もしかして、オレはもう死んじまったのか?
闇の中で、オレは考えていた。
そのうち、ぼんやり開けてきた視界に、灰色のうす汚い天井が見えた。
・・・天国にしては、ずいぶん殺風景なところだな。
そう思ったところで、唐突に意識が浮上する。
ここ、どこだ? オレは一体・・・。
「・・・いってっ・・・!」
両手を動かそうとした途端、手首を締め付ける痛みが走った。
縛られている。
両手どころか両足も、硬いロープのようなものでしっかりと固定されていた。
辺りを見回すと、コンクリートが打ちっぱなしのその狭い室内には、オレの他は誰もいない。
なんだ?・・・廃墟みたいな・・・。
急激に活動し始めたオレの脳が、意識を失う前の記憶を呼び起こす。
そうだ! 狩野さん・・・っ。それに、あの男!
倒れる前の出来事が、鮮明に頭の中によみがえった。
クッソっ! 冗談じゃねーぞ。
と、突然、言い争うような男女の声が耳に届いた。
「だから、仕方ないでしょ?こうするしか、他に方法がなかったのよ。」
「警察にさっさと犯人だなんてバラしやがって。お前が完全犯罪をするって言うから、オレはっ!」
「いいから、言うとおりにして。もうこうなったら、やるしかないんだから!」
狩野さんの声だ。
もう一人は、さっきの男か?
オレが聞き耳を立てていると、バンという音とともに、重そうな扉が開いた。
戸口には狩野さんが立っている。
「・・・! 気がついたの。」
横になったままのオレを、彼女が冷ややかな目で見下ろした。
「とりあえず、生かしておいてあげてるんだから、感謝してほしいわね。」
・・・それもそうだ。
とりあえず、オレが笑顔で「どうも」と礼を言うと、彼女は眉間にしわを作った。
「・・・貴方、自分がどういう状況に置かれているか、わかってるの?」
「ええ、もちろん。」
わかってはいるけど、あいにく、これくらいの事で動じるような体質じゃないんで。
「それより、二、三、お聞きしたいんですが。」
オレは、一生懸命体を起こして、何とか座るような体勢を作ると、改めて狩野さんを見上げた。
「さっき、貴方が外で話していた男性、おそらくマンションにも居た方だと思いますが、彼はどなたですか?」
オレの質問に、彼女の目がすっと細くなった。
「あれは私の夫よ。もとはヤクザの使いっぱしりをやらされていたような、だらしのない男。」
言いながら、彼女は上着のポケットに手を突っ込む。
中から取り出したものを、オレに掲げた。
・・・ミレニアム・スターだ!
「ね、見て。こんな大きなダイヤ、見た事ある?」
目もくらむような輝き。
さすがは、世界で一番美しいダイヤと言われるだけのことはある。すごい。
「昔、何かで人間はダイヤの原石で、磨けば誰でもこのダイヤのように輝けるって、読んだ事があるけど。・・・それはウソよね。だって、私みたいな人間、どうやったって輝きようがないんだもの!!」
ダイヤを握る彼女の手に力が入る。
彼女は下を向いて、肩を震わせた。
「両親があんな風に死んで・・・。兄があんな事件を起こして! その後、私が普通に幸せに暮らせたと思う?みんな、私を犯罪者のような目で見て。短大になんて通っていられなかったわ!私みたいなのを受け入れてくれる人なんて、ろくでもない人間だけ。言い寄ってきた男を見てわかったわ。私には、こういう男がお似合いなんだってね!」
「・・・それが、今のご主人なんですか?」
「そうよ。それでも仕方ないって、我侭なモデル達にこき使われる仕事だってしてきた。いつか、もっとちゃんとした衣装の仕事を任せてもらえたらって、そう思ってきたのに! 藤代さんが私の過去の事件の事を持ち出して、そんな経歴の人間に未来はないって、そう言ったの。」
コンクリートの地面にポタポタと雫が落ちた。
狩野さんは泣いていた。
「悔しかった。殺してやるって思ったの。ちょうどデミアスのイベントで帰国してきたその時が、チャンスだと思った。ついでに宝石も奪ってやるってね。計画を持ちかけたら、夫も喜んで乗ってきた。そういう人なの。完全犯罪にしてあげるって言ったら、大喜びで。いえ、事実、完全犯罪をするつもりだった。だけど・・・。」
涙に濡れた頬を拭って、彼女は笑った。
「とんだ誤算よね。まさか、貴方がこの事件に関わってくるなんて。」
オレは黙ったまま、彼女を見つめた。
「貴方の確かな推理力は、兄の事件の時に実証済み。見破られるのは時間の問題だと思ったわ。貴方を殺してそれで済むのなら、そうしたかったけど。警察だってバカじゃないしね。そうそう何の計画も無しに殺す事なんて無理。・・・おかげで大幅に予定変更よ。」
彼女は苦笑した。
オレは顎を引き、彼女を見据える。
「さっきのマンションは、貴方の部屋ではないですよね。あの部屋の本当の住人は、今、どこに?」
「さぁ?もうこの世にはいないことは確かね。」
・・・クソっ! やっぱり、そうか。
オレは唇を噛んだ。
「野中さんっていってね。藤代さんとは同期のモデルで、嫌な女だった。私が藤代さんを良く思っていない事を知っていたから、念のため口封じさせてもらったの。」
・・・それも計画の内というわけか。
彼女は手の中にあるダイヤを見つめながら言う。
「貴方があの部屋を訪れた時は、既に手遅れ。っていうか、貴方をあそこに案内する事が予定外。もうそこで完全犯罪は諦めて、強硬手段に出る事にしたわけ。」
なるほど。じゃあ、事務所前で彼女がメールを打っていた相手というのは彼女の夫で、オレを今から部屋へ連れて行くという計画の算段でもしていたというところか。
やってくれたものだ。
だとすると、オレを人質に取ったってことは・・・。
「もしかして、僕を使って警察を脅迫でもしましたか?」
「察しがいいわね。そのとおりよ。貴方の命と引き換えに、私達を国外へ逃がすよう要求したの。」
「なるほど。それで、警察側は何と?」
「まだ何も。でも夜八時までに何らかの回答を寄越さない場合は、貴方の命は保障しないとは言ってあるわよ。」
「ちなみに今は何時ですか?僕は腕がこのとおりなので、時計が見られなくて。」
動かない腕を揺すって見せると、彼女は上着のポケットにダイヤをしまう変わりに携帯を取り出して、時刻を確認した。
「夕方の五時過ぎ。五時十二分よ。」
と、いうことは、あと三時間ないな。
・・・さて、これからどうする?
とりあえず、ここは隙を見て脱出。なおかつ犯人を捕らえるのがベストだが。
ゆっくりと、部屋全体を見渡す。
正面のドア以外、この部屋には窓一つない。
とにかく、この手足を何とかしねーと・・・。
と、部屋の外から慌しい足音がして、彼女の夫が部屋へやってきた。
「おいっ!警察から返事が来たぞ!」
夫とともに、彼女は戸口でこそこそ話している。
話が決まったのか、夫は戸口から消え、彼女はオレに振り返った。
「警察は私達の要求を呑んでくれるって。ただその前に、人質の身代わりを寄越すから、貴方を解放しろって言ってきたわ。」
・・・身代わり? それって、もしかして・・・。
イヤな予感だ。
「佐藤っていう、女の刑事だそうだけど。」
・・・やっぱり。
予想通りの結果に、オレは大いにうなだれる。
「それで・・・。その警察側の要求は、受け入れることにしたんですか?」
「ええ。人質が増えるなら、ますますこっちに分があるわけだしね。」
彼女は何かを企むように、微笑んだ。
なるほど。
要求を呑むと見せかけて、新たな人質を確保、だがオレを解放するつもりはないわけか。
まぁ、その作戦も悪くはないだろうな。
ただし、それも新たな人質が、本当に「佐藤刑事」だったらの話だ。
残念だけど、ここにやって来るのは・・・。
オレの気も知らずに、狩野さんは鼻で笑う。
「ねぇ、佐藤っていうのは、貴方と一緒に事務所に聞き込みに来てた刑事?だとしたら、貴方が誘拐されて、責任を感じて身代わりなんか申し出たのかしらね?」
・・・そんなこと、あるワケない。
アイツがここに来る理由は、ただ一つ。
オレは、彼女の上着のポケットを、じっと見つめた。
その奥に隠れた輝くダイヤ、ミレニアム・スターを。
午後六時二十分、警視庁捜査本部。
人質の身代わりという要求を呑んだ犯人側は、人質交換の場を驚く事に自分達の潜伏先を指定してきた。
犯人達が立てこもっているのは、都心部からそう遠くない廃屋のビルだった。
「まず、第一に建物の全体包囲をする。ビル内の出入口を全て確認した上で、指示があるまで待機。いいな?」
目暮警部が、ボードに張り出された建物の見取り図を指して説明を始めた。
「あくまで工藤君の救出を第一に考え、行動してくれ。」
しんと静まり返った会議室に、目暮警部の声だけが響いていた。
そこへ、高木刑事が声をあげる。
「あのっ。やはり、佐藤さんが人質というのはっ!佐藤さんじゃなくて、僕が、僕が代わりにっっ!」
覚悟を決めたような彼の発言に、他の捜査員達は顔を見合わせ、こぞって我も我も身代わりを申し出た。
さすが、捜査一課の花、佐藤 美和子だけのことはある。
いや、でも今、ここにいるのはニセモノなのだが。
気の毒な事に、真実を知らない捜査員達はニセモノの身を案じて、我先にと自分を犠牲にしようとしていた。
そして、そんなニセモノは、もちろん演技を続行中。
高木刑事らの暖かい申出に、少しはにかむような笑顔まで見せて言った。
「ありがとう、高木君。それからみんなも・・・。」
かなり念の入った芝居だ。
室内にいる一同は、完全に彼女にメロメロである。
捜査員全員に惜しみなく笑顔を送ったそのニセモノは、悲劇のヒロインさながら、言い放つ。
「だけど、ここは私に任せてちょうだい。」
「しかし、佐藤君。本当にいいのかね?」
心配そうに声をかける目暮警部にも、毅然してと言う。
「ええ。それに女性の私の方が、犯人も油断するに違いありませんから。」
「いや、確かにそうかもしれんが・・・。」
「大丈夫です、警部。後方には機動隊も控えていますし。」
佐藤刑事の言葉に、目暮警部は重く頷いた。
そしてそのまま、捜査員達の方へ向き直る。
「よし!では、人質は当初どおり、佐藤君でいく。犯人側も居場所を明らかにした事で、周囲を包囲される事くらい見当はついているはずだ。いいか?必要以上に興奮させたり、追い詰めたりしてはならん!絶対だぞ!」
目暮警部のその指示に、捜査員一同は声をあげた。
警察側も、人質交換が素直に成立するとは思ってはいなかった。
ただ、現場に誰か捜査員を送り込むという事が、重要だったのである。
犯人達の潜伏している建物を完全に包囲し、準備ができたところで機動隊が強行突入する。
それこそが狙いだ。
しかし、それを実行するには、外からではキッカケが掴めない。
内部にいる誰かが、手引きする必要があった。
「いいかね?佐藤君。犯人らが立てこもる部屋の傍まで部隊を配置させる。君は中に入ったら、合図だけしてくれればいい。君の合図で突入する。」
真剣な眼差しでそう言う目暮警部に、佐藤刑事の顔をした怪盗も頷く。
「おい、目暮。合言葉か何か、決めておいた方がいいんじゃないか?」
今まで口を挟まなかった中森警部が言った。
彼も、もちろん現場には赴くつもりだ。
怪盗キッドが、現場に現れると踏んでのことである。
確かに、その読みはあっている。
というか、すでに怪盗はこの場にいた。
「・・・合言葉か。確かにそうだな。その方が確実か。チャンスは一度きりだ。失敗は許されんからな。」
ふむ、と顎に手を当てて、目暮警部が言う。
「・・・合言葉。何か、いいのはあるかな?」
ぽつりと呟いた高木刑事に、佐藤刑事の顔をした怪盗はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、『怪盗キッド』っていうのはどうかしら?」
「『怪盗キッド』???」
目暮警部の声に中森警部の声も重なった。
「そ、それはちょっとどうかと・・・。」
意見する高木刑事の前に、怪盗は佐藤刑事の顔をぬっと突き出す。
「あら、高木君はキッドの事、嫌い?」
「い、いや、あのっ。嫌いとか好きとかそういうんじゃなくて・・・。も、もし、現場にキッドが本当に現れでもしたら、みんながキッドだと叫んで、合言葉どころじゃないんじゃ・・・。」
真っ赤になって言いよどむ高木刑事の前に、佐藤刑事の皮を被った怪盗は人差し指を立てて言った。
「大丈夫♪ 万一、キッドが現れたとしたら、犯人達は余計に混乱するに決まってる。そこを狙うのよ。」
でも・・・と、まだ食い下がろうとした高木刑事の声は、中森警部の声にかき消された。
「よぉーしっ!それだ!キッドは必ず現場に現れるに決まっているのだからな。合言葉がそれなら、それと同時に我々二課の捜査員達も一気に突入できる!目暮、合言葉は『キッド』で決まりだっ!いいなっっ!!」
「あ、ああ・・・。」
「いいんですか?目暮警部?」
心配そうに高木刑事が小声で言うが、目暮警部はまぁしかたがないと頷いて見せるだけだった。
そんな二人をよそに、中森警部は殺人犯とキッドの逮捕を大声で宣言し、息巻いていた。
すぐ目の前にこそ、彼の追い求める怪盗がいるとも知らずに。
俄かに建物の外がざわめくのを、オレは感じていた。
狩野さんの話では、人質交換が行なわれるのは、当初の取引予定時刻の午後八時。
時計を見ることが叶わないオレには、今の正確な時間がわからないが、おそらくもうそろそろのはず。
にもかかわらず、オレをここから移動させる気配がないってことは、人質交換はここでするつもりか?
だとしたら、この場所は既に警察に知らせているということになる。
そうか。外はもう・・・警察に包囲されているんだ。
オレの考えを裏付けるように、狩野さんが彼女の夫とオレのいる部屋に入ってきた。
夫の方はかなり興奮している。
「おいっ、どうするんだ?アレ全部、サツなんだぜ?本当にこれで逃げられるのか?」
「大丈夫よ!人質がいるんだから!それにこれからもう一人、こっちに来るのよ?二人の人質を盾にすれば、絶対に大丈夫!」
彼女がそう説き伏せると、夫は頷き、少し頭を冷やしてくると言って部屋を出て行った。
部屋には、オレ達だけ。
オレは、真っ直ぐに狩野さんを見つめた。
「SATってご存知ですか?特殊急激部隊。警視庁の特殊急激部隊なら、ここが高い建物の場合、おそらく屋上から外壁を伝って進入してくるはずです。」
「・・・だったら、何なの?」
彼女が苛立っているのを承知で、敢えてオレは言った。
「貴方も本当はわかっているんじゃないですか?こんなことをしても、決して有利な交渉は得られない事を。」
「人質のくせにうるさいわね!もし失敗したら、その時は一番に貴方を殺して、私も彼も死ぬ。それだけよ!」
「それでいいんですか?死んだら、そこで全てが終わりですよ?生きてさえいれば・・・、」
不意に彼女の携帯が鳴る。
彼女はしばらくの間、鳴り響く携帯を無言で見つめると、オレに言った。
「・・・雑談はここまでよ。」
電話は表にいる警察側かららしい。
彼女は少し話した後、携帯をオレの方へ持ってきた。
「貴方の声を聞かせろって。」
余計な事は言うなと前置きをして、彼女は自分の携帯をオレの耳に押し当てる。
オレはそんな彼女を見上げつつ、口を開いた。
「・・・工藤です。」
『く、工藤君っ!無事か!!』
電話の向こうからは、目暮警部の声が聞こえた。
「すみません、警部。ご心配おかけしてしまって。」
『いや、それより。ケガは?ケガはしていないのかね?』
「大丈夫です。」
オレがそう言うと、安堵したような警部の息が聞こえた。
『もう少しの辛抱だ。既にそちらの場所は特定した。これからそこに、佐藤君を行かせる。いいかね?佐藤君の指示に従ってくれ。』
それでは、まさにキッドの思惑どおりなのだが。
でも今ここで、ヤツの正体をバラすのは得策じゃない。
オレは、「はい」としか答えられなかった。「あの」と言いかけた時、携帯はオレの耳から離されてしまう。
再び、彼女が目暮警部と会話した。
「もういいでしょ?じゃあ、その女の刑事をこっちに寄越して。ああ、そうだ。変なマネされても困るし、両手はしっかり手錠をかけて来てもらおうかしら?」
そんなことしたって、ムダだ。
何しろ、相手はあの怪盗なのだから。
そうとは言えず、オレは無言で狩野さんを見つめる。
やや興奮気味な彼女の瞳は、赤く充血していた。
それから、電話を終わらせた彼女は、部屋の扉を開け、夫を呼んだ。
夫に何かを耳打ちすると、彼女は部屋を出て行く。
代わりに、彼女の夫がオレに近づいてきて、手にしていたナイフをちらつかせた。
「サツがおかしなマネしやがったら、お前なんかすぐに殺してやる!」
凶暴な台詞を吐きながら、夫が笑う。
ナイフを翳す彼の腕の時計は、まもなく取引開始時刻、午後八時を示していた。
To be continued |