「しかし、新一。葉山までなら、わしがビートルで送って行くと言うのに・・・」
葉山の別荘まで、愛車で送るという博士の申出を新一は頑なに断った。
理由は2つある。
1つは、哀が新一の両親を語る組織の人間に、拉致されている可能性が否定できない事。
もう1つは、今夜のキッドの件。
哀を預かっているのが間違いなく新一の両親だった場合、新一はすぐさまキッドが組織を呼び出しに指定した場所に行かなければならない。
どちらにしても新一に同行していれば、組織と接触してしまうかもしれない。
博士を危険に巻き込む事だけは、何としても避けなければならなかった。
新一は、キッドが“パンドラ”を見つけ、今夜、組織の奴らをおびき出しており、自分もまたそこへ行くつもりであるという話も、博士にまだしていなかった。
実際、哀がいなくなったと大騒ぎしたことで、話しそびれたというところなのだが、今となっては、もう博士には話さないでおくことにした。
これ以上、博士に心配をかけるのは得策ではないと、判断した上のことである。
「いや、帰りに寄りたいところもあるし・・・。タクシーの方が都合がいいんだ。悪いけど博士、タクシー呼んでおいてくれよ。オレ、ちょっと家に戻って仕度してくるからさ。」
新一はそれだけ言い捨てると、そのまま阿笠邸のドアを走って出て行った。
すぐ隣の洋館の門をくぐる。
無人のその建物は暗闇に包まれていた。
新一は、明かりもつけずにそのまま階段を駆け上がり自室へ向かいながら、携帯を取り出した。
細い指が素早くボタンをプッシュする。
暗闇の中に淡く光るのは、小さな液晶画面の中の『黒羽 快斗』という名前だった。
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新一から電話がかかってきた時、快斗はまだ例のマンションの一室に居た。
呼び出しに指定したビルの屋上付近を、事前に設置したカメラからパソコンに送られてくる画像をもとに、今から観察しつつ、退路の確保など頭に叩き込んでいたところである。
いわば、今夜のための最終確認とでも言えようか。
「───悪りィ、連絡が遅くなった。」
電話に出るなり謝られて、快斗はちょっと面食いながら笑って返した。
「いや、別に。もともとそっちから、連絡をもらう予定はなかったけどね。」
「とりあえず、例のモノは隠したからな。」
「悪かったね、面倒くさい事を頼んで。」
「てめぇ、やっぱり面倒くさかったんじゃね─かよ!」
悪態をつかれて、快斗は苦笑する。
電話口で笑った気配は、たぶん新一へも届いたことだろう。
不機嫌を露わにした新一に、快斗はまぁまぁとなだめに入った。
「それで隠し場所についてだが───。やっぱりお前も知っておいた方が良くね─か?何なら暗号にでもして、メールで送るけど。」
「いや、それはやめよう。誰かにその暗号が見られるとも限らないからね。とにかく、名探偵は隠し場所さえ、ちゃんと覚えておいてくれればいいから。」
パソコンに目をやったまま、快斗は言う。
「だけど───。」
新一は、石のありかを快斗に示す前に、何かあったらどうするのかと主張した。
その抗議の声は、今から自分の身の上が危険になるかもしれないと暗示している。
快斗はパソコンの画面から目を逸らすことなく、僅かにその瞳を細めた。
「───何かあった?」
快斗の問いに、すぐには返答はなかった。
僅かな息使いの後に、新一が声を出す。
「・・・・・・灰原がいなくなった。」
快斗は思わず、息を呑んだ。
だが快斗が問いただす前に、新一が慌てて付け足すように言った。
「いや、けど、実は灰原を連れ出したのは、どうやらオレの両親みたいで・・・・。」
「はぁ?」
マヌケな声を出すしかなかった快斗に、新一はかいつまんで事情を説明した。
本当に新一の両親が哀を預かっているのなら、別に何も問題はないはずである。
だから、それ以外に何かあるんだろうなと、快斗は新一の話を聞きながら思っていた。
「───とにかく、そういうわけで、オレは今から
葉山の別荘へ行って来るから。」
「今から?」
快斗は時計に目をやる。
時刻はもうまもなく午後7時半になろうとしていた。
これから葉山に出かけるなると、今夜、組織との接触が予想される時間に間に合うかどうか、際どい。
そこまで優先しているとは、新一にとってよほど重要なのだろう。
「わざわざ名探偵が出向くとは、よほど気になることがあるらしいね。」
快斗のその台詞に、新一はいったん押し黙った。
だが、重苦しそうな息を吐いた後、覚悟を決めたように白状する。
「・・・・・・まさかとは思うが、組織の連中がオレの両親に変装して、灰原をさらったとも限らないからな。念のため、確認しに行くんだよ。」
「なるほど。」
これには快斗は同意した。
確かに可能性としては、充分に有り得る話である。
哀が姿を消すタイミングとしては、いささかタイミングが良すぎる気もしないでもない。
「まぁ、オレの考え過ぎかもしれないけどな。」
「そうだね。」
快斗も相槌を打つ。
と、新一は「それで」と話を続けた。
「わかってるとは思うが、今から葉山に行ってたんじゃ、今夜、お前が指定した時間に間に合わないかもしれない。」
「だろうね。」
「急いで戻って来るつもりだけど、どう考えてもやっぱりギリギリだからな。若干の遅れは否めない。となると、お前1人で組織の奴らと会うことになっちまうけど───」
無論、これは哀を連れ出したのが彼の本当の両親だった場合を前提に言っていることである。
どうやら、新一は快斗が1人で組織と対峙してしまうことを心配しているようであるが、それには快斗は苦笑した。
「人の心配より、自分の心配をした方がいいんじゃないのかな?名探偵の考えでは、もしかするとその葉山の別荘とやらで待ち構えてるのが組織の奴等なのかもしれないんだろ?」
もし本当にそうなら、快斗よりも先に新一の方が組織と対面することとなり、同時に1人で敵の懐に飛び込むことになるのだ。
組織を自分で呼び出しておきながら、実は返り討ちにあう可能性が充分にあるキッドと同じ様に、新一も充分に危険に直面していると考えられた。
しかし、新一は「いや、でも」と僅かに反論する。
「オレの・・・単なる思い過ごしかもしれないから。」
「なら、いいけどね。」
疑ってかかるのが商売な名探偵にしては、いやに消極的だなと快斗は思う。
もちろん、思うだけで口にはしない。
「───あ、悪りィ。タクシーが来たから。行ってくる!じゃあ後でな?!お前もあんまり無茶するんじゃねーぞ!」
そんな捨て台詞を残して、電話は強引に切られた。
快斗は既に繋がっていない携帯を握り締めて、1人呟く。
「・・・無茶するなってね。その言葉、そっくりそのままお返しするよ。」
快斗はデスクの上に携帯を置いた時、ドアを軽くノックする音がした。
ドアの向こうにいるのが誰で、何のために来たのかも当然、快斗はわかっている。
「快斗ぼっちゃま、今、よろしいですか?」
「大丈夫。」
きちんと了解を得てからドアを開けた初老の男性は、『怪盗キッド』唯一の協力者である。
快斗が振り返ると、そこには寺井が小さな荷物を持って立っていた。
寺井は手にしているその荷物を快斗へ差し出しながら言った。
「例のものをご用意致しました。」
「悪いね、面倒かけて。」
「いえ───。」
快斗はにっこりそれを受け取ると、すぐさま中身を確認した。
小さな紙の箱から出てきたのは、黒光りする塊である。
拳銃だった。
弾も一緒に用意されている。
快斗が慣れた手つきで弾倉に弾を入れていく様子を、寺井は複雑そうな顔をして見ていた。
そんな寺井に、快斗はにっこりする。
「一応、お守り代わりに持っていくだけだから。」
「ですが・・・。」
「別に、今日でケリをつけようっていうんじゃない。今夜はとりあえず、奴らとの接触を試みるだけだよ。これからのためにね。」
キッドの今夜の課題は、まず組織の人間と接点を持つ事だった。
それにより情報を得てから、今後の対策を練るというものである。
もちろん、そんな悠長なことを言っていられない状況に陥る可能性は充分に考えられるのだが。
表情が曇ったままの寺井を前に、快斗は努めて明るく振舞っていた。
そして寺井は去り、部屋には再び快斗一人となる。
快斗は銃を手にしたまま椅子から立ち上がると、窓の近くまで歩いた。
ブラインドの隙間から、夜景を見る。
正直なところ、先程の新一からの電話が多少、気がかりではあった。
実際、こうなることは予想外である。
───もし、本当に組織の仕業だったら。
新一は、組織の連中が自分の両親に変装しているのではないかと言っていた。
実の息子が言うのだから、何か不自然な点でも見つけたのかもしれないが、詳しい内容までは聞いていない快斗には、何とも言い難い。
快斗は訝しげに目を細めた。
───いや、でもそうだとしたら、やけに手の混んだ事をする・・・。
「・・・・・・変装ねぇ?」
左手で銃を器用に回しながら、快斗はちょっと納得がいかなそうな風で呟いた。
やがて、くるくると回転し。黒い円を描いていたその塊がピタリと止まる。
黒光りするその拳銃をじっと見つめたまま、快斗はぼそりと言った。
「───変装じゃなかったら、それこそ問題だ。」
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新一を乗せたタクシーは、予想より少し早く葉山に入った。
このまま順調に車を飛ばしていれば、午後9時前には余裕で別荘に到着できそうである。
夜の海岸線をひた走る車内の中で、新一は自問自答を繰り返していた。
哀を連れ出したのが母親の有希子で、そして父親の優作からの電話。
しかし何度繰り返してみても、明確な答えは出ない。
───可能性は3つ。
父さん達の度が過ぎた悪戯か、それとも父さん達に化けた組織のワナか、あるいは───。
新一の思考はどうしてもここで停止する。
何故か、ここより先を考えるのを頭が拒否してしまうのだ。
実際のところ、もし哀を連れ去ったのが新一の本当の両親でなかった場合、かなりヤバイ。
勢い余って飛び出して来たはいいものの、もしかして本当に組織に1人で対峙することになるかもしれないというのに、新一はほとんど対策を練ってはいなかった。
武器らしい武器すらない。
確かに丸腰で組織とやり合うのが危険なことくらい、新一だって充分に承知している。
だが、今、新一が恐れているのは、たった一人で組織と戦うことではなかった。
彼にとって最も脅威なのは───。
新一は車の窓の外の真っ黒な海を見つめながら、ふと思った。
先程の快斗への電話で、新一は自分が考え得る最悪のケースを話さなかった。
───話すべきだったか?
もし話したら、アイツは何て言っただろう?
新一の蒼い瞳が僅かに揺れた。
───いや、でもアイツに話す必要なんてない。
だって、そんなこと、あるわけがないんだ。
新一が膝の上に置いた拳を強く握った時、車は海沿いの道から逸れて、山を登り始める。
葉山の別荘はもう目の前だった。
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同じ頃、快斗も白い怪盗のコスチュームに身を包み、指定場所近くの廃屋のビルまでやって来ていた。
時間までは、まだざっと2時間はある。
だが、念には念を入れてということだ。
時間ギリギリに行って、待ち伏せを食うのだけは勘弁願いたいからである。
彼が居るのは、廃墟となったビルの一室。
打ちっ放しのコンクリートの壁に背を預けながら、ところどころヒビの入っているガラス窓から、目的の場所を眺めている。
───名探偵は、そろそろ着いたかな?
両親との対面は、一体、どういう結果になったのか、キッドも多いに気になるところではある。
本当に新一の両親だったのか、それとも組織の連中だったのか。
問題は、組織の仕業だった場合。
もし変装という手の込んだマネをしたというのなら、運悪く呼び出された新一はまんまとワナに引っかかったことになる。
しかし、このケースの場合、新一にはパンドラの在り処を知る人間だということをフルに活用してもらい、危険回避につなげることができるはず。
万一、哀を人質に取られたとしても上手い逃げ口上はあるだろうから、何とかなるとキッドは考えていた。
「そうではなくて───。」
キッドは腕組みしながら言った。
相変わらず茫洋としたまま、キッドは自分における最悪な状況を頭に思い描いていた。
物事に対処する方法として最も有効なのは、常に最悪の事態を想定することにある。
そうすることによって、戦術もまた深みを増す。
だが、今、キッドは自分の思考に飽き飽きしていた。
「考えたくはないけどね。」
そう呟いたキッドの瞳に宿るのは、氷のように冷たい殺気だった。
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