「・・・つまり、今夜のキッドの犯行現場に、例の連続殺人犯が現れると、こういうことかね?工藤君。」
口ひげを指で撫でながら、目暮警部が少々険しい表情になる。
ここは昨日と同じ、警視庁4Fの第一会議室。
例の連続殺人事件の対策本部が設置されたそこに、昨夜、キッドからの予告状が届いた事を受けて中森警部ら率いる捜査2課も新たに加わっていた。
本来ならば、まったく別件なはずなこの二つの事件を、今回1課と2課で合同捜査をすることになったのはその殺人犯の次なるターゲットとして上げられているのが、オレとキッドだったからだ。
昨夜、なんだか知らないが、オレの家に押しかけてきたキッドから、既に予告状は奪取してある。
・・・なわけで、今、ここでその暗号解読を実にスムーズに披露しつつ、オレは例の犯人がコトを起こすには今夜が好機である事を警部達に告げていたところだった。
「キッドの現場となれば、探偵として僕が出向く事は十分承知のはず。
ターゲット二人が同じ場所にいるというこの状況を、みすみす見逃すはずはない。犯人が現れるのは今夜という事で、まず間違いないでしょう。」
犯人がビスク・ドールであるなら、尚更の事である。
オレの言葉に黙って頷いていた目暮警部が再び口を開く。
「確かに工藤君の言う通りだが・・・。君はわかっていながら、そんな危険な場所へ行くつもりかね?」
「そうだよ、工藤君!!何もわざわざ犯人に会いに行くようなマネはしなくても・・・」
高木刑事も心配そうにオレの顔を覗き込む。
一様にそうだそうだと言い出す刑事達の視線を集めながら、オレはにっこりと笑った。
「僕とキッドは同じ場所にいた方がいいんですよ。その方がより犯人との接触率が高い。みなさんが犯人を捕らえる機会でもあるんですから。・・・心配はいりません。
こんなに大勢の警察の方たちと一緒なら、かえって心強いくらいです。」
「・・・わかった。工藤君がそこまで言うのなら・・・。ただし、決して一人で行動しないせんでくれよ?」
仕方なさそうに、目暮警部がそう言った。それを受けて、中森警部も大きく頷く。
「目暮、われわれ2課はキッド逮捕に全力を尽くす。だから1課は工藤君の警護と犯人逮捕だけに集中していてくれれば、それでいい。」
「ああ、そうだな。」
目暮警部が同意したのを確認すると、中森警部はいつものように大声を張り上げた。
「よぉぉ〜し!!いいかっっ!!ワケのわからん殺人犯などにキッドの首をくれてやるわけにはいかん!今夜こそ、あのふざけたコソ泥を確保するんだ!!わかったなっっっ?!!」
と、部屋内におお〜!!という熱い叫び声が響き渡った。
・・・・・・ふーん。・・・ま、ある意味、お前もしっかり愛されているみたいだぜ、キッド?
オレは誰にも気づかれないようにクスリと笑った。
□ □ □
今夜のキッドの獲物は、国立美術館に眠るエメラルドだった。
陽が落ちる前から開始された警備は、既にアリ一匹入る隙間もない程。
いつにも増して、力をいれている中森警部の様子がしっかりとうかがえた。
高木刑事達と一緒に展示室の中を見て回っていたオレを、中森警部と美術館の館長である男性が呼び止めた。
「どうかね?工藤君。今日のこの完璧な警備体制は。」
自信たっぷりにそう言ってみせる中森警部にオレは苦笑した。
・・・ま、確かにスゴイ警備だとは思うけど。
ヤツの派手なショーに踊らされる事がなければ、それなりに良い線は行くかも・・・。
とは、もちろん言えない。
すると、警部がオレの肩を叩きながら、今日はもう一つ秘密兵器があるのだと言って聞かせてくれた。
「何ですか?その秘密兵器って・・・。」
「結構、良く出来た盗難防止装置があるんだよ。こっちなんだがね・・・。」
中森警部に促されて、オレはエメラルドが入っているガラス・ケースの前までやってきた。
「・・・例えばだ。万一ここで警備していた我々がキッドによって、眠らされたりするようなことがあったと
する。・・・で、キッドが何の障害もなくこのケースに手をかけることができたとしたら、だ。」
腕組みしながら、実に得意げに中森警部が語る。
・・・いや、でも『万一』って・・・。いつも似たような手口で、キッドにはしてやられてるっていうのに。
と、中森警部はオレにガラスケースを開けてみるよう指示した。
「・・・え?、開けてみて、いいんですか?」
「ああ、構わんよ?テストも兼ねて我々も見ておきたかったのでね。」
「?・・・わかりました。じゃあ、開けます。」
オレは、一歩前へ出て、ケースに手をかけた。
今だけ鍵も外してあったので、ケースは簡単に開ける事ができる。
特殊加工されているガラスケースのフタは、思ったよりも少し重い。
オレは、慎重にケースのフタを持ち上げた。
そのとたん。
ガシャンガシャン!!と派手な音を鳴らして、天井から降ってきた鉄の杭がオレの周囲にめり込む。
その飛来するスピードはあっという間のもので、オレはエメラルドのケースごと、一瞬にして現れた鋼鉄の檻の中に閉じ込められてしまった。
「おおお〜〜っっ!!素晴らしい!!これならキッドも捕らえる事ができるかもしれんなっっ!!」
中森警部がその目を輝かせ、周りにいた警備員達からも感嘆の声が上がった。
「どうだね?工藤君っっ!!この美術館館長がこんな日のために前から巨額な設備投資をして作った
装置なんだそうだよ!!まさにキッドを捕獲するにふさわしいとは思わんかね?」
鉄格子の向こうで、中森警部が鼻息荒くそう言うが。
・・・おいおい、人を実験台に使うなっつーの・・・。
「・・・本当に素晴らしい仕掛けですね。・・・で、そろそろ僕を出してもらえませんか?」
と、にっこり笑顔で言ってみたものの。
さすがのオレもいつまでも檻の中にいたんでは、いい気分でいられないのはもちろんなことで。
それを察した中森警部は、慌てて近くにいた警備員に指示を出す。
「あ、ああ。すまなかった。今、開けるよ。おい!!」
すると、しばらくして鉄格子は再び音を立てて天井に吸い込まれていった。
オレはその様子を見ながら、自信満々な中森警部には悪いけど、どうせこんな子供騙しは
キッドには通じないだろうことは充分わかっていた。
ま、そんな感想はオレの心の中だけに留めておくとして。
さて、予告時間まで残り僅か。
あとはもう、キッドが現れるのを待つばかりとなった。
だが、今夜迎え撃つのはキッドだけではない。
どちらかというと、そのもう一人の方がとてつもなく厄介なワケで。
オレは展示室の窓の外の大きな月を見つめながら、深い溜息をついた。
・・・・・・・アイツがキッドを本気で殺すとは思えないけど。
前回、何のためらいもなくキッドの胸に深々とナイフを突き立てたことを思い出すと、今でもゾッとする。
あのむせ返るような血の匂いは忘れられない。
今回だって、到底無傷では済まないかも・・・。
・・・けど、だからって、アイツにいい様にされてたまるかっっ!!!
オレは、ジャケットのポケットに突っ込んだままの拳を強く握り締めた。
同じ頃、美術館から少し離れた高層ビルの屋上。
晧々と輝く月を背景に、白い怪盗が幻想的に佇んでいる。
ふと、キッドが目を開いた。精神集中をするためか、それまで瞑想に耽っていたのである。
有名人を次々に殺す残忍な手口。
意図的に送りつけられたトランプのカード。
新一を『ジョーカー』になぞらえたビスク・ドールのその真意は不明だが、キッドへの嫌がらせとしてはこの上なく、優れていると言える。
キッドは暗黒の空を見つめた。
漆黒の闇は、陰謀を巡らす時間がたっぷりあることを告げているかのように見える。
また、それを実行に移す時間も。
小さく溜息をついて、
「準備は出来ているよ。」
と、キッドは空に向かって呟いた。
この空の下、しかもそう離れていないであろうところに、ビスク・ドールはいる。
長いか短いか、また新たな戦いが始まろうとしていた。
□ □ □
「・・・時間だ。」
中森警部のその言葉に、展示室に一気に緊張が走った。
そして、次の瞬間。
美術館の外が、まるで真昼のように明るく照らし出される。
派手な音ともに降り注ぐ、華やかな色とりどりの光。花火だ。
展示室の窓から、その様子を食い入るように見つめていた中森警部の目が大きく見開かれる。
花火によって照らされた夜空に、白いグライダーが浮かび上がった。
「・・・・・・キ、キッドだ〜〜〜〜っっっ!!捕らえろ〜〜〜〜っっ!!!」
中森警部の怒声が響き渡り、展示室にいた警備員達の何人かが慌てて外へ出て行く。
・・・だから。アレはキッドの誘導だって。何でこうも毎回同じ手にひっかかるかな・・・。
オレは呆れ顔ですっかり手薄になった展示室の中を見渡した。
ま、そうは言っても、中森警部を含む数人の警備員は残っているし、オレたち1課の捜査員達も大勢いるから、良しとするか。
と、オレが思ったとたん、ドンという激しい音ともに、美術館建物全体が揺れるような振動を感じた。
・・・な、何だっ?!
「・・・何だ?!今のもキッドの花火か?!」
中森警部がすぐに確認するように指示を出す。すると間髪入れずに報告が入った。
「大変ですっ、警部っっ!!美術館入り口付近が爆破炎上しています!!!」
「何だとぉ〜〜〜?!まさか、キッドの花火が失敗したとか言うんじゃないだろうな?!」
そんなハズはない・・・!!
キッドがこんなマネをするハズは!・・・と、すると、もしかしてアイツが・・・!!!
背中に冷たい汗が伝う。
オレは展示室を飛び出した。
「え?!ちょ、ちょっと工藤君っ?!どこへ・・・・!!目暮警部、工藤君が・・・!!」
「え、え〜いっっ!!何をしている!工藤君を追うんだっっ!!急げ!!」
展示室から建物入り口へと向かうため、オレは階段を駆け下りる。
背中で高木刑事や目暮警部の声が聞こえたが、足を止めるつもりはなかった。
そして。
到着したオレの目に映ったのは、辺り一面の火の海。
激しい炎の向こうには何も見ることはできない。
ビスク・ドールの姿を探すどころではなかった。
激しい火柱をしばらく見つめていたオレは、後ろにやってきた高木刑事を振り返った。
「高木刑事っっ!!ここにいた警備員の人たちは?!」
「・・・あっ、ああ・・・。た、確か5人程いたはずなんだけど・・・。」
「とにかく、消化活動するんだ!!急げっ!!」
目暮警部の指示でフロア内の消火器が集められ、みんな必死に火を消すために動いた。
そうして、火の勢いが少しおさまったかと思われるころ、この場にいたはずの警備員達は全員、避難して無事であることが確認できた。
まもなくすれば、消防隊も駆けつけてくれるだろう。
とりあえず、死傷者が出なかったことに、オレはほっとした。
使い切った消火器を床に置いて、額に浮き出た汗を拭う。
と、オレは目暮警部を振り返った。
「警部、中森警部からキッドが現れたという連絡は?!」
「あ、いや、それが・・・。先程から呼び出しているのだが、連絡がつかんのだよ。」
・・・ってことは、おそらくキッドはもう・・・・!!
・・・くっそう!もしかするとビスク・ドールも、そっちか!?
「すみません、警部!あとはよろしくお願いします!!」
「えっ?!おいっ!!工藤君?!ま、待ちたまえっ!!!」
警部の静止の声も聞かずに、一人オレは再び展示室へと全速力で向かった。
□ □ □
たどり着いた展示室のドアの隙間からは、白い煙が溢れている。
「・・・キッドっっ!!!」
オレは、ドアをバンと勢いよく開け放った。
一面真っ赤な炎だったさっきとは正反対の、真っ白な世界がそこにあった。
まるで深い霧のようだ。
目を凝らすと、床に中森警部をはじめ、警備員達が倒れ伏しているのがわかった。
ちっ!催眠ガスか。
オレは自分も吸い込んで倒れてしまわないように、しっかりとハンカチで口元を覆うと、その白い世界へと足を踏み込んでいった。
しばらく行った先に、佇む人影を確認する。
一瞬、ビスク・ドールかと緊張したが、その見慣れたシルクハット姿に安堵の溜息を漏らした。
アイツも今のところは無事のようだ。
オレの気配に気づいて、キッドも目線だけこちらに向けてニヤリと笑った。
「・・・ご無事で何より、名探偵。」
「・・・のんきな事、言ってるヒマねーぞ。美術館入り口付近が爆破された。
どー考えても、アイツの仕業だろう?・・・来てるぞ?もうここに。」
オレの言葉にキッドは静かに微笑むと、視線をエメラルドへと移す。
「・・・まぁ、とりあえず。いただくものはいただくとして・・・。」
言いながら、ガラスケースへとキッドの白い手が伸びて、そっとケースのフタを開ける。
あ・・・!と、オレが思ったのはほんの一瞬で。
キッドはオレの目の前で易々とエメラルドを手にして見せた。
・・・・ほら見ろ。やっぱあんな盗難防止装置、コイツには何の役にも立たなかったじゃねーかよ。
さすが、事前に装置を作動しないように細工したのか、キッドのもとへ天井から鉄の杭が降り注ぐことは
なかった。
当然と言えば当然のことなのだが、余裕な笑みを浮かべて、カラのケースのフタを閉じるキッドにオレはちょっとだけ腹立たしさを感じたりして。
と、そんなオレにふと視線を投げたキッドの瞳が、これ以上になく大きく見開かれる。
・・・え?!
キッドの鋭い視線の先にあるものが、オレではなく、オレの後ろだとということに気がついて、とっさに振り返り、思わずオレは息を呑んだ。
・・・ビスク・ドール!!!
今の今まで、何の気配もなかったオレの背後に立っていたのは、あの忘れもしない陶器人形のような顔の男だった。
ガラス玉のような瞳が冷たくオレの顔を映しているのを見て、オレは言葉もなくその目を見開いた。
瞬間。
オレの後ろで、ガシャンガシャンという音が響く。
「・・えっ?!」
驚いて振り返ったオレの目に映ったのは、こっちへ踏み出そうしたキッドが鉄格子に行く手を阻まれている姿だった。
・・・そっ、そんなっっ!!!
キッドは既に檻の中だった。
ビスク・ドールのヤツ、防犯装置を作動させたのか!!
オレが再びビスク・ドールの方へ向き直った時、ヤツは不気味に笑いながら、すっとオレの背後から後退する。
そのまま、いまだに立ち込める煙に溶けるように掻き消えた。
ヤロー!!逃がすかっっ!!!
オレはとっさに麻酔銃をいつでも撃てるようセットする。
そのまま部屋を飛び出そうとして、鉄格子の向こうのキッドを振り返った。
「・・・お前一人でも、そんなの脱けられるよな?」
「よせ!!アイツを追うな!名探偵!!!」
「バーロー!殺人犯をみすみす逃がしてたまるかよ!」
「名探偵っっ!!!」
オレはキッドに不敵な笑みを送ると、そのままビスク・ドールのあとを追うことにしたのだ。
展示室を飛び出して周囲を見回したとき、はるかな先に黒い人影が見えた。
思わず追いかけ、夢中で走った。
自分を静止するよう促すキッドの気持ちも良くわかった。
当たり前だ。
どう考えても力では叶いそうにない相手に、自分から近づいていくなんて自殺行為にも等しい。
なのに。
自分でもわからない衝動に突き上げられ、オレは必死でヤツの後を追った。
それが探偵としての性なのかどうかは、わからなかったが。
とにかく、すべてを早く終わりにしたかった。
くだらない拘りで関係の無い人が死んでいくのも、これ以上関わりを持たれるのももうゴメンだ!
美術館の屋上までたどり着いた時、ついにビスク・ドールの足が止まった。
荒い息を吐きつつ、オレは目の前に立つ、残忍この上ない笑顔を浮かべる男を睨みつける。
「・・・やっぱり例の連続殺人はお前がやったのか?!」
オレの問いには答えずに、ヤツは意味ありげに赤い唇を持ち上げただけだった。
蛇のような眼光が鋭くオレを射る。
対して、オレもまっすぐにそれを見返した。
「・・・・・・お前が何を考えているかは知らないが。
どんな手を使おうと、キッドがお前と手を組むことなんて絶対に無いと思うぜ?いい加減諦めたらどうだ?」
「・・・まぁ、確かに一筋縄ではいかないようだが・・・。『ジョーカー』を使えば話は別だ。」
言いながら、ビスク・ドールがオレを指差す。
「・・・何だよ!オレが『ジョーカー』って!!またオレを人質にでもする気かっ?!
言っとくが、大人しく利用されてやるつもりはないぞ!!」
すると、赤い唇が動いて、クックッと笑った。
「わかっているよ、名探偵。前回でお前にもしてやられたからな。
だが、お前は自分の事がわかっていない。お前にはもっと利用価値がある。人質なんかよりももっと良い使い方がな。」
ビスク・ドールの言いたいことが良く理解できずに、オレは少し眉を寄せた。
「・・・言ったろう?お前は『ジョーカー』だと。
『ジョーカー』はそれ自体で有効な、もっとも最強な手札なんだぜ?」
言いながら、ビスク・ドールが徐々に近づいてくる。
オレは本能的に後ずさったが、数歩足を下げたところで、それ以上は逃げ場を失った事を知った。
すでに屋上のフェンスまで追い詰められていたのだ。
ヤバイ・・・!
目の前に迫ったビスク・ドールに対し、オレはとっさに麻酔銃を構えた。
だが、その時計をしている左腕を易々と捻り上げられ、そのまま力強く引き寄せられた。
瞬間、オレは顎を掴まれ、僅かに上へと仰がされると、信じられない事にビスク・ドールの唇がオレのそれを塞いだ。
・・・なっ・・・?!
驚愕に目を見開いたその時、ヤツの口から何かがオレの中へと流れ込んできた。
必死で押し返そうとするオレの舌をヤツは器用にも絡めとり、格闘の末に
とうとうオレはそれを飲み干してしまった。
喉の中を冷たい塊が柔らかく滑り落ちていく。
オレは慌てて、力いっぱいビスク・ドールを突き飛ばすと、今度は大人しく開放された。
・・・何か、飲まされた?!
「てっめー!!今、何を・・・!!」
何を飲ませやがった!!と、そう言ってやりたかった。なのに、それは叶わなかった。
急激に視界が揺らいで、もう口すらも思うように動かすことができなかったのだ。
「・・・いい夢を見せてやるよ。名探偵。いや、もう名探偵じゃない、もう一人のお前に会わせてやる。」
ビスク・ドールの嘲りに満ちた声だけが、遠く聞こえた。
□ □ □
キッドは鉄の檻を脱け出た。
本来ならもう一早く脱出できたろうに、そうできなかったのは、あの鉄格子の仕掛けにビスク・ドールが手を加えていたからである。
しんとした廊下に出て、キッドは周囲を見廻した。無論、新一の行方などわからない。
キッドは両目を硬く閉じて、この美術館全体の構造を頭に思い描く。
ヤツはこのどこかで自分を待ち受けているはずに違いないのだ。
・・・だとすると、アイツが居そうなところは・・・。
「・・・屋上か!」
キッドはそう呟いて、そのまま純白のマントを翻すと走り出した。
屋上へと続く、長い非常階段を駆け上がると、その先に開かれたままの昇降口が見えた。
・・・ということは、おそらくここを開けたのは新一か?
キッドは一気に屋上へと飛び出たが、そこに新一の姿も、またビスク・ドールの姿もなかった。
・・・くそっっ!!
キッドは舌打ちをしながら、辺りを見渡す。
と。
「・・・誰を探している?」
頭上から物静かな声が落ちてきた。
見上げると、給水等のタンクの上にビスク・ドールと新一が立っていた。
無事な姿に安堵する間もなく、新一のその夢でも見ているような虚ろな表情に不安をかき立てられ、キッドは眼光も険しく、ビスク・ドールを睨みつけた。
「・・・安心しろ。お前の大事な名探偵は無事だ。」
胸中を読んだようなその言葉が、なおさら怒りを誘い、キッドの目つきはますます鋭くなっていく。
「・・・無事ならいいってもんじゃないぜ?お前、ソイツに何しやがった?!」
「・・・さぁ?本人に聞いてみたらどうだ?」
赤い唇が嫌な笑いを作る。この時、キッドは相変わらずのポーカー・フェイスなものの、心情的には穏やかでないのは確かである。対して、ビスク・ドールは冷静で、その声もまさに氷のようだ。
「聞きたいことなら、お前にもいっぱいあるぜ?」
キッドは言い募った。
「お前、一体何を考えてる?お前の目的はオレのはずだろう?無関係な人達に手を出すのは止めろ!」
すると、ビスク・ドールはその目を僅かに細めて、キッドを見返す。
「無関係な人なら、どうなったっていいんじゃないのか?むしろお前に関係あるのはコイツだけだろう?」
キッドは何も言わずに、ただ黙ってビスク・ドールを見据えただけだ。
「・・・何故、名探偵にこだわる?またオレを釣るエサにでもするつもりなのか?」
「もう少し深く考えろよ、キッド。コイツは『ジョーカー』なんだぜ?オレにとっても、お前にとってもな。」
ビスク・ドールは意味ありげな響きを声に乗せると、ふと話を変えた。
「・・・それより、どうだ?久々に遊んでみるか?少しは成長してるか見てやろう。」
「いいぜ。」
キッドはあっさりと言った。
はっきり言って気が立っている。相変わらず、こと戦いに関してはこの厄介な悪党に勝てる自信等微塵もないが、両者を天秤にかけると、前者の方が勝っていた。
「来いよ、キッド!」
「言われなくても!!」
地を蹴って宙を舞ったキッドの身体は、一気にビスク・ドールとの間合いを詰めていた。
□ □ □
目の前に、ちらちらと雪のように白いものが舞っているのが見えた。
・・・・・・何だっけ?これ、見たことがあるような気がする。
そんなことをぼんやりと考えていたオレの意識は、その『白』が『赤』に変わったことで急速に浮上した。
「・・・キッドっっ!!」
その『赤』はキッドの血。
ビスク・ドールの放ったナイフが、キッドの腕を掠めたのだ。
声を上げたオレの方を、キッドとビスク・ドールが同時に振り返った。
すると、ビスク・ドールが僅かに後ずさる。
「・・・今夜はここまでにしておこう。近いうちにまた会おうぜ?キッド。名探偵、お前もな!」
言い終えると、ビスク・ドールはそのまま闇に掻き消えた。
ビスク・ドールの姿が見えなくなった途端、キッドは前のめりになり、肩膝を思わず地につく。
「おいっ!!キッドっ?!」
オレは慌てて、キッドの傍へ駆け寄った。
近づいたオレに、ヤツは大丈夫だといつもの笑みを送った。
白いスーツは所々赤い染みを作っていたが、いずれもそれほど深い傷ではないようだった。
オレはこないだのような大怪我でなかったことに、ほっと溜息をつく。
程なくして、キッドはよっこらしょっと立ち上がった。
「・・・大丈夫なのか?」
「・・・ああ。」
せっかく心配してやったのに、ヤツの返事は素っ気無いものだった。
・・・何だよ、ムカつくな。
そう思いながらちょっとむくれたオレの顔を、ヤツが真剣な表情で覗き込んだ。
「・・・名探偵はどうだった?」
・・・え?オレ?・・・オレは・・・。ビスク・ドールを追いかけて・・・。それで・・・どうしたんだっけ?
そうだ。・・・確か、何かを飲まされて・・・それから・・・。・・・それから?
「・・・・・・わからない。」
「わからない?!」
なんともあやふやな答えを返したオレを、仰天したようにキッドが見つめた。
とりあえず、オレはしっかりと記憶がある、何かを飲まされるまでのいきさつをキッドに聞かせた。
で、なんとなく言い難いので、実はそれをビスク・ドールに口移しで飲まされたということは伏せておく。
この場合、どんな方法で飲まされたのかということは、さして問題でもないだろう。
キッドは黙って聞いている。オレが話し終えるとすぐ、
「その飲まされた『何か』が、クセものだな。」
と、言った。オレもそれに頷く。すると、続けてキッドが口を開いた。
「カプセル状ってことは、たぶん何かしらの薬品か・・・。で、名探偵はそれをどーやって飲まされたワケ?」
「えっっっ?!」
まさか、そこを鋭くつっこまれるとは思わなかったので、オレは激しく動揺した。
・・・だって!!
恥ずかしいじゃないかっっ!!要するにキスされたのと同じことだしっ!!
オレが答えられずに赤くなっているのを見ると、キッドはふ〜ん?とその目を細めた。
そして、そのまま何の前触れも無く、唇を寄せると、チュvvvっという軽い音を立ててオレの唇を吸った。
「・・・!!!て、てっめ・・・何しやがるっっっ!?」
「消毒。」
人の気も知らずに、キッドは飄然としてそう言い返す。
何が消毒だ〜〜〜っっ!!コノヤロウっっ!!
怪我人じゃなきゃ、蹴り倒すところだが・・・。今日のところは勘弁してやることにした。
「・・・お前、今日の獲物はどうだったんだよ?」
「ああ、チェックするの忘れてた!!ヤバイヤバイ!!」
言いながら、キッドはその美しい宝石を胸元から取り出すと、月光に翳した。
「・・・ダメだな、こりゃ。今回もハズレ。」
「そりゃ、残念だったな。」
「じゃあ、コレは名探偵の手から後ほど返却しといてもらえる?今日はもうさっさと帰ろうぜ?」
キッドの言葉を聞いて、オレは思わず目を見開いて奴の顔を見返す。
相変わらずのずうずうしい前半の台詞はまだ良しとして、問題は後半部分だ。
「・・・まさか、お前、オレと一緒に帰る気か?」
すると、ヤツはウインク一つして笑う。
「だって、名探偵が何を飲まされたか気になるだろ?一刻も早く帰って隣の主治医に診てもらおうぜ?」
・・・お前、今夜もうちに泊まる気なのか・・・?
オレは口先まで出かかったその言葉を、仕方なく飲み干したのだった。