柔らかい感触がオレの唇を包む。
頬に触れるサラリとした黒髪。
極度のアップにも耐えうることのできる、塔矢の顔がすぐそこにあった。
・・・オレ・・・。
塔矢に。
・・・・・・キスされてる??!!
ようやくにして、事態を把握したオレは、思わず塔矢の胸を突き飛ばす。
唾液に濡れた唇をグイっと拭って、力の限り塔矢を押した。
ドンという音と共に、塔矢の体は一瞬よろけはしたものの、すぐに体勢を整え、
塔矢は真っ直ぐオレを見据える。
「・・・バッ・・・!!塔矢っ!お前、何すんだっっ!!」
「何って、キスだ。知らないのか?!」
「バカっ!そんなこと言ってるんじゃねぇ!何で、そんなことするのかって言ってるんだ!!」
「君があまりにもわからず屋でうるさいから、その口を塞いだまでだ。」
オレは塔矢の答えに唖然とする。
・・・うるさいから、口を塞いだ??
普通、うるさいからってそんなことするか???!!!
コイツ、おかしい・・・。
オレは少し後退して、塔矢を見上げる。
「・・・お、お前、キスっていうのは、そういう時にするもんじゃないぞ!?」
「わかっている。だが、僕だって考えなしにしたワケじゃない。相手が君だったからだ。」
「お前なぁ!こういうのは、普通、好きな人とやるもんだろ?!」
「そのつもりだ。」
・・・・え?
オレは、まじまじと塔矢の顔を見つめてしまった。
塔矢は、碁を打つ時のような真剣な眼差しをオレに向けている。
・・・・・・・・・・ちょっと、待て。
予期せぬ事態にオレの頭の中は、ハレーションを起こしかけている。
導き出した1つの答えに、オレはどうにも自信が持てないでいた。
・・・なので、恐る恐る塔矢に伺う。
「・・・・・・・お前。 もしかして、オレのこと、好きなの?」
「悪いか?!」
あっさり言われて、オレは思わず口をへの字にしてしまう。
・・・・わ、わ、悪いか?って。
確かに悪くはない・・・けど。 普通、この場でそんな風に切り返すヤツがいるか???!
オレが二の句に詰まってると、塔矢がそこから一歩踏み出す。
「君はどうなんだっ!?」
「・・・えっ!? ど、どうって?!」
「僕のことを好きか、と聞いているっっ!!」
「・・・そっ・・・。」
そんなこと、考えた事もなかった。
―――― 塔矢のことを “好きか” だなんて。
塔矢は、オレにとってのライバルだ。
オレが碁を打ち続けていく上で、必要不可欠な特別な存在であることは認める。
コイツの囲碁に対する姿勢は尊敬してるし、
盤上に注がれるどこまでも真っ直ぐな瞳は、揺ぎ無い信念を表していて好きだ。
だけど。
―――― 塔矢のことを “好きか” だなんて。
オレは・・・・・。
そんな風に考えた事ないけど。
考えた方がいいのか??? ・・・・・・考えたら、どうなんだ???
ぐるぐるしだしたオレに、塔矢がさらに一歩迫って、オレの両腕を掴んだ。
「進藤っ・・・・!」
「・・・ちょ、ちょっと待てっっ!! いっぺんに言うなっ!混乱するっっ!!!」
これ以上難題をふっかけられてはたまらないので、オレは塔矢の言葉を遮るように叫ぶ。
よくよく考えてみれば、本題が摩り替わってきている気がする。
大体、こんなことを話していたのではなかったはずだ。
オレが困ったように塔矢を見上げる。
すると、塔矢はじっとオレを見つめた後、一人で何か納得したように頷いた。
「・・・・・わかった。 続きは家で話そう。」
「・・・え?」
「幸い、ここから僕の家は近い。 さっきの件も含めて君の意見をじっくり聞かせてもらう。」
言うなり、塔矢はオレの腕を掴んで歩き出す。
「・・・お、おいっ!ちょっと待てよ! 塔矢っ・・・・!」
オレの意思など塔矢は聞く耳を持たず、そのままスタスタと公園を横切っていく。
捕まれた手は、振りほどけないほど強く握られて。
塔矢に半ば引きずられるように、オレは公園を後にしたのだった。
○●○○●● ○●○ ○○●○●○
初めて訪れた塔矢邸は、さすが名人宅に相応しい荘厳な佇まいだった。
ご立派な門構えに恐縮してしまったオレを、塔矢は有無を言わさず強引に中へ連れ込む。
「・・・と、塔矢っ! オレ、やっぱり帰・・・」
「うるさい! さっさと入れっ!!」
オレに逃げ場を与えないよう、塔矢がぴしゃりと言い捨てる。
コイツが強引なのは今に始まったことではないが、本当に自分でこうと決めたら一歩も退かないところがスゴイ。
オレはその塔矢の迫力に脱帽し、諦めて靴を脱いだ。
「アキラさん、おかえりなさい。 あら? 進藤君? いらっしゃい!」
奥から、塔矢とよく似た面差しの美人が顔を出す。
塔矢のお母さんだ。
以前、塔矢名人が入院していた病院で一度顔を合わせたことがあっただけだが、
オレのことを覚えていてくれたらしい。
優しい笑顔で出迎えてくれた。
オレは、お邪魔しますと小さく会釈で返す。
「ただいま、お母さん。 これ、お土産です。」
「あら、ありがとう。 アキラさん、お夕食は?」
「あとでいただきます。」
「そう? 進藤君も、どうぞうちで召し上がっていってね?」
「・・・あ、いや、オレは・・・。」
オレが返答に困っていると、塔矢がオレの腕をそっと引いた。
「進藤、僕の部屋へ行こう。」
「・・・あ、ああ。 あの、じゃあ・・・・。」
そそくさと塔矢に引きずられるように、塔矢のお母さんの前を通り過ぎた。
通された塔矢の部屋は、なるほど、あの『塔矢アキラ』の部屋だと思うに相応しい純和風な造りで、およそ同世代の男の部屋とは言い難いほどのものだった。
目を引いたのは、やはり碁盤。
そして。
デスクの上のパソコン。
塔矢は。
saiとのネットでの対局をここでやったんだよな・・・・。
・・・・・・・・佐為。
「・・・進藤? どうした?」
「あ、いや、何でもない。」
部屋に入るなり、立ち尽くしたままのオレに、塔矢が声をかける。
オレは慌てて電源が落ちて真っ暗なパソコンの画面から目を逸らすと、塔矢に向き直った。
塔矢は座布団を出す。
目で、オレにそこに座れと合図した。
なので、オレはとりあえず、そこに腰を落とした。
妙な緊迫感が部屋を包む。
互いに向き合って座ってなどいると、まるで今から対局でもするかのようだ。
それでも、今、オレと塔矢の間に碁盤はない。
なんとなく、塔矢の顔を見ることが出来ずに、オレは視線を下に落としたまま
ぼんやりと座布団の柄に目をやっていた。
「・・・・さて。」
塔矢のその呟きに、オレは弾かれたように顔を上げた。
正直、コイツが何を言い出すか、気が気じゃない。
とにかく、何を言われても、オレにとっては苦痛でしかないような気はしていた。
なのに。
塔矢の第一声は、オレのそんな心を読んだかのようなものだった。
「進藤。 僕は何も君を苦しめようと思って、ここに連れ込んだわけじゃない。」
「・・・・・・塔矢。」
「君が、何か大きな苦しみに囚われているのは知っている。
・・・だから、どうしたら君が楽になれるのか、それを僕も一緒に考えたい。」
「塔・・・」
どこまでも真っ直ぐな塔矢の心が、オレの胸に突き刺さる。
自分の中にある塔矢への後ろめたさが、ドロドロとした感情と共に浮き上がってきた。
「君は以前、僕に“いつか話す”と言ってくれた。
だから、僕は待つと決めた。 ・・・君が話してくれるまで。
君に何か理由があるのなら、それを君自身が解決するまで待たねばなるまいと思った。
君もそう望んでいると思ったからこそだ。
それなのに、君は・・・。何故、そんな苦しそうな顔としている?」
「・・・オレは・・・。」
「進藤、僕が君に良かれと思ってした事が、もしかすると、かえって君を追い詰めている事に
なっているのか?」
「・・・そんな・・・。」
そんなことはないと言いかけて、そう言い切れない自分がいた。
オレを思いやってくれる塔矢のその優しさが。
確かに、痛いとも感じるからだ。
上手く言い返せないオレに、肯定の意を受け取ったのか、塔矢は溜息をついた。
「・・・わからないな。 だったら、僕はどうすべきだった?
――― 雑誌なら読んだ。
腑に落ちない点はいくつもある。今すぐ、君を問い糾したい気持ちでいっぱいだが、
『sai』に関わることだ。これについては君から話してくれるまで聞いてはならないと思って
敢えて触れずにいたんだ。
君を知りたいと思うその欲求を、無理矢理押さえつけてね。
これでも、かなり我慢しているんだ。それなのに、君にそんな顔をされては元も子もない。」
塔矢の言い分はもっともだった。
オレは、矛盾している。
佐為のことを、『今は言えない』、『いつか話す』と言っておきながら、
オレの言うとおり、黙って待っていてくれる塔矢の優しさがツライだなんて。
そんなのただのオレの身勝手以外、何ものでもなかった。
・・・・・・佐為。
佐為。 オレ、どうしたらいいのかな? このまま塔矢を失いたくないよ。
気を緩めたら、涙が零れそうだった。
うつむいて、膝の上にあった両手を硬く握り締める。
そのオレの手に、そっと塔矢の手が重なった。
「・・・・進藤。 僕はどうしたらいい? どうしたら、君は楽になれる?」
塔矢の手は暖かかった。
まるで、塔矢の優しさをそのまま現しているかのように。
今、ここですべてを話すことができたら、どんなにいいだろう。
塔矢もそれを望んでいる。
だけど。
オレは ―――。
重なっていた塔矢の手から、オレはすっと自分の手を抜き去った。
「進藤?」
「・・・ごめん、塔矢。 オレ、まだ・・・。今は言えない。」
僅かに視線を逸らせたオレを、塔矢が射るようにじっと見つめた。
一瞬の沈黙の後、小さな溜息と共に塔矢がそうか、と小さく呟く。
「・・・わかった。では、僕は待つしかない。でも、君は本当にそれでいいのか?」
「・・・ああ。 悪かったな、お前を混乱させるような態度してさ・・・。」
悪いのは塔矢じゃない。
オレ自身なんだ。
だから・・・・・・。 ゴメンな、ほんとに。
オレの為に、佐為のことを聞かないでいてくれる塔矢。
なのに、オレはオレの為にそんな塔矢を蔑ろにしている。
そんな自分の身勝手こそ、吐き気がするほど嫌悪を抱くものだった。
だけど、塔矢だけにはオレを見ていて欲しいから。
オレはもう他には望まないから。
だから。
神様 もう少しだけオレのわがままを。
「ごめんな、塔矢。」
オレは薄く笑った。
そのオレの笑いが、塔矢の目にはどう映ったのか。
塔矢は何か言いたいような顔をしていた。
「・・・わかった。その話についてはもう終わりにしよう。では、もう1つの方だが。」
「・・・えっ。」
これ以上、何を話すことがあるのかと、ぽっかり口を開けたオレに対し、
塔矢は嫌そうにその眉をひそめた。
「・・・・・・さっき、僕は君に想いを打ち明けたつもりだが。
その応えをまだ聞いていない。」
きっぱりと言い放つ塔矢を前に、オレはボッと顔を赤くした。
・・・・・想いを打ち明けたって・・・・・。
そうだった。
あまりに色気なしだったからうっかりしていたが、そういえばオレ、さっきコイツに告白・・・・・・・されたんだった。
・・・・・っていうか、本気なんだろうか?
本気でコイツ、オレを・・・?
「・・・・あの、塔矢。 さっき言ったこと本気なワケ?」
「当たり前だっ! 君は僕があんな冗談を言うとでも思っているのか!」
・・・いや、思わないけど。
すごい剣幕でそう言う塔矢に、オレはちょっと引いてみせる。
「・・・君は、僕が嫌いか?!」
「い、いや、嫌いじゃないけど・・・・。
だけど、お前が思っているのと同じように好きかどうかは、まだわからないよ・・・。」
しどろもどろにそう返すと、塔矢はまたヤレヤレと溜息をついた。
「・・・これについても、僕は待たされるわけだな。」
「・・・しっ、仕方ないだろ?!お前、突然過ぎるんだよっっ!!
オレはお前のこと、そんな風に考えた事なかったし!!」
「結構!だったら、これからはそういう風に考えてくれ!
言っておくが、これについては、僕は辛抱強く待つつもりはないからね。」
ずいっと、オレの方に人差し指を突きつけて、塔矢が言う。
オレが思わず後退しかけたところで、部屋のドアが開いた。
「・・・塔矢さん、お夕食の仕度ができたけど?」
「「あ!」」
オレと塔矢の声が重なった。
オレはそのまま立ち上がると、ドアのところまで行く。
「じゃ、オレ、これで失礼するよ!」
「あら、進藤君の分もあるのに・・・・。」
「いえ、あの・・・。オレ、家に何も言ってきてないですから・・・。
すみません、お邪魔しました!」
言うなり、塔矢の部屋を飛び出す。
背中でオレの名を呼ぶ塔矢の声が聞こえたが、オレは振り返らなかった。
○●○○●● ○●○ ○○●○●○
すっかり日の暮れた道を、一人歩く。
夜風に煽られながら、オレは塔矢のことを思い浮かべていた。
本当は。
塔矢がオレを好きだと言ってくれたあの時、オレを襲った感覚は驚きだけでなく、喜びもあった。
そう。
確かに、塔矢の気持ちを聞いて、うれしいと思う自分がいた。
誰かに、自分が必要だと言って貰えることの喜び。
相手が塔矢なら、なおさら。
佐為がいた頃と同じ様に、自分の存在意義を見出せたような、そんな気がしていた。
不意に、唇にそっと指を当てる。
ほんの一瞬だったけど、触れたそこから感じた塔矢の唇はとても柔らかかった。
不思議と胸が熱かった。
佐為・・・。
オレ、塔矢のこと、好きだよ?
塔矢が想ってくれているように、同じ様に好きかどうかはわからないけど。
オレにとって塔矢は特別で、すごく大事な存在なんだ。
アイツとはずっと囲碁で繋がっていたいと思うし。
だけど、アイツは ――――。
塔矢は、本当にオレのこと、好きなのかな?
オレの中に、もう佐為がいないと知っても ――――?
塔矢のあの優しい眼差しを思い出す。
また胸が痛み始めた。
●○○●● To Be Continued