に、いっせいに捜査員達が動き出す。
と、その時だった。
一人の捜査員がバタバタと会議室に走りこんできて、声を上げたのだ。
「大変です!狩野 陽子と名乗る人物からメールが届きました!!」
「なんだと?!」
警視庁に届いた電子メールの内容が、明らかになる。
そこには、高校生探偵 工藤新一の身柄と引き換えに、今回の強盗殺人犯である自分達の海外逃亡の手筈を整えるよう、記してあった。
メールの文面を一読した捜査員達は顔を見合わせる。
口火を切ったのは、高木刑事だった。
「・・・あの、これって。狩野 陽子が自分から犯人だって、言ってきてるようなものですけど。」
「調べ上げれば足のつく人物だったのかもしれんな。遅かれ早かれ、自分だと気づかれることを睨んで、工藤君を人質に取ったのかもしれん。」
目暮警部も意外そうな声を上げた。
「でも、調べる手間が省けて良かったじゃないですか。捜査に協力的な犯人で助かりましたね?」
「さ、佐藤さん、まだ事件が解決したわけじゃないですから・・・。」
「高木君の言うとおりだ!取引の時間は今夜八時。それまでに犯人を説得し、工藤君を無事に救出しなければならんのだからな!」
目暮警部が吠える。
それに同調するように、捜査員達がいっせいに声を上げた。
すると、佐藤刑事の顔をした怪盗が、すっと挙手した。
「あの、目暮警部。一つ、提案があるのですが。」
「何だね?佐藤君。」
目暮警部を含む、捜査員達の注目を浴びる中、佐藤刑事の顔をしたキッドはすました顔で発言する。
「とりあえず、工藤君の安全を第一と考えるなら、人質の身代わりを犯人側に申し出てみてはどうでしょう?」
その発言に、捜査員達が目を剥いた。
「つまり、我々の誰かが人質になる代わりに、工藤君の解放を要求するというわけかね?」
眉をつり上げた目暮警部に、佐藤刑事は、いやキッドは黙ったまま頷く。
その提案は悪くなかった。
確かに民間人の、しかもまだ高校生である少年を人質とされるよりは、警察官が人質の方がマシだ。
犯人との直接の交渉もできるだろうし、その後の作戦も十分に練った上で送り出す事ができれば、なおのこと。
目暮警部は、意を決したように同意を示した。
それを見て、キッドは佐藤刑事の顔でにっこりする。
いや、この場合、にんまりと言った方が適切かもしれない。
ここにいる誰もが気づかないだろうが、それはあの怪盗しか持ち得ない独特の笑いだったのだ。
そして、歌うような声でこう言った。
「では、人質役はぜひ、私にやらせていただけますか?」
To be continued |