ある程度は、予想のできる範疇の事だったのだが。
しかしそれでも、実際に起きてみると、にわかに絶望の気分を味わったりするものだと
いうことを、その朝、オレは思い知った。
今日は、『週刊 囲碁』の発売日。
店頭に並ぶその一冊を手に取って、自らの特集をされているページを確認したところ、
問題のネット碁についての記事は、オレの願いも虚しく、バッチリ掲載されていた。
もちろん、そこにオレが『sai』だろうと確証づける文などないが。
それでも、オレが夏休みの間を利用してネット碁をやっていたという事実は、しっかり
載っている。
・・・・・まいった。
もしこれを和谷や、あと緒方先生が見たりしたら、また『sai』に関しての詮索意識を一層
かき立てることになりかねない。
寝た子を起こすとは、まさにこのことだ。
それに。
それに、塔矢。
塔矢は、これを見て、どう思うだろう? 何て言うだろう?
そしてオレは、塔矢に何て言ったらいいんだろう?
気分とは裏腹に、爽やかな風がオレの頬を撫でていく。
自分のちっぽけな囲碁の経歴が、輝かんばかりに過大評価されているのを、オレはどこか空々しい気持ちで見ていた。
・・・ごめんな。 佐為。
お前の功績まで、オレが横取りしたみたいだな。
オレは苦笑しながら、今はもういないアイツに小さくそう詫びる。
もっとも、アイツはそんなこと、気にしないような優しいヤツだったけど。
オレは雑誌から目を上げて、まだ高い位置にある太陽を見上げた。
塔矢が地方でやってた指導碁の仕事を終えて帰ってくるのは、今日の夕方。
碁会所で落ち合う約束になっていた。
「・・・帰ってきたその足で碁会所に行くなんて、アイツもタフだよなぁ・・・。」
会う約束なんて、しなければ良かった。
・・・なんて、そんなこと今更思ってみても、遅い。
・・・・塔矢。
お前に合わせる顔がないよ。
心に重い鉛のようなものが沈んでいく気がして、オレは書店に佇んだ。
○●○○●● ○●○ ○○●○●○
「あら、いらっしゃい、進藤君! アキラ君なら、もう来てるわよ?」
塔矢名人が経営するこの碁会所にもすっかり常連なオレは、入り口で笑顔で市川さんに
そう迎えられた。
思ってたよりも早い塔矢の帰りに、オレはちょっと面食らったが、奥を覗くと、確かに
もう見慣れたが、男にしては珍しいおかっぱ頭を見つける。
塔矢はまだオレに気づかずに、碁盤に静かに石を置いていた。
意を決して、いよいよ塔矢の方へ足を運びかけたオレに、思わぬ方向から声がかかる。
「あ!!進藤君っ!!これこれ!『週刊 囲碁』見たよ!!すごいじゃないか、こんな特集!いやぁ、これを見る限り、進藤君も並みの人間じゃないねぇ〜!」
声の方を振り返ると、馴染みのおじさんが雑誌片手に、オレにそう笑いかけていた。
オレの代わりに、お茶を用意しながら市川さんが言う。
「当たり前でしょ?進藤君はアキラ君が唯一、ライバルと認めた人なんだから!
凡人なワケがないじゃないの!」
「そりゃそうだ!ははは!」
そんな風に『週刊 囲碁』のことが話題に上ったせいで、そこらに居た人達がいっせいに
こっちにタカって来た。
「え?進藤君が載ってるって?」
「どれどれ?ワシにも見せてくれ!」
部屋がざわついたことで、塔矢がこっちを振り返った。
オレと目が合う。
何か言おうとして、オレは失敗した。
そんなオレを塔矢は真っ直ぐに見つめ、それから、いつものように柔らかく笑った。
「進藤・・・。」
「・・・・・・あ、と、塔矢。 あの、お帰り。早かったな、もっと遅いかと思ったんだけど。」
塔矢が笑ってくれたことで、オレは少しだけ自分を取り戻す。
言いながら、雑誌を取り囲んでいるおじさんらを残して、塔矢の居るところへ向かった。
「予定より一本早い列車に乗れたんでね、ああ、これ、お土産。お家の人と食べてくれ。」
塔矢はそう言って、紙袋をオレに差し出す。
オレは小さくお礼を言って、受け取った。
「サンキュ。悪りィな、わざわざ・・・。」
「いや、構わないよ。」
一瞬、沈黙が落ちた。
塔矢の座っている場所の脇にも、例の『週刊 囲碁』が置いてある。
オレは、無言でチラリと目の端に映してしまった。
塔矢はそれに気づいたか、気づかなかったか。
雑誌については何も触れずに、オレに席を勧めた。
「・・・打とうか、進藤。」
さりげないその塔矢の誘いを、オレはただ頷くだけで黙って椅子に掛ける。
塔矢はそれまで碁盤を占領していた石を、綺麗に片付けた。
「お願いします。」
「・・・お願いします。」
やがて、オレ達の間にはパチン、パチンと碁盤に石を置く音しかしなくなる。
塔矢の、その男にしては細くて綺麗な指先が滑らかに動いて、碁盤という宇宙に星を置いて行った。
オレは、石を人差し指と中指で挟みながら、塔矢の顔を盗み見る。
その表情は穏やかで、盤上に向けられた瞳は真っ直ぐ、揺らぎない。
いつもの塔矢だった。
・・・塔矢のヤツ、『週刊 囲碁』 見てないのかな?
いや、見たよな。
例の雑誌は、今、塔矢が座っている席からも容易く手に届く範囲にある。
塔矢がそれを敢えて、手に取らない理由など、どこにもない。
絶対に見てるはずだ。
・・・だったら。
オレは、碁笥の中の冷たい石を掴んで握り締めた。
だったら、なんで?
どうして、何も言わないんだよ? 塔矢・・・。
じっと盤上を見つめていた塔矢の視線が不意に上がって、オレを見た。
「・・・どうした、進藤? 君の番だよ?」
「・・・あ、ああ。」
優しい塔矢。
何も言わない塔矢。
でも本当は、オレの中の佐為を追っている塔矢。
・・・オレは。
オレは ずるい。
コイツが、どれほど佐為を知りたいと思っているか知ってるのに。
なのに。
ごめん、塔矢。 オレ、まだ・・・。
・・・・・・お前には、佐為のことを言えない。
本当のことを話して、お前がオレの前から去っていくかもしれないと思うと、怖くて仕方が
ないんだ。
もう大事な人を失うのは、イヤだ。
佐為は消えた。
この上、塔矢までいなくなってしまったら・・・!!!
オレはっっ・・・・っ!!!
「・・・あっ!」
掴んだはずの石が、オレの指から滑り落ち、床に硬い音を立てて転がった。
「どうした、進藤? 具合でも悪いのか?」
「・・・あ、いや・・・。」
塔矢が心配そうに、オレの顔を覗きこむ。
オレはそんな塔矢の目から逃げるように顔を背け、体を折り曲げると、床に落ちた碁石を
拾おうと手を伸ばした。
ツキンと。
また、胸の奥がどこか軋む音がする。
胸が苦しい。
なんだか、息ができないくらいに。
「・・・進藤? 大丈夫か?」
体を折り曲げたまま、軽く胸を押さえているオレの上から、塔矢の声がする。
だけど、オレはそれには応えられないでいた。
胸が。
何かにぎゅっと押しつぶされるみたいに痛い。
『何か』?
いや、オレはその正体を知っている。
それは、オレの塔矢に対する罪悪感。
永遠に消える事のない佐為に対する罪の意識とあいまって、オレの心に巣食っているモノ。
「進藤?」
いつまでも返事をしないオレに、本気で心配しだした塔矢は椅子から立ち上がって、
オレの肩に手を当て、体を抱き起こそうとした。
塔矢に触れられて、オレは体をビクリと体を竦ませる。
「進藤、本当に具合が悪いのなら・・・、」
「へ、平気・・・。具合なんか、悪くない。」
「・・・しかし・・・。」
「大丈夫だって!」
言いながら、オレは塔矢の腕を押し返した。
まだ心配そうにこっちを見つめている塔矢を、見つめ返す。
「・・・あの・・・さ。 今日はヤメにしねぇ? お前も帰ってきたばっかで疲れてるだろ?」
「いや、僕は・・・。やっぱりどこか調子が悪いのか?進藤?!」
「・・・・別に。 ただ気分が乗らないだけだよ。」
塔矢の意思を聞くまでもなく、オレはこれ以上、コイツと打つつもりはなかった。
というか、こんな状態でマトモな碁なんて、できっこない。
オレは碁笥の中に自分の置いた石を戻す。
碁盤の上にそれを静かに置くと、さっさと席を立ち上がった。
「悪いけど、今日は帰る。 お土産、サンキューな。」
「え?進藤っ・・・・!」
優しい塔矢と一緒にいるのが、これ以上耐えられなかった。
それでも、逃げ帰るような、そんな素振りは見せないように、極力、笑顔を作ってみる。
できるだけ不自然にならないように、オレはその場を去った。
○●○○●● ○●○ ○○●○●○
碁会所を出て、オレは雑踏の中をひた走る。
横目に、以前、塔矢と語り合ったブランコのある公園が映った。
駅に行くには、この公園を通り抜けるのが近道。
オレがその公園を横切ろうとした時、背後でオレを呼ぶ声がした。
げ! 塔矢っ・・・!!
まさかとは思ったが、塔矢がオレを追ってきていた。
・・・何だよっ! 何で、来るんだよ!!
オレはぎょっとした顔で塔矢を見、再び前を向くと、さらに足を急がせる。
「・・・待てっ!進藤っ・・・!!」
待ってたまるか!
オレは塔矢を無視して走ったが、意外なことにアイツの足音はすぐ傍まで迫ってきた。
どうやら、塔矢は足が速いらしい。
妙なところに感心しながら、それでもオレは塔矢から逃げ切ろうとした。
が。
ヤツの腕が、オレの腕をグッと掴み上げた。
「どうしたんだ?!進藤っ・・・!!何を泣いている?!」
捕まれた腕を振り払おうとしたオレは、塔矢の言葉に目を見開いて、ヤツを振り返った。
・・・『泣いている』だと?! 誰がっ!?
オレの目からは、涙なんか、ひとすじも零れていなかった。
なのに。
どうして、そんなことを言うんだよ、塔矢?!
泣いてなんか・・・!!
「・・・泣いてないっっ!!」
オレは、力任せに塔矢の腕を振り払って、そう怒鳴った。
そんなオレを、塔矢は冷静に見つめる。
「・・・僕には、君が泣いているように見えるよ。」
「お前っっ、目がおかしいんじゃねーの?! オレは泣いてなんかないっっ!!!」
「君は泣いている。 ずっと心の中で。 泣きたいなら、本当に泣けばいいんだ。」
「何言ってんの?! お前の言ってる事、ワケわかんねーよっっ!!」
それこそ、泣き叫ぶようにオレは言った。
それでも、そんなオレに対して、塔矢は冷静だった。
「君は、何に苦しんでいるんだ? 何が君を追い詰めている?!一体、何から逃げようとしてるんだ?」
「・・・べ、別に何もっっ・・・!!」
言えるわけない。 塔矢に!
瞳を逸らしたオレに、塔矢は食い下がった。
「逃げてばかりでは、物事は解決しないぞ、進藤! 真正面から向き合うべきだ!
僕はそうしてきた!」
真っ直ぐにオレを見つめ、そう言ってのける塔矢を、正直、腹立たしく思った。
塔矢の言う事は、正論だ。
だけど、世の中、そんな単純なものじゃない。 簡単に片付けられない事だってあるんだ。
「ハッ・・・!お前らしいよ、塔矢。
そんなの、今までにとり返しのつかない失敗をした事ないから、言えるんだ!」
瞬間。
オレ達の間の空気が、ひどく冷えた気がした。
塔矢の目が、ギラリと鋭い光を放つ。
オレがあっと思った時には、ハデな音がし、オレの左頬は塔矢に叩かれていた。
叩かれた頬が熱い。
まさか、殴られるとは思わなかったので、オレは呆然として、塔矢を見つめる。
塔矢は。
塔矢は、怒っていた。
怒りに肩を震わせているのが、オレの目から見ても明らかだった。
「君はっっ!!僕が何の苦もなく、ここまで来たとでも言うのかっっ!!!」
「・・・違う!! 違う!違うっっ!! オレが言いたいのはそんなことじゃないっっ!!」
「じゃあ、何だっ!?」
「お前にはっ・・・、塔矢なんかには、わからないよっ!!」
「進藤っっっ!!!」
激しい口調で、オレの名を呼ぶ塔矢の手が伸びてきて、オレはまた殴られるのかと
一瞬、身を竦めた。
だが、塔矢は両手でオレの両腕を掴むと、グッと力任せに引き寄せた。
塔矢との距離が一気に詰まる。
怒りを露わにした塔矢の瞳が近づいて、オレは息を呑んだ。
「進藤っっ! 君は一体、僕にとうして欲しいんだ?! 言ってみろっっ!」
塔矢の言葉に、オレの瞳が揺れる。
どうして欲しい・・・って、そんなの・・・・。 そんなの、オレにだってわからない!
わからないよっ!!
佐為・・・・!
苦しいよ、佐為!!
オレ、どうしたらいい??!!
塔矢に捕まれた腕が痛い。
「進藤!言いたい事があるなら、ちゃんと言え!言わなければ何も伝わらない!!」
「・・・オ、オレはっ・・・!!」
触れられている場所も、突き刺さるような塔矢の視線も、何もかもが痛い。
「・・・と、とにかく、腕を放せ・・」
その小さなオレの呟きは、最後まで言い終わることなく、途切れた。
オレの口が何かにそっと塞がれたからだ。
それが。
塔矢の唇だということに、しばらくは気づく事もできずに。
オレは目を見開いて、ただじっとしていることしかできなかった。
●○○●● To Be Continued