さて、ビスク・ドールが意味ありげな言葉を残して去った後。
オレは屋上でいったんキッドと別れ、ヤツから預ったエメラルドを手に再び美術館の中へと戻って行った。
そろそろ眠りから中森警部達が覚めるころだろう。
消防車も来て、美術館の入り口付近の火も無事消化されたようだし。
・・・とりあえずは、事無きを得た・・・と言うべきなんだろうか?
オレは自分の喉もとに手を当てる。
あの時、飲まされた物が何かは気になるけど。今のところ、体調に異変は見られないし。
やっぱ、早いとこ帰って、灰原に調べてもらうしかねーな・・・。
展示室へと向かう道々、オレは目暮警部らに出くわした。
「工藤君っっ!!!無事だったかね?!」
「・・・あ、はい。大丈夫です。・・・あの、すみません、ご心配おかけしました。」
警護してくれていたはずの高木刑事たちを放り出して、好き勝手に動き回った自分の行動を反省しオレは深く謝った。
「いや、君が無事ならいいんだ。君が今日、確実に例の殺人犯が現れると言うから気が気じゃなくてね。・・・で、どうだったのかね?誰か不審な人物を発見したかね?」
目暮警部達がオレを取り囲んでそう訊ねる。
それに対し、オレは少し考えてから、犯人がビスク・ドールである事を告げた。
国際手配書で名は知られていても、顔までは明らかになっていない大悪党である。
オレは、ヤツ本人がそう名乗ったと証言した。
「ビスク・ドールだって?!あの海外では有名な?!」
「まさかっっ!!本物ですかっ?!」
「何で、そんなヤツが工藤君やキッドを狙うんだ?!」
警部達はその名を聞いてざわめきだす。
さすがに、ビスク・ドールの目的が実はキッドであることまでは、まだ伏せておいたが。とりあえず、公的な機関に動いてもらう事で、少しはビスク・ドールへの行動を狭める事ができないか。
オレはそう考えた。
・・・ま、あの大悪党相手に、どこまで効き目があるかはわからないけど。
「・・・にしても、今夜工藤君が接触したと言うその人物が本物のビスク・ドールとは限らんが。とりあえず、今回の事件の重要参考人には間違いない。
よし!工藤君の証言をもとに似顔絵を公開して、全面的に捜査を開始しよう!!!」
目暮警部は力強く頷いてそう言った。
「・・・お願いします。・・・で、キッドの方なんですけど。一応、エメラルドは取り戻しました。」
・・・取り戻したと言うか、正確にはアイツから返却を頼まれたんだけど。
言いながらオレがその手に宝石を掲げると、おお〜!と刑事達から感嘆の叫びが上がった。
と、そこへ、中森警部が息を切らしてのご登場である!!
「・・・く、工藤君!!キッドはっ!!!」
「中森警部!キッドは無事ですよ?ヤツはエメラルドを残して逃走しました。」
余程、キッドの身を案じていたのか、ヤツが無事と言う言葉に心底安心したように、中森警部はほっと溜息を漏らした。
が、それもつかの間。
あっという間にいつものように怒声を張り上げて、逃走したキッドの追走部隊を編成すると慌しくその場を去っていった。
それから、オレはというと。
今も、その殺人犯(=ビスク・ドール)に狙われている事には変わりはないと、高木刑事たちの身辺警護は犯人逮捕まで継続される事となり。
今日のところは、もう遅いので自宅まで高木刑事の車で送ってもらえることとなったのだが。
「工藤君!阿笠博士も心配してお迎えに来てくれたよ?!」
などと、笑顔で言う高木刑事に、オレは大いに引きつった笑みを返してしまった。
・・・当たり前だ。それはどう考えたって、キッドの変装には違いないだろう???
・・・なるほどな。確かに博士に化けりゃ、違和感無くオレと一緒に帰れるってワケだ。
博士の面を被ったキッドは、にこにこしながらオレを車へと手招きしている。
オレは諦めたように小さく溜息をつくと、ヤツの待つ車の方へと向かった。
そんなわけで、オレはキッドの運転する車に乗って、とりあえずは阿笠邸に向かう事にした。
もちろん、オレ達の後ろにはしっかりと高木刑事達の車がぴったり警護についた状態で。
□ □ □
玄関でオレとニセ博士を迎えた灰原は、大層嫌そうに眉を寄せた。
「・・・そのアヤシイ変装は解いてもらえないかしら?中にいる博士が見たら卒倒しかねないわ。」
灰原の言葉に、キッドは悪びれもせず笑うと、今朝からオレの前にさらしている、オレとよく似た顔の少年の姿になった。
「・・・・それで、一体何の用なのかしら?」
オレ達をとりあえずリビングに通した灰原は、怪訝そうに訊ねる。
と、オレが口を開くより先に、キッドが先に答えた。
「・・・実は、ちょっと名探偵の身体を診てもらいたくてね。」
「・・・どうかしたの?」
すっと彼女の目が細められる。それを受けて今度こそオレが答えた。
「・・・今のところはどーもしねーんだけど。 ビスク・ドールに何かを飲まされたんだ。」
一通りオレの身体を調べ終わった灰原は、やや緊張の面持ちで見つめるオレ達に向かってこう言った。
「・・・そうね。薬品名の特定まではまだできないけど。
その成分から見て、幻覚剤、もしくは催眠誘導剤の類だと思われるわ。」
「・・・幻覚剤・・・。」
オレとキッドの声が重なった。
「それで・・・。クスリと飲まされた後の状況を、もう少し詳しく教えてもらえないかしら?」
「・・・あ、いや、それが・・・。どうもはっきりしなくて。何か夢を見ていたような気もするんだけど・・・。」
「夢?どんな?」
キッドがそう訊ねる。
「・・・・・・・それが。」
何とか思い出そうとしてるのに、まるで思い出せなかった。
まるで、頭の中に靄がかかっているかのように、霞んでしまって何一つはっきりと言う事はできないのだ。
灰原とキッドの視線を一心に浴びつつも、オレはうなだれるしかなかった。
「そうか。・・・なら、仕様が無い。ま、とりあえず有毒なものを飲まされたんじゃなくて何よりだったな。」
気を取り直したようにキッドがそう言う。
「確かに生命に関わるような毒素は検出されなかったけど。体調に変わった所は本当に何もない?」
灰原のその追及するような視線に、オレは少々焦りを覚える。
気にはならない程度だが、確かに疲労感はあった。
でも、それは今日一日の出来事による緊張感からかもしれないし。
「・・・ま、ちょっとはダルイかも。でも気にする程のことでもねーよ?」
そう答えると、灰原は無言で頷いて、念のため今夜一晩はここに入院(?)するよう言ってきた。
キッドもその方がいいだろうと、同意してみせる。 ついでに、自分もここに泊まるとまで言い出した。
「・・・おい、お前な・・・。」
「ダイジョーブだって。ここの博士ともオレ、顔見知りだもん。なぁ?」
キッドはそうにっこりと灰原に笑顔を向けるが、灰原は相手にする気配も無い。
「・・・いいのか?灰原・・・。」
「・・・ダメって言ったところで、その怪盗さんが大人しく帰るとは思えないけど?」
確かに。
オレは深く納得した。
「気にしないで。これは貸しにしとくから。いつか、たっぷり返してもらうわよ。」
灰原は末恐ろしい言葉を吐いて、オレ達に妖艶に微笑んだ。
オレは乾いた笑いを返すと、先に休ませてもらう事にして、キッドと灰原を残し
逃げるようにその部屋を後にしたのだった。
□ □ □
ソファに深く腰掛け足を組んでいたキッドは、その足を解くと、視線を哀の方へと向ける。
と、向けられた当人は、大して関心もなさそうに口を開いた。
「・・・あいにくコーヒーは切れてるの。お茶ならそこよ。勝手に飲んで。」
「結構なおもてなしだなぁ。」
キッドは気にした風でもなく、テーブルの墨に置いてある湯沸し器に近づいた。
「君もどう?」
「いらないわ。」
哀の返事は素っ気無い。けれどもキッドはその少女に向かってウインクをして見せた。
「まぁ、そう言うなって。すっごい美味しいお茶を入れてあげるからさ。」
そうして、テーブルの上には二つのカップが並ぶ。
キッドは湯気の立つカップに唇を当てると、こくりとお茶を一口飲み干した。
「・・・で、本当のところ、どう思う?」
キッドの探るような視線を受けて、哀がその瞳を細めた。
「・・・そうね。まだなんとも。肝心の工藤君が何も覚えていないんじゃ、話にならないわ。」
「幻覚剤を使ったってことは、何か暗示か催眠術でもかけられたかな?」
カップを持ったままのキッドの目が鋭く輝いた。
哀はその目をしっかり見てから、テーブルに置かれたままのもう一つのカップに手を伸ばした。
「今夜、その気さえあれば、彼は工藤君を殺すことも連れ去る事もできたはず。
なのに、敢えてそれをしなかったというのは、何か他に理由があると考えるべきでしょうね。」
哀の言葉にキッドはふむ、と頷くと、
「・・・・・間違いなく何か企んでるんだろうなぁ?」
どこか間の抜けたような声で言った。
哀はカップの中に視線を落とす。
「・・・で、どうするつもり?」
「さてね。」
飄然とそう言い放つキッドに、哀は眉間にしわを寄せた。
「・・・・・・貴方の立場は微妙なものね。
貴方自身、彼に狙われてはいるけど、それは貴方を手に入れたいがための彼の嫌がらせに過ぎない。
そして、その嫌がらせはとうとう他人にまで及んで、工藤君まで狙われたのは
自分の責任だと感じている。
貴方としては、彼を倒す気ではいるけど、目下のところ、どうしようもないってとこかしら?
できる事といえば、彼の出方を待つばかり。
工藤君におかしな手まで出されては、まさか逃げもできないし、このまま黙っているわけにもいかない。
・・・最悪の状況と言う以外、他に言葉は見つからないけど?」
「・・・心に染みる、適切な判断をどうもありがとう。」
キッドは肩を竦めてそう言った。おちゃらけてはいたが、顔は笑っていない。
本音をつかれて怒ったのかもしれない。哀はそう思った。
「・・・ともかく。事の元凶は貴方なんだから、しっかりカタをつけてもらわなければ困るわ。」
「え〜?元凶はビスク・ドールだろ?オレも被害者だぜ?」
さも心外そうにキッドは言うが。
哀はそれを冷たく一瞥すると、カップのお茶を飲み干して、こう言い放った。
「私にしてみれば、貴方も彼も大差ないわ。」
□ □ □
真っ暗だ。
何も見えない。
ここは一体どこだろう?
右も左も、上も下も何もわからない。
見渡す限り一面の闇。
何も見えない真っ黒な世界の中で、先程から耳元につく音があった。
ポタリ、ポタリと。
何か液体が垂れるような音。
ふと、自分の手が何か生暖かいもので濡れているのを感じた。
真っ暗な中で、オレは自分の手を翳した。
すると、今まで何も見えなかった世界が、急激に色を手に入れる。
次の瞬間、オレの目に飛び込んできたのは、真っ赤に染まった自分の手だった!!!
「・・・名探偵?どうした?!大丈夫か?」
気がつくと、自分とよく似た顔がオレをのぞき込んでいた。
「もう朝だから、起こしに来たんだけど。うなされてるみたいだったからさ。」
窓からはうっすらと朝日が差し込んで、部屋全体を明るく照らしている。
オレは着ていたパジャマが冷や汗で、グッショリ濡れているのに気がついた。
急激に身体を冷やされる感覚がして、それが一気に寝ぼけていた意識を覚醒させた。
・・・えっと。そうだ、昨日、コイツと一緒に博士んちに泊まったんだっけ。
オレはまだ動悸が治まらない胸を少し押えながら、目の前のキッドの顔や部屋の周囲を見渡して
ベットから身体を起こした。
「おい、平気か?」
オレの顔を見つめるキッドの表情が少し心配そうに見える。
コイツにこんな顔させるほど、ヒドイうなされようだったのか?
オレは安心させるように、ちょっと笑って見せた。
「・・・ん。ちょっと変な夢を見ただけ。」
「夢って・・・。どんな?」
「・・・もう忘れた。」
起きた瞬間に、見ていた夢を忘れる事などよくあることだが。
残っているのは、嫌な夢を見たという感覚だけ。
「・・・ま、大丈夫ならいいけど。朝食の用意してくれてるぜ?顔洗って来いよ?」
「・・・ああ、わかった。すぐ行く。」
どこかまだ心配そうなキッドがそう言い残して部屋を去ると、オレは深呼吸を一つして、着替え始めた。
顔を洗ってからリビングのドアを開けると、フライパンを持った博士が笑顔で出迎えてくれた。
食卓には灰原とキッドがもうついている。
・・・っていうか、すっかりそこに馴染んでいるキッドが、どうにもおかしい気がしないでもないのだが。
「おはよう・・・。」
言いながら、オレもテーブルに向かった。椅子に腰掛けたオレを、灰原の視線が刺す。
「・・・顔色が悪いわね。よく眠れなかったの?」
「あ、いや。そういうワケじゃねーよ。ただ、夢見が悪かっただけ。」
そう。確かにそれだけ。
記憶にも残らない悪夢。
残ったのは、漠然とした不安と。
まるで砂でも飲まされたみたいな、ざらざらとした嫌な感覚。
だけど、そのことは敢えて言わないでおいた。こんな抽象的なこと伝えたって仕方が無い。
オレは自分自身をごまかすように、何でもないよ?と笑って見せた。
「ま、新一も気を張り通してばかりで疲れたんじゃろ?朝ご飯をしっかり食べれば、そのうち元気も出てくるに違いない!今朝のワシのメニューはとっておきじゃぞ?!」
豪快に笑いながら、オレの目の前の皿にはスクランブル・エッグが山のように盛られる。
「・・・博士。いくらなんでも朝からこんなに食えねーよ・・・。」
「何を言っとるんじゃ、新一。そんなことだから、いつまでもひょろっとしとるんじゃないか?!」
「・・・余計なお世話だよ。これは体質だってーの。」
そんなオレと博士のにぎやかなやりとりをよそに、向かいの灰原はもくもくと自分の食事に取り掛かり、隣のキッドは、視線だけはこちらに寄越しながらも無言で牛乳を飲んでいた。
不意に、リビングのTVから流れるニュースが耳に届いて、全員の意識がそっちに集中した。
《昨夜遅く、墨田区住宅街の路上で、女性の刺殺死体が発見されました。
女性は首や胸など、数箇所をを鋭利な刃物で刺されており、出血多量で死亡した模様です。
警視庁は殺人事件と断定し、被害者の身元の確認と付近に不審な人物はいなかったかどうか
捜査を開始しました。》
と。
そのニュースを聞いたとたん、オレは何か冷たいものを背筋に感じた。
まるで冷水を頭から浴びせられたかのように、急激に体温が冷えていくような感覚。
・・・まるで、聞きたくなかった嫌な知らせを聞いたような時のような。
でも、一体どうして?
「・・・・・・近いわね、その殺人現場。 昨夜、貴方達がいた国立美術館に。」
ニュースを聞きえた灰原が、ポツリと呟いた。
「お、おいっ!!哀君、まさか、この事件もビスク・ドールとやらが絡んでいるって言うんじゃ・・・!」
「さぁ、それはわからないけど。ただ昨日彼らがいた場所と現場が近いって言っただけよ。」
・・・そう。確かに今の事件現場は昨日、オレ達がいた場所と目と鼻の先だ。
ってことは・・・・・・・・・。
と、そこまで考えた時だった。
突然、オレの頭を刺すような激しい頭痛が襲った。
・・・あれ?何だろう?! 気分が悪い・・・・ような・・・!!!
ガンガンと頭を殴られるような痛みは治まるどころか、激しくなるばかりで、呼吸さえままならない。
「・・・っつっ!!」
頭が割れるような痛みとともに、目の奥に見たことのない風景が断片的に浮かんだ。
な・・・んだよっっっ!!コレ・・・・!!
あ、頭が・・・・!!痛っっ・・・・・・!!!
「・・・おいっ!!名探偵?!真っ青だぞ?どうした?!名探偵っっ!!」
「工藤君っ?!」
「大丈夫か?!新一っ!!」
オレを呼ぶみんなの声は、自分の激しい動悸に掻き消されて、もう聞こえない。
そのうち、視界まで揺らいで、オレの意識は闇へ引きずり込まれていった。
再び、オレが意識を浮上させると、心配そうに覗く3つの顔がそこにあった。
「おおっ!!気がついたか、新一!!」
ほっとしたように博士がそう笑った。オレはベットから身体を起こして、みんなの顔を見回す。
「・・・オレ・・・?」
「・・・倒れたのよ。ニュースを見ている最中に。・・・気分はどう?」
水の入ったグラスを差し出しながら、灰原がそう言う。
オレはそれを受け取りながらとりあえず、一口だけコクンと飲んだ。
・・・倒れた?
そうだ。確か、ひどい頭痛がして・・・それで・・・・。
とたんにズキリ!!という痛みが再びこめかみを刺して、オレは顔をしかめた。
「おいっ!!名探偵、大丈夫か?!」
再びベットに沈みかけたオレをキッドが支える。差し出されたキッドの腕に捕まりながら
オレはゆっくりと顔を上げた。
冷や汗が頬を伝う。
「・・・・・・思い出した。・・・全部じゃないけどっ・・・!!」
オレの搾り出すような声に、キッドが眉をひそめた。
「名探偵?」
「・・・夢を思い出したんだ。・・・いや、夢じゃないかもしれない。もしかしたら現実なのかも・・・!」
キッドの腕を掴んだオレの手は震えていた。手だけではない。声も震えていた。
「・・・暗闇の中、逃げ惑う女の人がいて・・・・。悲鳴を上げる彼女にナイフで何度も切りつけて・・・血まみれで倒れていくその姿を笑って見ているヤツがいるんだ・・・。」
「ビスク・ドールかっ?!」
全身をわななかせながら話すオレに、キッドの声も切迫している。
「・・・ソイツは両手いっぱいに返り血を浴びて・・・。ああ・・・・!!」
オレは叫んだ。それは絶叫だった。
「・・・・・・それは・・・・・・!!オレなんだ!!!」