博士から電話をもらった新一は、急いで阿笠邸に戻った。
新一がドアを開けると同時に出てきた博士は、玄関口で慌ててまくし立てる。
「だから、わしが帰ってきた時には、哀君の姿はなかったんじゃよ。こんな時間まで、哀君が家に帰ってないなんて・・・・・。携帯にも出ないし、まさか、哀君の身に何かあったんじゃ───?!」
新一は靴を脱いで上がると、左腕の時計を見た。
時刻は、午後6時過ぎ。
決して、遅い時間ではない。
だが、灰原 哀が家に不在というには、充分不自然な時間である。
博士の話では、彼女は今日、ちゃんと小学校へ登校したとのことだった。
哀を見送った後、学会へ出かけてしまった博士には、その後の彼女の足取りは不明だったが、特に放課後、予定があるとは聞いていない。
学校帰りにコンビニや本屋に寄り道することはあったとしても、普段から用心深い彼女が1人で外出することなど、あり得なかった。
万が一あったとしても、博士が学会から夕方には帰ってくることを知っていた彼女が、何の連絡も無しに出かけるとは考え難い。
新一はオロオロする博士を後ろに、リビングへ入って中を見渡す。
部屋に変わったところはなかった。
ソファのわきには赤いランドセル。
テーブルの上には哀がよく読んでいるファッション雑誌と、飲みかけのグラスがあった。
ランドセルがあるということは、哀が間違いなく学校から帰宅したことを意味する。
彼女の自室でなく、リビングにそれがあるのは、おそらく彼女が帰宅して一時的に置いたからなのであろう。
そして、グラスの中のアイスティがほとんど減ってない事から、何かあったのは彼女が学校から帰ってすぐのことだったのではないかと新一は推測した。
「・・・ランドセルの横に財布も置いてある。まさか、これでちょっとそこまで買い物に行ったなんて事はね─だろうな。」
言いながら、新一はもう一度、じっくりと部屋を見た。
争った形跡など、どこにもない。
だが、予め何者かがこの家に侵入していたとして、彼女を連れ去ったと言うのなら、それも可能だ。
大の大人が小学生の女の子1人攫うことなど、容易いはずである。
「・・博士。博士が帰ってきた時、玄関の鍵はかかってたのか?」
新一に振り向いた。
すると、博士はぶんぶんと首を縦に振る。
「普段から哀君は、1人で居る時は必ず鍵をかけておる。いや、チェーンまでしておる。だからわしが出かけた時は、いつもインターフォンで哀君に中から開けてもらうんじゃ。しかし、今日はチャイムを鳴らしても返事がないから、わしが自分で鍵をあけたんじゃ。チェーンはかかっておらんかったぞ。」
新一は小首を捻った。
当たり前だが、チェーンは家の内側からしかできない。
哀が家に居たのなら、博士の話のとおりだと鍵をかけ、さらにチェーンもしてあったと考えるべきである。
「・・・つまりこの状況では、灰原自身が鍵をかけて出かけたようにしか思えない・・・。」
「じゃあ哀君が自分からここを出て行ったとでも言うのか?はっ!そういえば、今朝は元気なかったが、まさか組織の事でわしらに迷惑をかけまいとして───!」
自分の身の上をよく知る彼女である。
自分のせいで、周囲を危険に巻き込む事を何よりも恐れていた。
哀が何か思いつめて、1人出て行ってしまうということは可能性としてはゼロではない。
だが、その可能性を今は、新一は確信を持って否定した。
「それはね─よ、博士。もし、アイツが出て行くんだとしたら、身の回りはきちんと整理していくと思わね─か?ランドセルも置きっぱなし、しかもテーブルの上には飲みかけのグラスまであるんだぜ?」
「では、やはり誰かが哀君を?!」
「アイツが自発的に外出したと考えるには、不自然な点が多すぎるだろ?だけど───。」
玄関のドア以外で、誰かが出入りした形跡はないのだ。
もし、彼女を連れ去った誰かがこの家の鍵までかけてくれたと言うのなら、ずいぶんと親切な犯人ということになる。
そんなことあるだろうか?
新一は考えを廻らせながら、リビングに続いてダイニングキッチンの方へ向かった。
キッチンは綺麗に片付いていた。
ただ、シンクの中の一つのグラスを除いては。
新一はそれを指差した。
「・・・・・・博士、このグラスは?」
「え?ああ、さぁ?わしは使っておらんが。今朝、哀君が学校へ行くのを見送って、それからわしは学会へ出かける前にキッチンを片付けて行ったから、使ったのはたぶん哀君じゃろう。」
「テーブルの上には、飲みかけのグラスがあった。ここにもう一つグラスをあるってことは、何か別の飲み物を先に飲んだか、それとも───。」
新一は、その瞳を鋭く光らせた。
「新一?」
不思議そうな顔をしてみせる博士に、新一は不敵に笑った。
「この家に来た誰かに、灰原がお茶を出したのかもしれない。」
そして、新一は続けた。
「博士、確か玄関に設置してあるカメラは、訪問者を録画する機能もあったよな!それを見せてくれ!早く!!」
新一の声に、博士は慌てて動き出した。
カメラは不在時の訪問者を確認する為に、前々から博士が取り付けていたものだった。
玄関のチャイムを鳴らせば、自動的に録画がスタートする仕組みになっている。
それを見れば、いつどんな人物が阿笠邸を訪れたか、確認する事ができるのだ。
博士と一緒にインターフォンのモニターを覗き込んだ新一は、トップメニューから「来客」というボタンをプッシュした。
すると、今日2件来客があったというサインが出る。
直近のものから画面に映し出されたため、まず現れたのは「17:12」という時刻表示と博士の姿だった。
「わしじゃ!さっき帰ってきた時のものじゃな。」
「来客は2件だ。問題は、博士の前に来てるこの1件・・・。」
二人は食い入るように画面を見つめる。
そこに映し出されたのは、帽子を被った女性。
時間は、「14:46」だった。
「・・・誰じゃ?女性のようじゃが?」
「くそっ!帽子で顔が見えない!」
つばの大きな帽子は、女性の顔を完全に隠していた。
小さな画面だけでは、この人物を特定するだけの何か他の特徴を探すのは無理に等しい。
新一が思わず唇を噛み締めた、その時だった。
不意に、画面の中の女性が帽子を取る仕草をしたのだ。
そして、帽子を取り去った彼女は、何とカメラ目線でにっこりと手を振る。
画面に映ったその笑顔に、新一も博士も目を大きく見開く。
「・・・ど、どういうことじゃ?新一?!何故、有希子君が───?!」
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阿笠邸を訪れていたのは、何と新一の母親、工藤 有希子だった。
予想外の人物の登場である。
「・・・新一、有希子君は帰国しておったのか?」
「い、いや、聞いてね─・・・・。」
「だが、しかしじゃ。・・・何じゃ。つまり、哀君を連れ出したのは、有希子君ということでいいのか?」
ワケがわからないと言う顔で、博士が新一を見る。
「───この状況じゃ、それしか考えられね─な。ドアの向こうに居たのがオレの母さんだったなら、面識のある灰原がドアを開けたのも頷けるし、出かけるのに鍵をかけたっていうのも納得できる・・・。」
新一の台詞に、博士はほぉ〜と大きな息を吐いた。
「・・・じゃあ、哀君は誰かにさらわれたんじゃないんじゃな?それにしても、有希子君も人が悪い。それならそうと、何か一言連絡をしてくれれば、ここまで大騒ぎする必要もなかったのにのぉ。いやぁ、すまんかった、新一。わしが先にこのカメラに気づいて確認しておれば・・・。」
頭をかきながら、博士は新一に詫びる。
だが、新一はそれには苦笑した。
「───いや、こっちこそ。人騒がせなことをしたのは母さんなんだから。あの夫婦のことだ。どうせ、オレ達をびっくりさせようと、また何か企んでやったことなんだろ。」
───本当に?
自分で言いながら、新一はどこか腑に落ちないでいた。
確かに、自分の両親がお騒がせ夫婦であることは、新一は充分に理解している。
それは、まだ新一が「江戸川 コナン」と名乗っていた頃。
いくら新一の置かれている立場が危険かわからせるためとはいえ、実の息子を窮地に追いやるなどというやり方をするくらい、限度を知らないのだ。
今回も、哀をさらったように見せかけ、いかに自分達が組織に対して無防備なのかと悟らせるためだと言われれば、納得もできる。
しかし───。
博士にまでこんな風に心配をかけさせるとは、少し度が過ぎてはいないか?
いくらあの二人でも、そこまでするだろうか?
新一は、カメラにもう一度目をやった。
停止した画像の中には、笑顔の母親。
どこも不審なところはない、いつもどおりの笑顔である。
なのに。
どこか自分の心の中に、新一は引っかかるものを感じていた。
何かはわからない。
“よく考えろ”
新一は自分に言った。
そして、ふと思ったのだ。
───これは、本当に自分の母親だろうか。
もしかして、誰かが変装しているなんてことは。
そこまで思って、新一はそれは多いに有り得ることだと目を光らせた。
───まさか、ベルモット?!
表向きは女優という顔を持つベルモットは、あの怪盗並みに変装が
お手の物である。
しかも彼女はシャロンとして有希子とも親しい間柄だった。
真似るのには造作もない。
もしそうだとしたら───。
すっかり安心しきった顔をしている博士の横で、新一はゴクリとつばを飲んだ。
そして、もう一度録画されている母親の顔を凝視する。
この映像だけで、確実に有希子本人であるとは断言はできない。
新一の考えをよそに、博士はのんきに言った。
「しかし、有希子君は哀君をどこへ連れて行ったんじゃろう?もうすぐ7時じゃし、夕飯でも食べに行ったのかのぉ?」
哀を連れ出したのは新一の母親だと信じて疑わない博士は、もう何の心配もしていない。
確かに本当にそうなら、後で度が過ぎた悪ふざけはするなと言ってやればいい。
ただそれだけのことだ。
だが、そうではない最悪のパターンも存在すると、新一は目を細めた。
もし、これが新一の母親の皮を被ったベルモットだったら。
哀は組織に拉致されたことになるのだ。
愕然とする新一の頭の中を、さらに別の思考が過ぎった。
───いや、最悪のパターンはもう一つ
ある・・・・・。
もし、灰原をさらったのが本当に母さんだったとして。
そんなことをする理由は?
理由は───。
不意に過ぎった自分の考えに、新一はぞっとした。
そんな新一を博士の声が現実に引き戻す。
「新一、哀君達がどこにいるか、連絡は取れんかの?新一?どうかしたのか?」
「・・・あ、ああ、いや。何でもない。えっと、そうだな。母さんの携帯にかけてみるよ。」
動揺を隠しつつ、新一はポケットに突っ込んであった携帯を引っ張り出した。
新一は有希子の番号をプッシュし、呼び出しのコール音が耳に響き始めた時、その音に被る音があった。
阿笠邸の電話が鳴ったのだ。
博士が急いで受話機を取る。
コードレスの電話を片手に、博士は「あ!」と大きく声を上げた。
次に電話口で新一を見、指差す。
「新一!優作君からじゃ!」
「・・・え?!」
新一は携帯の呼び出しを切って、博士を見た。
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「───何じゃ。じゃあ昨日、帰国しとったのか。ああ、いや、有希子君がうちへいきなり来たようじゃったから、驚いておったんじゃよ。・・・ああ、そうじゃよ。哀君がいきなり居なくなっておるし。いや、いいんじゃよ。有希子君と一緒なのが分かればな。」
博士が電話でしゃべっているのを、新一はどこか冷静な気持ちで観ていた。
話し振りからして、こっちが哀の不在を心配していると思い、連絡をしてきたのだろうと新一は思った。
まさに、見計らったようなタイミングの良さ。
新一の父親の手口らしいと言えば、そのとおりだった。
───やっぱり、灰原を連れ出したのは母さん達なのか?
組織の仕業だなんて、自分の考えすぎなのだろうかと新一は瞳を細めた。
そうであるに越した事はない。
と、博士は電話をしながら、新一に目を向けた。
「───ん?ああ、ここにおるよ。」
どうやら、電話の主は新一の所在を博士に確認しているようである。
「・・・ああ、わかった。今、変わるから。」
言いながら、博士は電話を新一へ差し出した。
目の前に差し出された電話を、新一はすぐには受け取れなかった。
なぜだか、わからない。
一拍の間を置いてから、新一は電話に出た。
「───もしもし・・・。」
『久しぶりだね。新一。』
電話の向こうからは穏やかな声がした。
聞きなれたいつもどおりの父親の声。
だが、もし今回の件が組織の仕業ともなれば、この電話の主も父親の面の皮を被った偽者ということになる。
新一はやや緊張した面持ちで、だが、いたっていつもどおりに会話した。
「・・・ったく。人騒がせなことばっかしやがって。どういうつもりなんだよ?」
『いや、すまなかったね。もっと早くに連絡しておけば良かったんだが。』
「っていうか、今、どこに居るんだ?」
『葉山の別荘だ。』
声は即答した。
確かに、新一の父親名義の別荘は葉山にもあった。
ヨットハーバーが近いので、小さい頃、夏にはよく新一も行ったものだ。
だが、ちょっと調べれば工藤優作の所有する別荘の場所など、すぐにわかるだろう。
声の主の正体は、まだ本物かどうかは断言できないと新一は思った。
新一の考えをよそに、会話は続く。
『───それで、新一にもこちらに来て欲しいのだがね。』
「・・・え。」
『せっかく久々に帰国した事だし、話したいこともある。』
「話したいこと?」
『長年、ずっと書き続けてきた小説が、どうやらやっと完結することができそうでね。お前にもぜひ、意見を聞いてみたい。』
何のことだか、新一にはわからなかった。
新一は黙ったまま、視線を動かし、壁にかかった時計を見る。
時刻は、既に午後7時を回っていた。
新一の自宅から車を飛ばして葉山に向かったとして、移動時間はざっと1時間半くらいなものである。
多く見積もったとして、遅くとも午後9時には確実に到着できる。
だが。
新一には、今夜、絶対に譲れない予定があった。
キッドが、組織を呼び出しているのは今夜だ。
“パンドラ”を手に入れたと公言したキッドに、組織が接触するのは濃厚。
まさに、組織に接近する絶好の機会である。
新一としても、これを逃す手はなかった。
そして例の暗号でキッドが指定した時刻は、今夜、午後11時11分。
今から葉山へ行ってとんぼ返りしたとして、新一がキッドの指定場所に赴くにはギリギリの時間だった。
しかし───。
「・・・仕方ね─な。それで、灰原は今、そこに?」
新一は言う。
無論、居るなら今、この電話口に出せという意味合いでだ。
だが、それは叶わなかった。
優作は、哀は今、有希子とともに外に夕食を食べに行っていると答えたからである。
新一は僅かに眉を寄せた。
と、それを察知したかのように、優作が告げる。
『心配の必要はない。“シェリー”はちゃんと、私達が預かっているよ。』
瞬間。
まるで新一は、刃物が背中にグサりと突き刺さったような気がした。
しかし、厳密に言えば、優作は哀の組織でのコードネームは知っていた。
哀だけでなく、新一が知り得た組織の連中の酒を使ったコードネームに関しては、優作にも情報提供してあったからだ。
だが、何故、今、それを使うのか?
まるで、当たり前のように哀のことを“シェリー”と呼んだことで、新一は電話の主への疑惑を一層強めた。
確信はない。
───行って、確かめるしかない。
組織の連中が父さん達に化けているのかどうかは、会えばわかることだ。
新一は思った。
単に思い過ごしかもしれない。
考え過ぎかもしれない。
しかし、新一は、自分の胸の中に僅かでも生まれた疑問詞を確かめないわけにはいかなかった。
答えは、行けばはっきりするのだ。
新一は、葉山の別荘に行く事に決めたのだった。
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