パチリと、碁盤に石を置く音だけが静かに響く。
      いつもの碁会所で、いつもと同じ様に、今日もオレは塔矢と打っていた。
       
      『週刊 囲碁』の発売されたあの日、塔矢とはいろいろあったけど、それでも
      オレの心は、今は落ち着いている。
       
      ――― もちろん。
      
      佐為のことを話せないでいるという、罪悪感は相変わらずオレの胸を締め付けるが。
      
      その砂を飲まされるようなざりざりとした嫌な感覚も、最近はだいぶ慣れてきたように思う。
      あまり、歓心することではないけど。
       
      そして、オレのことを好きだと言った塔矢は。
      
      実のところ、オレに対する態度など、まったく今までと変わることなく接してくれるので
      オレも特に気に留めずにいられた。
       
      
      ・・・こないだは、いきなりキスなんかされて、ビックリしたけど。
      アレ以来、何もないし・・・。
       
       
      佐為のことも。
      塔矢の想いへのオレの答えも。
       
      
      決して強要しようとしない塔矢の優しさに、オレは甘えてしまっているのかもしれない。
      
      結局、オレは何一つ、塔矢に答えを出していなかった。
       
      
      ――― ただ、今は何も聞かずに、オレと碁を打っていて欲しい。
       
      
      そんなオレの我侭を、塔矢は見透かしたように黙認してくれているのだ。
       
       
      「はい、二人とも、お茶をどうぞ!」
      
      にっこりと笑顔で市川さんがオレ達にお茶を差し出した。
      
      盤上に向いてたオレと塔矢の視線が彼女に向き、それぞれ小さく礼を言ってお茶を受け取った。
      
      「早いものね・・・。アキラ君達も、もうすぐ中学卒業だもの。二人の制服姿ももうそろそろ見納めだと思うと、ちょっと寂しいわ。」
      
      「あ!塔矢、お前んトコ、卒業式いつ? オレは3月15日だけど。」
      
      「・・・えっと。ああ、僕も同じ頃だったとは思うけど・・・。」
      「何だよ?!お前、覚えてねーの?」
      
      お茶を一口すすりながら、オレは信じられないとばかりに塔矢を見た。
      
      「いや、僕は・・・。どちらにしても式に出る予定はないんだ。その頃、本因坊リーグだからね。」
       
      言われてみれば、そうだった。
      
      オレよりも、数段高いところにいる塔矢にしてみれば、確かに。
       
      
      と、オレ達の会話をそのまま聞いていた市川さんが、残念そうな声をあげる。
      
      「え〜?!じゃあ、アキラ君、卒業式にも出ないの?!せっかく中学最後なのに!」
      塔矢はただただ苦笑していた。
      
      「・・・まぁ、アキラ君はとっくにプロだから、気持ち的には中学なんて既に卒業しちゃったような感覚なのかもしれないけど・・・。それでも、せっかくの式に出られないなんて・・・。」
      
      塔矢を小さな頃から知る市川さんが、そう残念がるのも無理は無い。
      
      けれども、とっくにプロの道を歩き始めている塔矢にとって、中学時代などまるで未練は無いようだった。
       
      
      すると、塔矢がふと思いついたように、話題を変えた。
       
      
      「ところで、僕は、中学を卒業したら、家を出ようかと考えているんだ。」
      「「えっっ!!」」
      思わず、オレと市川さんの声が重なった。
       
      「い、家を出るって、アキラ君がっ?!」
      「そう。」
      「ど、どうしてっっ?!」
      
      「・・・いや、なんとなく。ただ、そろそろ自立しようかなって思っただけで。」
      
      まるで自分の家を出て行くかのように、悲痛な顔をしている市川さんの横で
      オレは反対に顔を輝かせた。
      「えーっ!塔矢、家、出るんだ?!
      そういや、和谷もプロになってから、一人暮らし始めたもんな・・・。」
      
      「まだ、両親には相談していないから、本当にこの春から家を出られるかはわからないけどね。とりあえず、出たいとは思っているよ。」
      「・・・・・ふーん。」
       
      
      オレは残り少なくなったお茶を、全部喉に流し込みながら頷いた。
       
       
      
      ・・・オレは“家を出る”なんて、あまり考えた事はなかったけど。
       
       
      不意に思った。
      
      あの佐為と打ち続けた部屋を出て、新たな環境に自分を置くのも悪くないんじゃないかと。
       
      決して、佐為から離れるというのではなく。
      
      少し、距離を置く事によって、佐為をもっとわかることができるかもしれない。
       
      それに。
      
      それに、塔矢のことも真正面から、きちんと受け入れる事ができるかもしれない。
       
       
      「・・・・オレも・・・・。」
      
      ジャリっと碁笥の中から石を掴んで、オレは小さく呟いた。
      「え?」
      塔矢がオレを見る。
      
      オレは右腕を盤上へすっと伸ばして、石をパチリと置いた。
       
      「オレも、家を出ようかな。」
      そう小さく笑いながら。
       
       
      ○●○○●●   ○●○   ○○●○●○
       
       
      葉瀬中卒業式、当日。
      
      開花したばかりの桜が、その門出を祝うかのように美しく彩っている。
       
      
      卒業証書授与も各クラスでの最後のHRも終えた後、オレ達卒業生は後輩に見送られながら
      校庭に集まった。
      
      カメラ片手に別れを惜しむ同級生を前に、オレはなんとなく、自分の居場所がそこにはないような、そんな気がして、少し居心地が悪かった。
       
      3年になってからのクラスは、実はあまり馴染んでいない。
      
      オレがプロになって、あまり学校に顔を出さなかったのがいけないのだけど、
      おかげでクラスの輪から、なんだか取り残されたような形になってしまっていた。
      特に親しい友人を作ってるヒマなんて、なかったから。
       
      それを別に、後悔なんかしてないけど。
       
      「はぁーい! 写真取るよぉ〜vvv」
       
      
      肩を組んで、仲良しグループの男女が写真を取り合ってる姿を、オレはどこか遠いところからそっと見つめているような、そんな感覚に捉われていた。
       
       
      「ヒカルっっ!!」
      
      不意にかけられた声に振り返ると、花束をいくつも抱えたあかりが立っていた。
      「・・・あかり。」
      
      「ヒカル、あっちで囲碁部のみんなで集まってるんだ。一緒に写真くらい撮らない?」
      「え? あ、いや、でも、オレ・・・・。」
      
      「ヒカルったら、囲碁部やめたこと、まだ気にしてるの? 大丈夫よ!ねっ?!
      今いる男子とか、結構、ヒカルのこと憧れてる子も多いんだから!」
      
      言いながら、あかりがグイグイとオレの腕を引っ張っていく。
      
      連れて行かれた先には、数人の男女が輪になって話していた。
       
      ・・・オレが知っている顔は、女子の金子くらいか?
       
      「あら、進藤じゃない。」
      
      ふっくらした顔の金子がそうこっちを見て言うと、現囲碁部と思われる人間がいっせいにオレを見た。
       
      
      「わぁぁ!!進藤ヒカル先輩じゃないですかっ!!プロのっっっ!!」
      「写真、一緒に撮ってください!!」
      「オレも、オレもっっ!!」
       
      突然、そう言い寄られて、オレは思わず、逃げ腰になるが。
      「・・・えっ! いや、あのっ・・・。」
       
      
      まだ1年らしい後輩の一人がオレの腕を捕まえて、放そうとしない。
       
      
      「進藤先輩、どうして囲碁部に顔出してくれなかったんですか?俺、先輩に指導碁とかしてもらいたかったのに!!」
      「あ、いや、でも、オレは囲碁部、やめたから・・・。」
      
      「えー、だって院生になるためにでしょ?仕方が無いじゃないですか。プロ棋士が出た囲碁部なんて、それだけでもスゴイですよ。葉瀬中の誇りですね、先輩は!」
      過去のいろいろ複雑な事情を知らない彼は、屈託無く笑った。
      そうして、持っていたカバンからノートを出す。
      「先輩、これにサインしてくれませんか?!」
      「え?!」
      驚いてオレは目を丸くするが。
      
      「いや、あの・・・・。オレ、サインなんてないし・・・。」
      
      苦笑しながら、突きつけられたノートをそっと押し返すと、後輩を押しのけて金子がズイっとオレの横についた。
      
      「サインなんて、名前だけ書けばいいのよ。 藤崎さん、太めのマジック持ってたよね?」
      「あ、うん・・・。」
      
      金子に言われるまま、あかりがマジックを手渡すと、今度はそれを金子がオレへ向けて差し出した。
      
      「少しは先輩らしいこと、したら? やめたとはいえ、アンタももとは囲碁部の一員でしょ?」
      「そうよ。 ね? ヒカル!」
      あかりもにっこりオレに笑いかける。
       
      ・・・・サイン・・・・ねぇ?
       
      
      オレは渋々マジックを受け取ると、自分の名前をちょっと遠慮気味にノートに書いてみた。
       
      
      「・・・うわ。進藤って、字、ヘタなんだ?アンタ、お習字とかやった方がいいんじゃない?」
      「・・・・・うっ、 うるさいな、金子っっ!」
      
      「もしかして、囲碁部の教室に未来永劫、飾られるかもしれないのに。
      こんな汚い字じゃ、プロの品格の欠片もないよ?アンタ。」
      
      「ほっとけっっ!!っていうか、これ、飾るの?!いいよ!そんなことしなくても!!」
      
      「そうねぇ。ヒカルのこんな字じゃ、後輩もやる気が失せちゃうかもしれないし。」
      「あかり!!てっめぇ〜っっ!!!」
       
      赤い顔をして膨れたオレを、あかり達が笑った。
       
      「あ、ねぇ、ヒカル。三谷君、見なかった?」
      「・・・いや。 見てないけど・・・。」
      
      「おっかしいな?さっきから探してるんだけど、見当たらないの。みんなで写真が撮りたいのに・・・。」
      
      「クラスのヤツと話しこんでんじゃねーの? そのうち、来るだろ。
      それより、お母さん達、ちっとも帰りそうじゃねーよな。」
      
      言いながら、少し離れたところにいる自分達の母親に目をやった。
      
      何やら、あかりのお母さんと話が弾んでいる。すぐには動きそうもない雰囲気だ。
      
      「ほんとね。あ、ヒカル、この後、どうするの?もし良かったら、囲碁部のみんなでご飯を食べに行くんだけど、一緒に来ない?」
      
      にっこりとあかりがオレに微笑みかけてくれて、オレはちょっと苦笑した。
       
      ・・・わかってる。
      
      あかりは、オレに気を使ってくれてるんだ。 オレが寂しくないように。
       
      
      「・・・ありがとう、あかり。 けど、オレ、この後、行くトコがあるんだ。
      だから、早く帰りたいのにさー・・・。」
       
       
      今日は、本因坊リーグ第6戦。
      塔矢は、今頃、芹澤九段と棋院で対局しているはずだ。
      だから、早く観に行きたいのに。
       
      
      恨めしそうにお母さんを見つめるオレを、あかりがニコニコとする。
      
      「そうなの?ま、でも仕方ないよね?お母さん達、会うの、久しぶりだもん。
      なんだか盛り上がってそうだし・・・。」
      
      「仕方ねーな。ちょっとその辺、ブラブラしてくるよ。じゃあな、あかり!」
      
      オレはあかりに別れを告げると、卒業生や保護者達でごったがえす校庭を避けるように校舎の方へ足を向けた。
       
      校舎の前にある花壇の脇を、ゆっくりと一歩ずつ歩く。
      
      やがて、見えてきた見慣れたカーテンの引かれた部屋に目が行く。
      理科室だ。
       
       
      ・・・・あそこで、打ってたんだよな。
      まだ、佐為が居た頃。
      ――― 筒井さんや、三谷と一緒に。
       
       
      
      オレは理科室の前まで行くと、そっとカーテンの隙間から中を覗いた。
      と、奥に人影を視止める。
      教室の一番後ろの机の上に、誰かが膝を立てて座っていた。
      
      俯いているその人物の顔までは、はっきりとは見えないけど。
      それでもあの赤毛は・・・!
      「・・・三谷っ?!」
      
      思わず、手をかけた窓は、鍵がかかっていなかったのか、ガラリと音を立てて開いた。
       
      
      突然のオレの登場に、三谷はその細い目をやや大きくしながらも、次にはフイと視線を逸らす。
       
      
      「・・・・進藤? お前、何やってんだよ?こんなトコで。」
      「・・・・三谷こそ。 何やってんだよ?」
       
      
      オレは小さく笑いながら、窓枠に両手をかけると、体重を乗せてそこに腰掛けた。
      さすがに外履きでは教室に入るわけにもいかない。
      
      外を向いたような格好で窓に腰をかけながら、オレは部屋にいる三谷に振り返る。
      
      三谷は右手で碁石を軽く放りながら、オレを見ようとはしなかった。
       
      「・・・あかり達が探してたぜ?」
      「・・・あっそ。」
      「この後、囲碁部でどっかメシ食いに行くんだろ?」
       
      
      白と黒の石が宙を舞い、そのまままた、三谷の手の中に落ちていく。
       
      
      「・・・藤崎のことだから、お前にも声をかけたんじゃねーの?」
      
      「ああ、でもオレは行かないよ。 棋院に行きたいんだ、この後・・・。」
       
      
      素っ気無くソッポを向いたままの三谷の右手で、ジャリっと石が音を立てた。
       
      「・・・・棋院? ・・・・ああ、塔矢アキラか。」
      「・・・うん。」
       
      まだ少し冷たい風が、さっと頬を撫でる。
      その風に乗って、桜の花びらが部屋へ舞い込んで行った。
       
      
      「・・・ったく、お前はいつになったら、ヤツに追いつけるんだか?」
      「だから、今、がんばってるだろ?!」
      小ばかにしたように言う三谷に、オレはちょっとむくれた。
       
      「・・・・・・三谷は?」
      「・・・何が。」
      「高校行ってもさ、囲碁、続けるんだろ?」
      「さぁね・・・。」
       
      「今度の学校にも、囲碁部があるといいけどな。」
      「・・・知るかよ。」
      
      「でも、無くてもさ。作ればいいじゃん?あかりなんて、その気満々だったぜ?」
      「・・・ヤだね。面倒くさい。」
       
      
      自分の膝に腕を突き、頬杖している三谷はにべもなくそう言ったけど。
       
      コイツが、本当は囲碁が大好きなことは知ってる。
      ただ素直じゃないだけで。
       
       
      
      オレは三谷の方を向けていた体を、前に戻すと、青空を見上げた。
      白く薄い雲が、線を引いたように薄くかかっていた。
       
       
      
      耳を澄ますと、理科室から碁石を打つ音が聞こえてきそうな気がする。
       
       
      筒井さんと、三谷と大会を目指してがんばっていたあの頃。
      そして、院生を目指すと決めて、3面打ちをしたあの日。
       
      
      ――― 思えば、いろんなことがあったんだよな。
       
      
      佐為ではなくて、「オレ」が。
      
      オレ自身が、碁を打ちたいと思うようになったのも。
       
       
      佐為・・・・・。
      
      オレ、今日で葉瀬中を卒業だぜ?
      
      考えてみれば、今のオレがあるのはこの囲碁部のおかげでもあるんだよな。
       
       
      
      遠い空を見つめながら、あっという間に過ぎていったこの3年間を、オレは振り返っていた。
       
       
      
      「・・・オレ。楽しかったよ? 
      短かったけど、囲碁部で過ごした時のこと、一生、忘れない。」
      
      そう言って、もう一度三谷を肩ごしに見ると、三谷は初めてオレの方を向いた。
      
      「・・・けっ。バッカじゃねーの。何、大げさに言ってんだか・・・。」
       
      
      三谷がそう溜息をついた時、ガラリと教室の戸が開いた。
       
      
      「あーっ!三谷君っっ!!やっぱりここだった!!あれ?ヒカルも・・・。」
      
      声を上げて入ってきたのは、あかりだ。
      
      どうやら、ずっと三谷を探していたらしい。
      
      三谷は反動をつけて座っていた机から降りると、カバンを肩に担いだ。
       
      
      「あ、ねぇ、待って。三谷君!せっかくだから写真を一枚、撮らせて!!
      ほら、ヒカル!!」
      
      言いながら、あかりがカメラをカバンから取り出した。
      「え?オレ??」
      
      「いいでしょ?三谷君との写真は撮ってないんだから!ほら、三谷君もヒカルの横に並んで!」
      
      嫌がる三谷の腕を引っ張り、あかりは強引に窓辺に座るオレの方まで引きずってくると
      数歩下がって、カメラを構える。
      
      「は〜い!撮るよ〜!!はい、ポーズv」
       
      
      パシャリ!!というフラッシュとともに、オレは三谷と同じフレームの中に納まった。
      
      向けられたレンズに、オレ達はどんな顔をして映っただろう?
      
      ・・・・たぶん、お互いロクな顔をしてないと思うけど。
       
      
      でも、少しうれしかった。
      
      三谷とこんな風に話せたのも、一緒に写真に納まることが出来たのも。
       
       
      
      「じゃあ、ヒカル。私達、そろそろ行くけど。あ、お母さん達ももう話は終わって、ヒカルのこと、探してたよ?」
      
      「え?ああ、ほんと?じゃ、オレも行くよ。」
      
      オレは、それまで腰掛けていた窓を飛び降りると、部屋の中の三谷達を振り返った。
       
      「じゃあ、またな。」
       
      
      そう手を振ったオレに、あかりは笑顔で返し、三谷はその横で黙ったままだった。
      
      でも、オレはそんな三谷をにっこり見つめた後、前を見てまっすぐ走り出した。
      
      一度たりとも振り返らずに。
       
       
      だから。
      オレは知らない。
       
      
      「・・・・・オレも、お前と囲碁部でやれて、いろいろ楽しかったぜ。」
       
      
      そう三谷が小さく呟いたのを。
       
       
       
      
      ●○○●●   To Be Continued