「うっわーっ、荒れてんなぁ!」
頭の上からそう聞こえたのは、和谷の声だ。
正座してしたままの姿勢で、オレは背後を恨めしそうに見上げる。
すると、オレの盤面を面白おかしそうに見つめている和谷と目が合って、オレは心の中で舌打ちをした。
昼休みの合図のブザーが鳴ったのは、もう少し前のこと。
棋院の大広間には、人ももうまばらで。
オレの対局相手もブザーと同時に立ち上がりすでに席を外していて、オレの目の前には打ちかけの碁盤だけが置かれた状態だった。
まだ中盤にもさしかかっていないソレは、どちらが優勢かということは別として、お世辞にも良い内容とは言い難い。
要するにわざわざ和谷に言われなくたって、自分の碁が最悪なことくらい充分に承知だった。
自分でわかっていることを、人から言われると余計に腹が立つ。
オレはむくれて、「ほっとけよ」とだけ小さく返した。
と、和谷がニカっと笑ってオレの腕を引っ張り上げる。
「ほら、進藤、メシ行こうぜ、メシ! まさか食わないつもりじゃないんだろう?」
「・・・当ったり前だろ!」
溜息混じりにそう言ってオレは座布団の上に立ち上がると、和谷の後を続いてその部屋を後にした。
休憩室のちょうど窓際の席を確保したオレ達は、それぞれの弁当を口に運んでいた。
箸でおかずを突付いているオレの顔を、和谷がちらちらと覗き見る。
「―――どうしたんだよ、お前。どっか調子でも悪いのか?」
「・・・・・・別にそんなことねーよ。」
そっぽを向いて答えるオレを、和谷は黒い瞳でじっと見つ返していた。
その後、ペットボトルのお茶を一口流し込んで、わざをオレにわかるように溜息をついて見せた。
「・・・ま、言いたくないならいいけどな。」
「別にまだ今日の対局に負けたわけでもないし、いいだろっ?」
「勝ち負けの問題じゃなくてさ。お前が本調子じゃないみたいだから、何かあったのかと思っただけだって。あの内容じゃ、勝ったところで森下先生のカミナリが落ちそうなことはお前もわかってるだろ?」
・・・・・確かに。
オレは首を竦めた。
できれば今日の対局内容は、森下先生には見せたくない。
いや、森下先生どころか、佐為にだって。
―――それに、塔矢。
アイツにだって、見せられない。
もし、見せたら何て言うか。
きっと、ものすごい勢いで怒られそうだ。
髪を振り乱して自分を怒鳴りつける塔矢が、容易に思いつく。
そして、そんな風に塔矢のことを想像してしまった自分をすぐさま押さえつけた。
―――何、考えてるんだ、オレ。
塔矢はもう関係ないのに。
黙り込んでしまったオレに気を使うように、不意に和谷が話題の転換を図る。
だが、それは今のオレにとって地雷を踏むようなもの以外何ものでもなかった。
「―――そういや、進藤、お前さ。ここしばらく棋院で朝飯食ってねーか?今朝もコンビニのパン、食ってたろ?」
「・・・ああ。」
「何だよ?もう塔矢は朝飯作ってくれねーのか?」
ちょっと冷やかすように和谷が笑う。
・・・失敗したと思った。
和谷に塔矢のことなど、話しておかなければよかった。
―――なんて、後悔したところでもう遅い。
和谷には、オレの部屋に塔矢が泊まることもあり、そして泊まった翌朝には朝食を作ってくれるのだということをしっかり教えてしまっているのだから。
・・・・・・もっとも。
オレと塔矢の本当の関係までは、さすがに話してはいないけど。
都合が良いことに、和谷はオレ達が夜通し碁をやってるものだと勝手に勘違いしてくれていたので、敢えてそのままにしておいた。
森下門下である手前、オレが塔矢と一緒にいることをブーたれていた和谷は、他意もなくからかうような口調で言ってきただけなのだが。
それでも。
オレは心のどこかでツキンと痛むものを感じた。
「・・・もう塔矢を部屋に呼んだりはしねーよ。」
ぽつりと呟いたオレに、和谷は箸を口に突っ込んだままその目を丸くした。
「へ?何で?」
「・・・何でって・・・。和谷がそれを言うのかよ?オレだって一応森下門下なんだし、普通に考えたら、塔矢となんか一緒にいられないだろ?」
オレの台詞に、和谷は気を良くしたのか「そうだろ、そうだろ」とバシバシと人の肩を叩いた。
「―――けど、急にどうしたんだよ? まさか、塔矢名人に怒られたとか?門下が違うクセにあっちの碁会所に出入りしてて・・・。」
「違うって。」
オレは苦笑ししながら、食べ終わった弁当箱の蓋を閉める。
そうして飲み終わったペットボトルと一緒に弁当箱を持つと、席を立った。
「・・・・・・ただ、やめにしたんだ。 もう誰かと馴れ合ったりするのは―――。」
背を向けたままそれだけ言うと、オレは和谷を休憩室に残して、対局場である大広間へと戻ったのだった。
○●○○●● ○●○ ○○●○●○
碁会所―――。
パチリ、パチリと碁石を打ち付ける音だけが響く。
艶やかな黒髪を僅かに揺らしながら、物静かに一人で碁を打っている少年がいた。
塔矢アキラである。
その鋭い視線は碁盤にだけ、一心に捧げられていた。
そんな彼の横に、そっと熱いお茶を持った女性が現れる。
どうぞと差し出されたお茶に、初めてアキラの視線が彼女の方へ向いた。
「・・・ああ、市川さん。ごめんなさい、気がつかなくて。」
「いいのよ。アキラ君、ずいぶん真剣に打ってたみたいだから、声をかけていいのかどうかわからなくて。とりあえず、お茶を出しておきたかっただけなの。」
「・・・ありがとう。いただきます。」
にっこりと微笑む市川に、アキラも瞳を和らげて出されたお茶に手を伸ばした。
アキラの白い喉が熱いお茶を飲み下すのを見守ると、市川はここ最近、疑問に思っていたことを何気なく口に出した。
「そういえば、最近、進藤君の姿が見えないけど。どうかしたの?」
「・・・・えっ。」
「進藤君よ。ほら、だってちょっと前までしょっちゅう来てたじゃない?それでそのたびに二人で大喧嘩するし。最初は驚いていたけど、もうすっかり慣れたわよ。だから、そんな二人の姿が見られないと逆になんだか物足りなくって・・・。」
「・・・市川さん。僕と進藤のケンカをそんな楽しみにしてたんですか?」
「イヤね、アキラ君たら。人をそんな悪趣味みたいに言わないで。ただ私は、あんなアキラ君を見るのが新鮮だっただけよ。やっと同じ年代の友達ができて、年相応の素顔も見せてくれるようになったっていうか・・・。」
ニコニコと言う市川とは反比例するように、アキラの顔は曇っていく。
それを見逃さなかった市川は、優しくアキラに尋ねた。
「どうしたの? 進藤君と何かあった?」
黙り込んでしまったアキラに、市川は首を傾げる。
「・・・・もしかしてケンカでもした?」
二人のケンカなら、この碁会所で何度も披露されていた。
だが、それはこの場限りのものがほとんどで、深刻なものなど一度も無い。
それがわかってるから敢えて切り出された質問に、アキラは苦笑した。
「・・・・・・ケンカ・・・と言えば、そう言えなくもないけど・・・。」
「いつもみたいに、すぐ仲直りできそうもないの?」
「・・・ちょっと・・・難しいかな・・・。」
アキラは物悲しそうに笑う。
それを見た市川は、それ以上、二人の間に何があったか聞くようなことはなかった。
もちろん、聞かれたところでアキラが真実を言えるわけもない。
アキラはその市川の優しい心遣いに感謝しながらも、そのまま言葉を繋げた。
「―――ねぇ、市川さん。僕はずっと碁だけがすべてで・・・。だからかな、人とつき合うのがどうも下手みたいなんだ。」
言いながら、アキラは碁盤に乗った石を両手でかき集めて、碁笥に戻す。
「・・・・・・本当の気持ちって、一体どうしたら伝わるのかな?」
思わず漏らしたアキラの呟きに、市川が何か声をかけようとしたところで、碁会所の入り口のドアが開く音がした。
「あ。 市川さん、お客さんが見えたみたいだよ。」
そう言って、アキラはいつもの人当たりの良さそうな笑顔を作って見せると、何事も無かったかのように、また碁盤の上に石を並べ始めた。
○●○○●● ○●○ ○○●○●○
オレが塔矢に一方的に別れを告げてから、2週間が過ぎた。
別れ際、あんなに納得行かない様子だった塔矢も意外に諦めがいいのか、一度として連絡を寄越さない。
幸か不幸か、棋院でもアイツと顔を合わせることもなかったので、本当にオレ達はあの日以来、会っていなかった。
塔矢のいない生活にも慣れた。
夜、一人で過ごす時間を持て余すんじゃないかと、ちょっと心配もしたけど、実際はそうでもない。
馴染みの碁会所に顔を出したり、棋院仲間と食事に行ったりすればあっという間に時間も過ぎてしまう。
極力、オレは空いている時間を作らないように心がけた。
そうすることで、塔矢のことを考えないようにしていたのかもしれない。
塔矢のことを考えたくなかった。
アイツとの別れは自分で決めたことだけど、なんだか塔矢のことを思うだけでツライ。
―――塔矢をひどく傷つけたんだとも思う。
だけどアイツだって、本当はオレじゃなくて佐為が―――っ・・・。
・・・・・そう。
結局、塔矢が本当に打ちたかったのは佐為だったんだ。
胸が少し痛んだ。
―――こんなこと、思っちゃいけない。
なのに、オレの中でどろどろとした汚い気持ちが生まれているのがわかる。
なぁ、佐為。
お前もこんな気持ちだった?
本当は打ってるのはお前なのに、オレだけがチヤホヤされて。
―――お前のこと、オレ、蔑ろにしてた。
ごめんな、佐為。
今更謝ったって、もう遅いけど。
でも、ごめん。
オレ、やっと佐為の気持ちがわかったかもしれない。
自分のことを見てもらえないのがこんなに淋しいなんて、知らなかったんだ―――。
そんなことを思いつつ、オレは棋院へと続く緩やかな坂道を一人上っていた。
と、いきなり後ろからポンと肩を叩かれて、ギクリとする。
「おはよう!進藤!」
「・・・何だ。奈瀬か・・・・。」
「"何だ”とは何よ!失礼ね〜っ!」
・・・いや、そういうわけじゃないんだけど。
オレは、苦笑しながらとりあえず平謝りしておいた。
「進藤も今日、手合いだったんだ?後ろからアンタの背中見つけたら、なんだか元気なさそうだったから・・・・。どうかしたの?」
「いや、どーもしないって。奈瀬こそ、もうすっかり元気そうじゃん。」
こないだ会った時には少し辛そうだったのに、今日はもういつもどおりの奈瀬だ。
それ以上に、何か吹っ切れたようにさっぱりして見える。
「もう大丈夫なんだ?」
オレがそう聞くと、奈瀬は笑って頷いた。
そして、そのまま奈瀬は例の男の人とは別れたのだと、こっそり教えてくれた。
「私からフッてやったの。冷静に考えたら、このままダラダラ関係を続けてても、自分にプラスになるとは思えないし・・・。それに、私には今、やるべきことがあるから、そっちをまずがんばらなくちゃね。」
「・・・そうなんだ。」
「―――でもね。彼を本気で好きになった自分を後悔はしてないの。実りの無い恋だったけど、それは自分の正直な気持ちだし。」
「・・・・・・強いな、奈瀬は。」
「そうよ!強いんだから私は!」
そう言った奈瀬の笑顔が、とても眩しくオレの目に映った。
そのまま二人で棋院の入り口をくぐると、なぜかざわついていた。
いつもと明らかに違うその雰囲気に、オレも奈瀬も首を傾げた。
「・・・あれ?ロビーにやたら人が多くない?今日って何かあったっけ?進藤?」
「・・・・・さぁ?オレ、知らねーけど。」
不思議に思いながら、その人ごみを通過しようとすると、それ違いざまに聞こえてきたのは、『塔矢君、大丈夫なのかな?』という言葉だった。
それを聞いて、オレは足を止める。
「進藤?どうしたの?エレベーター来てるよ?」
奈瀬が呼んでいるのがわかったので、とりあえずエレベーターへ向かおうとしたところで、オレは違う声に呼び止められた。
「進藤君!!」
声の主は週刊碁の記者、天野さんだった。
息を切らしてオレの元へすごい勢いで走ってくる。
・・・どうしたんだろう?やっぱり何かあったのかな?
そう思って、オレが天野さんに訊ねるより先に、天野さんはひどく焦った口調でオレに言った。
信じられない一言だった。
「大変だ!進藤君!!塔矢君がっ・・・・、彼が乗った車が事故にあったっ・・・!!」
●○○●● To Be Continued