「少しは気は楽になったか?名探偵・・・。」
「・・・ああ。・・・・・・もう大丈夫だ。」
温かいコーヒーの入ったマグカップを、キッドがオレに差し出す。
オレはそれを受け取りながら、できるだけ明るい顔と声でそう返してみたのだが、そんな強がりはヤツには通用しないらしい。
・・・少しも大丈夫ではなさそうだ、と言いだげに大きく溜息をつかれてしまった。
確かに、オレの胸中は果てしなく暗かった。
オレの中にある悪夢の記憶。
今ならはっきりと思い描く事のできる、その残虐な殺人のシーンのすべてをオレは話した。
まるで自分が殺しましたと言わんばかりのオレの話に、博士は顔色を無くして激しく動揺したようだったがキッドと灰原の2人は無表情に聞いていた。
「・・・い、いや、でも・・。しかしじゃな、新一?それはあくまでも夢で、まだ現実と決まったわけでは・・・。」
「・・・ああ、そうだよ、博士。オレ自身、夢か現実か、その区別さえつかないんだ。・・・・・・でも、もしかしたら・・・・。」
言いよどんだオレの代わりに、灰原が口を開いた。
「彼に飲まされた薬で正気を失っている間に、殺人を犯してしまっているのかもしれないと、そう思うのね?」
「止めてくれっ!!哀君!新一が殺人犯だなんて・・・・!!」
大きな声を上げる博士に、灰原はすっと目を細めると相変わらずな冷静な口調で言った。
「・・・工藤君が飲まされた薬品を考えれば、その可能性は否定できないわ。」
「・・・・そんなっっ!!!」
博士の悲痛な叫びを最後に、部屋には重苦しい沈黙が訪れた。
はた目から見るオレの落ち込みはそんなにひどいのか、これ以上オレを苦しめるのを恐れるようにもう誰も口を開こうとはしなかった。
と、それまでオレ達の話を終始無言で聞いていたキッドが、組んでいた腕を解いて言った。
「・・・ともかくだ。はっきりさせたいんだろう?名探偵。」
キッドの言葉にオレは無言で頷く。すると、キッドがニヤリと笑った。
「・・・なら、行くしかねーな。」
「ど、どこに行くつもりなんじゃ?!」
キッドとオレの顔を見比べて、博士が慌てふためく。
そんな博士をまっすぐに見据えて、オレは言った。
「・・・・昨夜事件が起きた、その殺人現場だよ。」
□ □ □
「・・・・・で。確かに昨夜起きた殺人事件にはビスク・ドールが絡んでいる可能性があるから、工藤君がその事件現場に行きたがるのはわかるけど・・・・。何でまた・・・・?」
運転席でハンドルを握りながら、高木刑事はバックミラーで後部座席へ視線を送った。
助手席からも不思議そうな顔をして、千葉刑事が振り返る。
高木刑事の運転する車には、オレの他に、何故か博士に化けたキッドと灰原までが同乗していた。
悪夢の真相を少しでも確かめる事ができるかもしれない。
そう思って、オレは昨夜女性が殺害された現場へ行こうと、家の外で待機してくれている高木刑事に車を出してもらったのだが。
オレを一人で行かせるのは心配なのか知らないが、キッドと灰原も一緒に行くと言い出して聞かないのでこういうことになっている。
「いや〜・・・。新一の体調がちょっと優れないようなんでな。保護者として付き添わせていただくだけじゃ。気にせんでくれたまえ。」
などと、しっかりと博士の口調でキッドがほざくが。
・・・なーにが、保護者だ!バーロー。
オレは心の中で悪態をついていると、高木刑事が心配そうに訊いてきた。
「え?工藤君、具合悪いの?!大丈夫?」
「・・・あ!ええ、大丈夫ですよ。何でもありません。ちょっと頭痛がするだけで・・・。」
「そう?無理はしないでね?このところいろいろあったし、気を張って疲れちゃったのかもしれないね。」
高木刑事の言葉にオレは苦笑した。
まさか、ビスク・ドールに飲まされた薬に関する一件について、高木刑事達に話すわけにはいかない。
とりあえずは、真実を暴く方が先だ。
・・・・・でも、もし・・・・・
もし、本当にオレが殺人犯だったとしたら?
真実を確かめるのがこんなに怖いと思ったのは、これが初めてだった。
「着いたよ。」
程なくして、オレ達を乗せた車はとある住宅街の中の路地で停まった。
すでに現場保存用のテープなどは取り外されており、そこで惨殺事件があったことなど
まるでうそのように、静けさを取り戻していた。
「確かに、昨夜、ビスク・ドールが現れた美術館からもここは近いし、犯行時間からもまぁ考えられなくはないんだけど。本庁からさっき入った連絡では、殺害されたのはこの近所に住む普通の女子大生だそうだよ?」
エンジンを切りながら、高木刑事がそう言った。それに頷きながら千葉刑事も続ける。
「有名人ばかりをターゲットにする今回の連続殺人事件とは、その殺害方法も異なっているようだし関連性は低いと見ているんだけどね。」
そう。先に殺された有名人3人のように、彼らの持つ才能を奪っておいてから殺すという、残忍な手口は今回の事件には見られなかった。
殺されたのは、バイトを終え、帰宅しようとしていたごく普通の女子大生。
特にその顔を傷つけられたとか、そういったことはなく、首や胸の数箇所を刺された事によって彼女は死に至った。
オレはかなり緊張した面持ちで車を下り立った。
閑静な住宅街。
一戸建ての家が立ち並ぶその細い通りをぐるりと見渡して、オレは不思議な感覚を覚えた。
・・・知っている。
今日、初めて来たはずのこの場所を明らかに記憶している自分がいた。
・・・オレは、以前この場所に来ている。
それは、確信だった。
瞬間、またこめかみにズキリとした痛みが走る。
「新一?」
博士の顔をしたキッドがオレを心配そうに覗き込む。オレは小さく大丈夫だと告げて、現場へ足を踏み入れた。
その瞬間。
オレの目の前は暗転した。
□ □ □
記憶の中にあるあの悪夢が鮮明によみがえる。
暗闇の中、見知らぬ若い女性が呆然とこちらを見ていた。
その顔は恐怖におののき、悲鳴すら出せずに。
《 逃げろ!!早く!!!》
オレはそう思ったが、彼女は恐怖に立ち竦んでしまい、絶望的な表情でこっちを見つめているだけだ。
そして、振り上げられたナイフが、彼女の体を切り翳していった。
胸に。首にと。
肉を切る嫌な音が響いて、飛び散った鮮血がアスファルトを染めていく。
《 やめろ! やめろ!! やめろ!!!》
オレは絶叫した。
《 殺せ! 殺せ!! 殺せ!!!》
頭の中で誰かがそう哄笑した。
血まみれになって、彼女はとうとう地に倒れ伏していく。
怒りと悲しみのあまり、オレは吐き気を覚えた。
だがもう一人、歓喜に酔い痴れる者がいた。
目の前の惨劇を見ているその双眼は確かにオレのものであったが、同時にオレのものではなかった。
その瞬間。
オレは自分が2人であることを知った。
「・・・く、工藤君っっ?!大丈夫かい?!」
大きく目を見開いた高木刑事の姿が徐々に色を失っていく。
平衡感覚を失って、思わず揺らいだオレの体をがっしりと腕を掴んでキッドが支えた。
「・・・ここまでだ。もう帰るとしよう。」
キッドはオレの肩へ手を回し、オレが倒れないようにしっかりと抱え込んだ。
キッドの言葉に灰原も無言で頷く。
「わ、わかった。すぐにこっちに車を回すから!」
言いながら、一目散に高木刑事が駆けて行く。千葉刑事も心配そうにオレを振り返りながら高木刑事の後を追った。
2人が去っていくのを見送ってから、博士の顔をしたままのキッドがオレの顔を覗いた。
「・・・おい、大丈夫か?」
「何か、思い出したのね?」
灰原が確信を込めてそう言う。 オレは黙ったまま、そっと頷いて見せた。
「・・・わかったんだ。オレ自身のことが。・・・オレの中にもう一人、殺人鬼がいる。」
□ □ □
阿笠邸の地下にある哀の部屋にキッドが訪れたのは、日が沈んでからの事だった。
ドアをノックする音に、哀の目線はパソコンの画面に注がれたままで、
「どうぞ。」
と言った。指先は忙しなくキーボードの上を走っている。
音も無く、するりと部屋に入り込んだ少年の方を見もしないで、哀は続けた。
「何の用かしら?」
「ものは相談なんだけどね。」
キッドはいつになく低姿勢の声を出した。
「・・・何?」
「・・・いや、なに。そのままで聞いてくれればいいよ。・・・にしても、すごい機材だね。ちょっとした実験室だなぁ。」
部屋を見回して感心したようにキッドが言う。哀はようやく振り返ると、眉を寄せた。
「・・・用件を早く言って頂戴。」
「すまないね。」
キッドは微笑した。茫洋として、その邪気の無さはまるで大怪盗とは思えない。
「・・・名探偵は、ようやく落ち着いたようだ。何しろ今回の事ではショックが大きすぎる。精神的にひどく疲れていたからね。よく眠っているよ。」
「・・・そう。」
朝、例の殺人現場に出かけてから再びここへ戻ってきて、新一から詳しい話を聞いた後今後、どうするべきかしばらく論じ合ったのだが。
今の状況を打開する最善の策など、何一つ見つからないままで。
とりあえず、身体上の異常はないことが明らかになったことから、新一は自宅へ戻ると言い出しキッドもそれに了承した。
たぶん、新一の本心から言えば、殺人鬼の人格がある自分が阿笠邸にいたのでは、万一のことがあっては危険だと判断しての事だろう。
「・・・・・・名探偵に殺人鬼の人格か。
クスリを使ったにしろ、いくらなんでもそんな簡単に、別の人格なんて形成できるもんかね?」
「・・・さぁ。多重人格者だっているんだし、案外、人格なんてあやふやなものなのかも。ちょっとした暗示でどうにでもなるのかもしれないわね。」
哀の言葉にキッドはなるほど、と頷くと、ニヤリと笑った。
「じゃあ、名探偵をもとに戻すことも、そう難しい事ではないわけだ。」
瞬間、哀はやや眉を寄せた。キッドはそんな哀をまっすぐに見ながら真面目な口調で言った。
「・・・名探偵をもとに戻す方法を考えてもらいたい。」
「・・・何を言い出すのかと思えば・・・。言っておくけど、私はそういった方面の専門じゃないわ。」
哀は呆れたように言った。けれども、キッドは気に留めずに続けた。
「今はまだ名探偵の中にもう一つの人格が眠っているだけだけど、もし本来の人格が別の人格に屈服するようなことになったら、どうなると思う?
めでたく立派な殺人鬼の出来上がりだ。
オレが思うに、ビスク・ドールの狙いはまさにそれだろう。そうすることでヤツは名探偵を手に入れるつもりなんだ。」
貴方もでしょ?と、哀は思った。
確かにキッドの言うとおり、新一がこのまま本当に殺人鬼の人格に飲み込まれて、
ビスク・ドールの手に渡ってしまったとしたら。
キッドの取るべき行動は、もう一つしか残されていない気がする。
そうすることで、晴れてビスク・ドールは新一もキッドも手に入れることができるのだ。
大した策略である。
「・・・名探偵がアイツの手に落ちる事だけは、どうしても避けたい。」
「なら、いっそのこと、貴方が彼のもとに行ったらどう?」
「それも悪い手ではないんだけどね。・・・それだけでアイツが納得すると思う?」
肩を竦めて笑うキッドを、哀は一瞥し、他愛もなく前言を撤回した。
「・・・いいえ。」
「それで・・・・・。頼みは聞いてもらえるのかな?」
キッドが目を細めて不敵に笑う。
「・・・わかったわ。とりあえず、考えてはみるけど。」
哀の返事ににっこりと頷くと、一つよろしく!とお辞儀をして、キッドはその場を去って行った。
□ □ □
しかし、事態は最悪の状況へともう動き出していた。
キッドが阿笠邸から戻った時、寝ていたはずの新一の姿は既になかったのである。
「・・・アイツっ!!どこ行った?!」
キッドは新一のベットに手を当てる。
まだ幾分残るぬくもりに、新一が家を飛び出して間もない事を知ると、キッドは開かれた窓から外を覗いた。
警護についているはずの停車中の車の中では、高木刑事達が眠ってしまっている姿が見受けられた。
「クソっ!」
キッドは舌打ち一つすると、一瞬にして白い怪盗の姿になり、フワリとその窓から身を投げた。
まだ、そう遠くへは行っていないはず・・・!!
民家の屋根を飛び回りながら、キッドは必死に新一の姿を探した。
と、どこからともなく背筋が凍るような声が響いた。
「・・・どこへ行く?キッド。」
ギクリとしてキッドが振向くと、後方の低いビルの上に佇む陰があった。二つだ。
雲に覆われていた細い月がその顔を覗かせると、忘れもしないあの蝋細工のような白い顔が浮かび上がる。
「・・・ビスク・ドール・・・!!」
と、キッドはその眼を見開いた。
ビスク・ドールの隣にいるのは、紛れも無く新一だった。
「・・・め、名探偵・・・。」
キッドを見つめる新一の蒼い瞳は、まるで凍りのように冷たい。一目でいつもの新一でないと知れた。
キッドはギっとビスク・ドールを睨みつけ、その間合いを詰めた。
「・・・・・・てめぇ、本当に名探偵を使って、殺しをさせやがったのか?」
キッドが低く唸った。けれども、ビスク・ドールはその赤い唇をニヤリと持ち上げただけだ。
「・・・安心しろ。お前の名探偵は、まだ手を汚してはいないさ。
目下、オレの殺しの現場につき合せて、修行中というところかな?」
ビスク・ドールの言葉にキッドは心底安堵した。
いくらビスク・ドールに操られていたとはいえ、新一が実際、殺人を犯してしまっていたらどうしたら良いか、ひどく悩んでいたからだ。
キッドはもとより、新一こそ自分自身を許さないだろうし。
とにかく、その最悪な状況を回避できただけでも感謝すべきか。
ビスク・ドールの言うことが真実だとすると。
つまり、新一が見た悪夢は、半分は現実だが半分はやはり夢なのだ。
確かに新一は殺人現場には居合わせたのかもしれない。
だが、大方、実際に手を下したのはビスク・ドールで、
その惨劇を新一の目の前で繰り広げることによって、それを新一自身がやったように
見せかけてあるのだ。
幻覚剤を使えばできないことではないだろう。
キッドはそう思った。
「・・・名探偵の目の前で、お前が殺しの手本を見せてるっていうのか?」
「・・・そう。コイツにはすべて自分のしたこととして記憶に残る。
『名探偵』にはそれは耐えられない屈辱だろうな?そして、そのうちオレが作った人格が本人の人格に取って代わった時、コイツは自分からオレのところへやってくることになる。」
ビスク・ドールはキッドの方を面白そうに見つめながら、続けた。
「・・・おまけにコイツは筋がいい。オレが直に教えているのもあるが、いい殺し屋になるぜ?」
瞬間、ビスク・ドールの頬すれすれのところをキッドのカードが跳んでいく。
「・・・お前にソイツは渡さない!!」
キッドはその眼に鋭い光を宿しながら、目の前の敵をまっすぐに見据えた。
トランプ銃の銃口はビスク・ドールへと向いたままだ。
と。
ビスク・ドールはニヤリと嫌な笑いを浮かべながら、一歩後退した。
「今日のところは返してやる。・・・だが、近い内に手に入れるさ。・・・お前もな、キッド!」
ビスク・ドールはそう言って、新一の肩をトンと突き飛ばす。
バランスを失って、新一の体がぐらりとビルの上から落ちかかった。
「・・・名探偵っっ!!!」
キッドは慌てて飛び出して、新一の体を空中で抱きとめ、何とか無事に着地する事が出来た。
キッドの腕の中に収まった新一は、意識を失ってぐったりとしている。
新一を抱きかかえたまま、ビスク・ドールがいたはずのビルの上をキッドは見上げた。
だが、そこにはもうすでにその姿はなく。
キッドはその眼をギッと空に浮かぶ月に向けた。
「・・・コイツだけは絶対に渡さない。」
腕の中の細い体を、キッドは力強く抱きしめたのだった。