奈瀬の思いの寄らぬ恋愛相談は、オレと和谷にかなり衝撃を与えていた。
何より囲碁を中心に生きているオレ達だ。
それ以外の、しかも恋愛問題なんて正直言って疎い。
残念だけど、奈瀬の言うとおり、オレ達じゃ良いアドバイスなどできるはずもなかった。
相手の男性とうまくいかなくなって、初めて自分の本当の気持ちに気づいたという奈瀬は、ひどく辛そうだった。
そんな奈瀬をオレ達流のやり方で慰めてやるしかなかったけど。
「・・・まぁ、そうだな。奈瀬もよく考えればよかったんじゃねぇ?要するに早いうちに吹っ切るキッカケができたわけだろう?これからプロ試験の予選も始まるんだしさ。そろそろそっちに集中しねーとヤバイって!」
ひどく重くなった空気を打破するように、和谷が開口する。
そんな和谷に奈瀬は苦笑した。
「―――そうね。結局、最後に自分に残るものと言ったら、囲碁だけだものね。」
「・・・・・・奈瀬、もしかして、囲碁もヤになっちゃってんの?」
オレがそう心配そうに奈瀬の顔を覗くと、奈瀬はキッとオレを睨み返した。
そしてビシっとオレの前に人差し指を翳す。
「何言ってんの!?今年こそ、絶対プロになってやるんだから!ナメないでよね!」
そう勝気に笑った顔は、いつもの奈瀬だった。
「おっし!そのイキだぜ!奈瀬!!ガンガン打って、早くプロに来いよ!!夢中で打ってたら余計なことを考えるヒマもねぇって!!」
「何よ、和谷!ちょっとプロになったからってえらそうに!今に見てなさい!私がプロになったら、あっという間に追い抜いてやるんだから!ちょっと、こら!何、関係なさそうな顔してるの、進藤!アンタもよ!!」
「えっ?!いや、オレは――っ・・」
俄然、やる気を取り戻した風の奈瀬の矛先が急激に自分の方に向いて、オレはちょっと焦ったけど。
それでも、いつもの奈瀬に少しでも戻ってくれたようでよかった。
「あ〜あ。結局のところ、囲碁でがんばるしかないのよね。これじゃ、当面、恋人は囲碁にしとくしかないじゃない。」
肩までかかる髪を揺らしながら、奈瀬が溜息を漏らす。
それを苦笑いで和谷が返した。
「いーんじゃねぇの?とりあえず、達成したい目的に向けてがんばっていくしかないんだからさ!オレ達は。」
自分の右手を見つめながら、和谷が続ける。
「プロ試験に通ったって、そこがゴールじゃない。道はずっと続いてるんだ。ずっと――!」
ぎゅっと握りこぶしを作る和谷の顔を、奈瀬は少し眩しそうに見返した。
「・・・ほんとに。期待してなかったけど、アンタ達って、囲碁以外のことで私を慰める事、できないわけ?」
「「え!?」」
言われて、オレは和谷と顔を見合わせる。
「そりゃ、無理な話だって。オレ達、プロ棋士だもんなぁ!」
それから。
とりあえず、奈瀬が少しでも元気を取り戻したところで、今日はお開きとなった。
和谷と駅まで奈瀬を送りに行ったが、最後に見せてくれた奈瀬の笑顔はオレの良く知るもので、少しは立ち直ってくれたのではないかとホッとした。
「んじゃ、オレ、こっちだから・・・。」
「ん、和谷もお疲れ。にしても、奈瀬には驚いたよなぁ。」
首を竦めるオレに、和谷も困ったように笑った。
「ああ、まさか不倫の相談されるとはな。そりゃ、確かにオレらじゃ専門外だっての。ま、でも少しだけでも奈瀬が元気になってくれて助かったよ。」
「そうだよな。」
ニカっと笑うと、オレのおでこを和谷がピンと弾く。
「っテ★ なんだよ、和谷ぁ!」
「お前もだって、言ってんの!」
「だから、何が?!」
「だーかーら。 何か、お前も今日、凹んでるって。」
むぅっとして和谷が言う。
・・・別に凹んでるなんてつもりはなかったけど。
頭の隅には、どうしても消せないモヤモヤとしたものはあった。
―――塔矢のことだ。
漠然とした不満や、不安。
そして。
奈瀬の言った言葉。
“恋愛は、本気で好きになった方が負け”
“失うことのツラさを思ったら、本気にならない方がいい―――。”
「・・・べ、別に何も凹んでねーって。気のせいだよ、和谷。」
そう言った、オレは上手く笑えていただろうか?
なんだか、不意に自分の心に暗雲が立ち込めていくような、そんな感じがした。
○●○○●● ○●○ ○○●○●○
それから和谷と別れた後、オレは一人で家路を辿っていた。
たまに、立ち止まって星一つ出ていない真っ黒な空を見上げる。
時刻はもう既に10時を回っていた。
予定通りなら、塔矢はそろそろ帰宅しているだろう。
今、電話をすればおそらく通じるはず。
それでも、オレは上着のポケットに入ったままの携帯を取り出す気にはなれなかった。
今日は昼間に何度か塔矢から連絡をもらった。
それは、メールだったり電話だったり。
結局、オレはそれには出なかったけど。
出なかったのは、正直、昨夜の塔矢の対応に腹を立てていたからで、ちょっとしたオレの塔矢に対する復讐だったのだけれど。
でも、今は―――。
今は、塔矢の声を聞きたくない。
昨夜はあんなに塔矢の声が聞きたかったのに。
あんなに自分に会いたがらない塔矢に腹を立てたのに。
そんな風に塔矢のことを考えるようになった自分が、なんだかひどく愚かに思えた。
塔矢のことでいっぱいな自分に。
ファミレスで今にも泣きそうだった奈瀬に、少し自分がダブっているような気がした。
そう思うと、どこか急激に冷めた気分になる自分がいた。
―――塔矢を。
塔矢をそばに置くのは、間違いだとそう思う自分が。
・・・・・・佐為。
オレ、もう間違えたくないんだ。
塔矢をお前の代わりにするつもりはなかったけど、だけど、このままアイツと一緒にいたら離れられなくなるかもしれない。
そうなった時、またあんな想いをするのはたくさんだ。
―――だったら。
オレには、最初から誰もいらない。
いらないんだ。
○●○○●● ○●○ ○○●○●○
帰宅したオレは、まずシャワーを浴び、さっぱりしたところで碁盤に向き合った。
『結局、自分には囲碁しかない』
奈瀬はそう自嘲的に笑ったけど、でもそれは事実だと思う。
オレだってそうだ。
だけど、『囲碁しかない』んじゃない。
オレには、『囲碁だけあればいい。』
―――そうだよな?佐為。
碁盤を挟んで、かつて佐為が座っていた場所にそう問いかける。
もちろん、今はそこには誰もいないけれど。
「よし! 佐為、始めるぞ!!」
自分の心にだけは今も響くアイツの声を頼りに、オレは冷たい碁笥の中に右手を突っ込んだ。
と、そこへ。
不意に玄関のチャイムが鳴った。
・・・まさか、こんな遅い時間の来訪者なんて、思い当たる人間は一人しかいないが。
オレは慌てて立ち上がった。
何で?!
アイツ、今日は来れないって言ってたくせに・・・!
何で、今頃になって来るんだよ!!
―――塔矢とは会いたくない。
そう思ってみたところで、今更、居留守をするわけにもいかない。
オレは観念して、ドアを開けた。
扉の向こうには、オレの予想を裏切ることなくスーツ姿の塔矢が立っていた。
「・・・・なんだよ、塔矢。こんなに遅く。お前、今日、会えないって言ってたんじゃねーのかよ?」
「あ、いや、それはそうなんだが・・・・っ。」
一日ぶりに見た塔矢の顔は、地方での仕事がハードだったのか多少疲労の色が見られた。
当たり前だ。
昨日、今日と仕事で飛び回った上に、こんな遅い時間にオレを訪ねてきたんだ。
さすがに疲れてもいるだろう。
「お前、明日も何か予定があるんじゃなかったか?さっさと帰って休んだ方がいいんじゃねーの?」
せっかく会いに来てくれたというのに、ひどいことを言っているという自覚はあった。
これじゃ、ただのスネている子供だ。
オレがそんな大人気ない態度でいるというのに、塔矢はさすが大人だった。
眉一つ動かさず、息を少し吐いただけだ。
「今夜は見てのとおり、仕事から解放されるのが深夜だったのでね。君とは打つ間もないだろうから約束を断ったんだが。君は昨晩の電話では怒っているようだったし、今日は今日でこちらからの連絡には一切返答はしない。これじゃ、僕としても気にはなるだろう。君に何かあったのではないかと、
これでも心配したんだ。」
どうやら、オレの目論みは大成功だったらしい。
塔矢は一日、オレの心配をしてくれた。
昨日までのオレなら、そう喜ぶべきところだろうけど。
残念ながら、今はもうそんな気分にはなれなかった。
「・・・悪かったな。今日は一日忙しくてさ。」
「・・・そう・・・なのか?まぁ、君に何もないのならいいのだが。」
僅かに視線を逸らしたオレに、塔矢は少し首を傾げる。
オレはそのまま塔矢の方を見ないで、言葉を繋いだ。
「とにかく・・さ!今日はもう遅いし、お前もいろいろ疲れてんだろ?早く帰った方がいいって。オレも明日も手合いだしさ。」
「・・・進藤?」
塔矢を追いやるようにそう言うと、塔矢がオレの腕を取る。
「どうした?何かあったのか?」
「・・・・・・何も。」
「進藤。まだ怒ってるのか?ちゃんと会いに来ただろう?だからいい加減、機嫌を直せ。」
言いながら、塔矢の指がオレの顎にかかり、そのまま上を仰がせる。
近づいた塔矢の顔は、いつもの満ち足りた笑顔だった。
塔矢の唇が近づくのを見、オレはすっと顔を逸らした。
「・・・やめろ。」
「進藤?」
構わず迫ろうとする塔矢を、オレは今度こそ本気で押し戻した。
「だから、やめろって!!」
アパートの狭い玄関に、オレの声が響いた。
力いっぱいオレに突き飛ばされた塔矢は、ドアにこそ体を打ちつけはしなかったものの、かなり驚いた様子でオレを見返している。
―――オレは。
そんな塔矢の顔が真っ直ぐに見れずに、目を逸らすしかなかった。
「・・・進藤?一体どうしたんだ?」
「・・・・・・どうもしない。」
「どうもしないって・・・。君、僕を避けているじゃないか!今夜の約束のことを怒っているなら・・・っ」
「違う。怒ってなんか・・・・・。」
オレは俯いて、そして消え入るような声で言った。
「いや、確かに昨夜までは怒ってたよ。・・・でも、もういいんだ。」
「もういいって・・・・。進藤?」
そんなオレに再び伸びてきた塔矢の手から、オレは身を引いて逃げる。
あくまでも触られまいとするオレの態度に、今度は塔矢の方が少し傷ついたような顔をした。
「進藤?僕に触れられるのも嫌なのか?」
そうじゃない。
けど。
「・・・悪い。塔矢。今夜はもう・・・。」
「待て!進藤!!それじゃわからない。ちゃんと僕にわかるように説明してくれ!!」
塔矢の両腕が今度こそオレを捕まえて、無理矢理引き戻す。
近づいた塔矢の目はいつものとおり真剣なもので、オレの胸をひどく締め付けた。
服を通して伝わる塔矢の温もりさえも痛い。
「・・・だからっ!こういうのはもうヤメにしようって、そう言ってるんだっっ!!」
塔矢の目が驚きに見開いていく。
「進藤・・・・?こういうのって・・・。それは、僕が君に触れようとすることか?何故だ!相手のことが好きなら当然のことのはずだ!それとも君は―――っ!!」
そこまで言って塔矢は次の句に詰まる。
オレはそんな塔矢をぐっと見据えた。
塔矢の黒い髪が揺れる。
「・・・・君は・・・・。もしかして、僕のことを好きではないのか?」
塔矢の声は、少し失望したようなそんな風に聞こえた。
オレは自分の腕に絡む塔矢の手をゆっくりと引き剥がすと、改めて塔矢を見た。
「・・・・・お前のこと、好きだと思ったよ。でも―――・・・ダメなんだ。」
これ以上、一緒にいたら、オレはきっとお前から離れられなくなる。
そうなってからじゃ、手遅れなんだ。
だから、そうなる前に―――!
「ごめん、塔矢。 ・・・・終わりにしよう、オレ達―――。」
突然に別れを告げたオレに、塔矢は目を見開き、次の瞬間には襟元に掴みかかった。
ものすごい勢いだった。
「どういうことだっ!事情を聞かせろ!!こんな話、ワケも無く納得なんかできないっっ!!」
「・・・ワケなんて、ない。 ただ、そう思っただけだ。もういいだろ?放せよ。」
「放すものか!君はいつだってそうだ!いつも一人で抱え込んで―――!どうして、僕に何も言ってくれないんだ!!」
ぎりぎりと喉元が苦しくなるのを我慢して、オレは塔矢を見つめる。
塔矢は押さえきれない感情を、一気にぶちまけているようだった。
「"いつか話す”と言ってくれたことだって、そうだ!!一体、僕がどれほどの思いで我慢していると―――!!」
我慢―――!?
そうだよな。
塔矢、お前は、佐為のことが知りたかったんだもんなっ!!
結局、お前が興味があったのは。
オレなんかじゃなくて―――っっ!!!
オレは、塔矢の手を力ずくで払うと、ギッと睨みつけた。
「帰れよ!」
「・・・・新・・・ど」
「帰れって言ってんだろっっ!!帰れ!!」
喉が切り裂けるほどの声を出して叫ぶと、塔矢はもう何も言わずに立ち去った。
一人狭い玄関に立ちすくんでいたオレは、そのままズルズルと壁伝いに腰を落とした。
見ろ。
やっぱり、塔矢は佐為が目当てだったんだ。
オレの中にいる、佐為だけが―――。
塔矢が本当に打ちたいと思ってるのは、オレじゃない。
佐為だけなんだ。
そうさ。
そんなこと、わかりきっていたことだろう?
これで良かったじゃないか。
オレと一緒にいたって、塔矢には一生佐為と打たせてやることなんてできない。
ヘタに希望を持たせるより、マシだろう?
だから。
これで良かったんだ。
アイツにとっても、オレにとっても―――。
・・・佐為
―――なぁ、佐為。
これで良かったんだよな?
だけどさ。
フッてやったのはオレの方なのに、何でオレがフラれたような気分になるのかな?
塔矢に捕まれていた腕が痛い。
不意に、頬の上を何か熱いものが伝うのをオレは感じていた。
●○○●● To Be Continued