オレは不安に苛まれていた。
リビングのソファに深く腰を沈め、寄りかかったまま、ダルい気分で窓の外へと視線を投げるとオレの気分とは正反対に、抜けるような爽快な青空が広がっている。
オレは、眩しい朝日に目をそらすと、重苦しく息を吐いた。
ビスク・ドールにオレが妙なクスリを飲まされてから、二日が過ぎていた。
その間、ヤツが積極的にオレやキッドを殺しに来るということはなく、連続殺人としての事件は一見、停滞したような形になってはいるが。
無論、これで終わったわけじゃない。
犯人に対する捜査はもちろん、オレへの身辺警護も続行中。
オレが「ビスク・ドール」の名をあげたことで、警視庁捜査一課はヤツを重要参考人として手配することに全力を尽くしているようだけど、そう簡単に尻尾を出すような相手でもあるまいし。
残念ながら、遅々として捜査に進展は見られずと言った状況だ。
・・・・・・というか。
逆に、ますます厄介な方向へ進んでいるように思える。
ビスク・ドールによって、オレの中に作られたもう一つの恐ろしい殺人鬼の人格。
オレには自覚はない。
でも、体が覚えている。
人の肉を切る感触や、血の暖かさを。
死の恐怖に絶望している人の顔を見て、歓喜している自分が確かにいた。
それは、間違いなくオレだった・・・!!
言いようのない不安がオレに大きくのしかかる。
・・・・今はまだ、二重人格者のような状態だけど。
・・・・もし、工藤新一としての人格が消去されて、殺人鬼としての人格にとって変わられたとしたら。
そう考えるだけで、ぞっとする。
自分が消失してしまうかもしれないという不安なら、「コナン」になった時にも充分に味わった。
あの時は、「工藤新一」としての身体を失って、その存在をみんなに認めてもらえなくなったから。
それでも、自分が「工藤新一」だという自覚だけは失う事は無かったし、
本当のオレのことをわかってくれる人が周りにいてくれた。だから、あの時は耐えられた。
だけど、今回は違う。
「工藤新一」としての身体は残っても、オレ自身の人格が完全に消えてしまったとしたら。
・・・・・それこそ、本当の意味でのオレの消失になる・・・!!!
ビスク・ドールの狙いは、まさにそれなんだ。
・・・・オレを殺人鬼に仕立て上げることで、キッドを脅迫するネタにでもするつもりか?
・・・・となると、オレが『ジョーカー』っていうのは、使い道がいろいろあるから・・・なのか?
「・・・・浮かない顔ね。」
突然、降って湧いたような声に、オレはぎょっとしてソファから身を起こした。
「・・・・なっ!は、灰原っ?!何だよ、いきなり!!びっくりするじゃねーか!!」
リビングのドアの傍に立つ赤毛の少女は、そのオレの動揺振りにも相変わらずのクールな眼差しで返してきた。
「・・・・玄関のチャイムは何回も鳴らしたわよ?その様子じゃ、まるで聞こえていなかったようね。」
・・・え?ヤベ・・・・。全然気がつかなかった・・・。
「・・・あ、ワリィ。ちょっと考え事してて・・・。」
オレは苦笑しながら言うと、灰原はそんなことだろうと思ったばかりに溜息をついて見せた。
続いて、灰原はキッチンの方へも目をやる。
「・・・朝食は取ったの?」
「あ、いや、まだ。でも、これから食うところだよ?」
・・・・食欲はねーけど。ま、ここで食べないとまた周りがうるさいからな・・・。
オレはそんな心の内は隠してにっこりそう笑った。すると、灰原は無言で頷いて、再び口を開く。
「・・・・彼は?」
「キッドか?アイツなら、今、シャワー浴びてるけど・・・。」
オレは自分でそう答えておきながら、そういや、アイツが今回の一件でオレのとこに来て以来、いつも、朝にシャワー浴びてることに気がついた。
・・・いや、別に朝、シャワーを浴びる事くらい、全然珍しい事でも何でもないんだが。
そうではなくて、問題は別のところだ。
キッドのために用意してやった客室のベットは、相変わらず使われている気配は一向に無い。
博士のところに泊まった時も、結局、夜中遅くまで何やら灰原と起きていたようだったし。
昨夜だって、アイツの話じゃビスク・ドールがここに来て、ひと悶着あったと言う。
・・・ってことは、だ。
・・・・・・一体、キッドはいつ、寝てるんだ?
小首を傾げたオレを、灰原も不思議そうに視線を上げる。
「・・・どうかしたの?」
「・・・あ、いや。それより、昨夜、ビスク・ドールがここへ来たらしいんだ。」
オレの言葉に灰原の目が僅かに見開かれる。
「・・・・・それで?」
あくまで声は冷静だ。オレはその少女の目をまっすぐに見返しながら、今朝、キッドに聞いたばかりの話を灰原にも話して聞かせた。
「・・・残念ながら、オレはまた何にも覚えてねーんだけど。
どうやら、ビスク・ドールはオレを立派な殺人鬼に育てるために、わざわざ殺人現場をオレに目撃させてご丁寧にもレクチャーしてくれてるらしい。
キッドの話じゃ、実際に殺人を犯しているのはビスク・ドールで、それを目の当たりにしているオレがまるで自分でやったように錯覚しているだけってことだそうなんだけど・・・。」
「良かったわね。じゃあ今のところ、殺人犯にならずに済んだわけね?」
そう返してくれた灰原の声にも、どこか安堵の響きがあった。それに同意するようにオレも頷く。
・・・・・・でも。
本当にそうなんだろうか?
この手はこんなにはっきりと、人を殺めた感触を残しているというのに。
「・・・どうしたの?確かにまだ楽観視できる状況とまでは行かないけど。とりあえず、最悪の事態にはまだ至らなかったことがわかって、ようやく貴方も一安心できたんじゃなくて?」
灰原の視線を一度見て、それからオレは僅かに俯いた。
「・・・確かにな。そのとおりなはずだけど。・・・・けど、人を殺したあの生々しい感触だけははっきりとオレの中に残ってるんだぜ?それが本当に幻覚かどうかなんて、オレにはわからない・・・。」
言いながら、オレは両手を見つめた。瞬間、真っ赤な血に染まっている自分の両手の光景がフラッシュ・バックして、オレはぎゅっと目を閉じた。
「・・・彼の言う事だけでは、信用できない?」
灰原の目がからかうように細められたので、オレは少し声を荒げてしまった。
「そっ・・・、そういうワケじゃねーよっっ!!ただオレはっっ・・・・!!
・・・・も、もしかして、アイツがオレを安心させようとして、そういう風に言ったのかもしれないって・・・。」
・・・そう。キッドはウソをついているのかもしれない。
本当は、オレはとっくに人殺しなのに、そうとは気付かせないように、ウソをついたのかも。
すると、灰原はクスリと笑った。
「そんないずれバレるようなつまらないウソを、彼がつくかしら?」
「そうそう!」
と、灰原の言葉にタイミングよく、相槌を打つ声が聞こえた。
慌てて顔を上げると、頭にタオルを被ったままのキッドがリビングのドアを背にして立っていた。
オレと目が合うと、
「・・・にしても、ヒドイな、名探偵。 ずいぶんと信用ないみたいだね、オレって?」
そう言いながら、にっこりウインクして見せた。
「・・・ちょっと。ポタポタ垂れてるわよ?もう少しちゃんと拭いたらどうなの?」
濡れた髪から滑り落ちる雫が床に染みを作るのを見て、灰原が溜息混じりに言うと、キッドは、ゴメンゴメンと笑いながらガシガシとタオルで頭を拭いた。
「いや〜、気持ち良かった。シャワーだけじゃなくて、お湯もはっちゃったんだよね。ああ、せっかくだから、名探偵も入ってくれば?昨夜もいろいろあったし、さっぱりしたいんじゃないの?名探偵がお風呂から出てきた頃には、おいしい朝ご飯を用意しとくからさ!」
キッドがそう言って、オレをフロに勧めるが。
・・・確かに、さっぱりしたいかも。良く考えたら、昨夜も殺人現場に繰り出していたことになるわけだし。
ついでに、このモヤモヤした気分も洗い流したいくらいだ。
オレはそう思うと、キッドの言葉どおり大人しく従うことにして、2人を残してリビングから消えたのだった。
□ □ □
リビングのドアが閉まるのを見送ると、キッドは再びタオルで頭を拭きながらキッチンの方へと向かう。
そんなキッドを哀は目線だけで追った。
白いシャツにジーンズ姿で、一見すると、どこにでもいそうな少年ではあるが。
この非常時に、相変わらず飄々としていられるのは、さすがは大怪盗と言うべきなのか、
それとも、彼自身の持つ気質によるものなのか。
・・・・・・どちらかというと、後者の方が可能性が高いわね。
哀は小さく溜息をついた。
と、哀の前を横切ったキッドがふいに振り返る。屈託の無い少年の笑顔で。
「何か、飲む?」
「・・・いいえ、結構よ。」
哀がそう答えると、キッドはまた一つ笑顔を作ってからキッチンへと消えた。
冷蔵庫が開く音がしたかと思うと、ミネラル・ウォーターの入ったペット・ボトルを持って再び現れそのままソファに腰掛けると、哀にもこちらに座るように促す。哀は黙ってソファに腰を下ろした。
「・・・昨夜、また彼が現れたんですって?」
目の前で水をごくごく飲むキッドを上目使いに見ながら、哀は聞いた。
キッドはひととおり満足行くまで水を飲み終えると、ボトルを口から放し、嫌そうな表情を作って見せる。
まるで、厄介な友達が昨晩押しかけたとでも言っているような、そんな顔だ。
「ちょっと目を離した隙に、またどうやら名探偵を殺人現場へ連れ出したみたいでね。」
キッドの言葉に哀の目がすっと細められる。
「・・・・・何のためにここに泊り込んでいるのやら。」
哀が淡々と言った。
「まったくだ。我ながら、がっかりしたよ。」
キッドも肩を竦めた。
「これで、また一歩、名探偵の殺人鬼化が進んだことには間違いないだろうからね。前途多難どころか、真っ暗だ。 こうなったら、天才化学者の作り出す魔法の薬に期待するとしよう。」
「おだてたって、ダメよ。」
言いながら、哀はポケットから小さな袋に透明の袋を取り出した。中にはカプセル状の薬が入っている。
それを認めて、キッドの目が僅かに見開いた。
「・・・さすが。まさに神業だね。もう作っちゃったんだ?」
にっこりと笑うキッドに対し、哀はちょっと軽蔑したように言った。
「・・・勘違いしないで頂戴。別にこれで工藤君が元に戻せるわけではないわ。
これは、先日、工藤君の身体から検出された薬品と同じ成分で作ったものでしかないの。つまり、前回、彼が工藤君に薬を飲ませた時と同じ状況にすることしかできない。」
哀の目を真っ直ぐに見つめていたキッドが、唇の端を持ち上げて、なるほどと頷いた。
「要するに、これも幻覚剤なわけだ。」
キッドの言葉に、哀はコクリと頷いた。
「・・・・・・でも。・・・まぁ、これを使って新たな人格を作る事も可能なら、同じように人格を消す事もできそうな感じだね。」
ニヤリと笑うキッドを見て、哀は続けた。
「・・・・・・私にできるのはここまでよ。ただ、それで本当に工藤君を元に戻せるかなんて、断言はできないわね。」
ふむと、キッドも腕組みした。
「・・・確かに。要は、名探偵の深層心理の問題だからねぇ。」
そして、すぐその腕を解くと、カプセルが入った袋が置かれているテーブルへと手を伸ばす。
袋を手に中に収めると、綺麗な薄いブルーのカプセルをまじまじと見つめた。
「・・・だけど、まぁ・・・・、オレは名探偵を信じるよ。
アイツ自身、そんな簡単に殺人鬼の人格に取って代わられるほど、ヤワな人間じゃないだろうし。そうそうビスク・ドールの思いどおりにさせるわけにもいかないからね。」
言いながら、不敵に笑う怪盗を見て、哀も笑った。
「・・・・・・諸悪の根源である大怪盗さんでも、まぁ、いないよりはましね。
じゃあ、工藤君のこと、しっかり頼んだわよ?」
哀はそれだけ言うと、ソファから立ち上がり、部屋の外へと向かう。
「言われっぱなしだなぁ。」
キッドも苦笑して立ち上がると、少女の後に続いた。
□ □ □
ふーっと、オレは大きく溜息をつきながら、頭からバスタオルを被ったまま、衣服を身に着け始めた。
浴槽で充分お湯につかっていたせいか、身体がぽかぽかする。
さっき、考え事をしていた時は、それこそ寒気とともに体温が下がるような気すらしていたから
なんだか、今は生き返ったようなそんな心地良さを感じていた。
・・・ま、考えてみれば、だ。
・・・確かに、殺人犯であるオレを庇うなんてウソを、いつまでもつき通せるはずはないんだよな。
ってことは、やっぱりキッドの言う事は真実・・・には違いはないのか・・・。
・・・いや、でも・・・。
そうは思っても、この身体が覚えてしまっている感覚だけは、どうにも消し去ることができない。
『彼の言う事だけでは、信用できない?』
灰原の言った言葉が、オレの頭の中で蘇る。
・・・違うんだ。そういうんじゃなくて。信用なら、オレは・・・・。
キッドに関してきちんと信頼を置いていると、断言しかけた自分がいたが、ハタとそこで立ち止まった。
・・・待てよ?よく考えれば、そもそもアイツ自体、信用できないんじゃねーか?
・・・そうだ、相手は胡散臭い怪盗だぞ?
キッドの言葉を真実だと素直にそう信じられないのが、自分の身体に感覚として残る
忌まわしい記憶のせいだと知りながらも、オレは半分はアイツ自身のせいにすることにした。
・・・そうだ!アイツが悪い。イマイチ真実味が欠けるのは、アイツの日ごろの行いの悪さからだな。
オレはそう自分を納得させて、拭き終わったバスタオルを、洗濯機に投げ入れた。
それから濡れた髪をかきあげながら、ドライヤーで乾かそうと何気なく鏡の前に立つ。
鏡に映った自分の姿に、妙な違和感を覚えた。
それは、鏡の中にいるもう一人の自分の瞳に、自分の姿が映っているのを見た時だった。
吸い込まれそうな喪失感が急速にオレを襲い、オレは思わず立ちすくんだ。
鏡の中にいるのは間違いなくオレなのに、それは明らかにオレじゃないと悟った。
だが、この凍るように冷たい瞳をオレは知っている・・・!!
すると、鏡の中の『オレ』が不気味に笑った。
《 いつまでオレに気づかない振りをしているつもりだ?オレはずっとお前と一緒にいるんだぜ? 》
「・・・おっ、お前が・・・、ビスク・ドールが作ったもう一人の・・・オレか?!」
全身の血が音を立てて冷却していくのを、オレは感じた。
次に、起こった出来事にオレは大きく目を見開く。
白い手がすぅっと伸び、鏡の中から出てくると、オレの右腕を掴んだのだ。
冷たくはない。生身の人間の手だ。その感触は紛れも無くリアルなもので。
《 いつまで、オレを抑え付けていられるかな? 》
掴まれた手に力が加わった。
オレの骨が軋むほどに。
「・・・やっ・・・めろっっ!!」
《 どうせ逃げられないよ?オレはお前の中にいるんだから。 》
「いやだっっっ!!!」
絶叫とともに右手を大きく振り、そのあまりのスムーズさにオレは慌ててブレーキをかけた。
勢い良く振り上げられたオレの腕は、鏡にぶつかる寸前で止まった。
自分が一人だと、オレは気付いた。
もう一度見た鏡の中には、青ざめた今の自分が映っているだけ。
「おいっ、名探偵?!どうかしたか?!入るぞ?!」
瞬間、ドアが開いて、キッドがすごい勢いで駆け込んできた。
オレは強張った体を自分自身で抱きしめながら、顔だけヤツの方へ向けた。
「・・・何があった?大丈夫か?」
キッドの声はひどく心配そうで、そしてどこか優しい響きが感じられるような気がした。
「・・・大丈夫。ちょっと、幻覚を見ただけだよ。」
オレは俯いて、なんとかそれだけを告げた。
結局、今の出来事のおかげで、オレの食欲はますます減退してしまい、
せっかくキッドが用意してくれた朝食も、ほとんど口にしないままになってしまった。
コーヒーだけが置かれたテーブルを挟んで、向かいのソファにキッドが腰を掛けている。
一応、オレの目の前で起こった出来事については話してみたところだ。
キッドは、難しそうな顔をして頷き、それから
「・・・重症だな。」
と、呟いた。
確かに、このままでいたら、もう一人のオレに取って代わられてしまうのも、時間の問題かもしれない。
オレは目の前にいる怪盗に向かって、声をかけた。
「・・・おい、キッド。お前もさ、あんまりオレの傍にいない方がいいんじゃないか?
オレはいつ、殺人鬼に変身するか、わからないぜ?」
オレは苦笑しながら、続ける。
「そのうち、お前を殺しにかかるかもしれない。悪いがそうなったら、オレ自身じゃどうにも止められないかもしれないし。」
オレの言葉に、キッドは黙って見つめ返すだけだったが、ふとクスリと笑いを漏らした。
「・・・そーだな。何て言ったって、あのビスク・ドールが直々に教えているわけだし、
アイツの話じゃ、名探偵はずいぶんと優秀な生徒らしいからなぁ。これは手ごわいかもしれないな。」
「・・・・・・お前な。オレはマジメに言ってんだぞ?」
オレは、フンと鼻息を鳴らしてキッドを睨みつける。けれども、当人はそんなこと、どこ吹く風ときた。
人が真剣に言ってやっているのに、相変わらずバカにしたような態度としか思えない。
もしかして、オレが殺人鬼になって襲い掛かったとしても、恐れるに足らないとでも思ってるのか?
・・・だとしたら、ちょっとムカつくぞ?
「まぁまぁ、落ち着けよ、名探偵?そう難しく考える事もないだろ?」
言いながら、キッドは飲み終えた自分のコーヒー・カップを持って立ち上がる。
「・・・別にオレはっ!!」
反論しかけたオレを、キッドが振り返ってにやりと笑う。
「それとも、オレの事を心配してくれるわけ?」
「・・・なっ!!何を言ってんだ!てめーはっっ!!」
オレが真っ赤になって言い返すと、ヤツは声を立てて笑った。
「・・・心配はいらねーよ、名探偵。オレは怪盗キッドだぜ?」
それだけ言うと、キッドはちょんとオレの頭を小突いてキッチンへと向かう。
ガキみたいに扱われて、無性にむかついたオレは、キッドを罵倒する言葉を嵐のように猛烈に繰り出した。
だから、キッチンへ消える前にキッドが何か言葉を言ったのさえ、気がつかなかった。
「・・・・まぁ、ある意味、名探偵になら殺されても、オレとしては本望だけどね。」
アイツがそう呟いたのを。
□ □ □
そうして、再び夜を迎える。
今日一日、オレは家で大人しく過ごした。
相変わらず外で待機してくれている高木刑事達や、警視庁にいる目暮警部とは、電話で少しやりとりをしただけだ。
依然として、ビスク・ドールに関する有力な情報などないとのことである。
「ま、当然だろうな。」
リビングの窓の外に浮かぶ月を見ながら、キッドはまるで人事のように言った。
「・・・今夜もアイツは来ると思うか?」
オレの問いにキッドが顔を向けた時だった。
不意に、携帯の着信音が鳴り響く。それは、高木刑事から渡されていた非常連絡用のものだ。
時刻は午後9時を少し過ぎた頃である。
まだ遅い時間とは言えないけど、夜中に連絡してくる事なんて今までなかったのに。
・・・何かあったかな?
オレはそう思いながら、電話に出た。
「・・・はい、工藤です。」
『・・・あっ!もしもしっっ!!工藤君っっ!?た、大変だっ!たった今、君の家の二階に何者かが忍び込むのを目撃したんだっ!!君は、今、どこにいるんだい?!』
電話口の高木刑事の声はかなり切迫したものだった。携帯を握るオレの手にぐっと力がこもる。
「・・・1階のリビングに。」
そう答えながら、オレは視線を素早くキッドに向ける。 キッドもその目を細めて、オレを見返した。
『よしっ!わかった!!今すぐ、駆けつけるから工藤君はそこを動かないで!!
警部達にも応援を頼んだから、すぐに来てくれるはず・・・・』
そこまで聞いて、オレは電話を切った。
「キッドっっ!!上だっっ!!!」
オレはそう叫ぶと、瞬間、キッドはいつもの白い怪盗の姿になり、階段を駆け上がる。
オレもキッドの後に続いた。
二階にあるオレの寝室のドアを勢い良く開け放った瞬間、冷たい風がオレとキッドの頬を打った。
薄暗い部屋の中、全開に開け放った窓から少し冷たい風が舞い込んで、カーテンがなびいている。
月明かりしか照らすものが無い中、闇の中からゆらりと一つの影が湧いて出た。
「・・・ビスク・ドールっ!!」
その影の姿を認めて、オレは目を見開いた。
相変わらずなその無機質な瞳で、オレ達を面白いように見つめると、ビスク・ドールは赤い唇を僅かに動かした。
「・・・・ソイツの仕上がり具合を確かめに来たんだが。」
ヤツの青い眼が蛇のように鋭く輝いて、真っ直ぐオレの目に刺し込む。
ドキリと心臓が高鳴った。
すると、キッドがグイっとオレの腕を引き寄せ、こう言った。
「悪いけど、コイツをそう簡単に殺人鬼にするわけにはいかないんでね。」
けれども、ビスク・ドールはクックと肩を震わせて笑い始めたのだ。
そして、勝ち誇ったかのように言った。
「・・・残念だな、キッド。もう手遅れだ。
・・・オレのもとへ来い、名探偵!いや、もう名探偵じゃないな!来るんだ!クドウ シンイチ!!」
瞬間。
ビスク・ドールの声に、まるで脳に突き刺さるような刺激を受けたと思うと、急速に意識が何者かに奪われていくのを、オレは感じた。
オレにはわかった。
今、この瞬間に、オレの中の人格が入れ替ったことが!!!
□ □ □
俯いていた顔が、再び持ち上がったとき、それは別人の瞳の色を輝かせていた。
それはまさに殺人鬼のもの。
その纏う気配さえ普段とは異ったことに、キッドは一瞬にして、何が起きたのかを理解しチっ!と舌打ちをした。
新一はキッドに掴まれていた腕を軽々と振り払うと、まるで目に見えない糸にでも引かれるようにビスク・ドールのもとへと足を進ませた。
自分の隣に来た新一に、ビスク・ドールは満足気に微笑むと、キッドを見返す。
「・・・さて。どうする、キッド?」
キッドは胸元からトランプ銃を抜き出して、ギリと唇をかみ締める。
一方、ビスク・ドールは楽しそうに笑うと、隣の新一の顔を覗きこんだ。
新一の顔にはまるで表情は無い。ただ氷のように冷たい瞳を持った、人形のようだった。
「・・・せっかくだから、お前の腕がどのくらいなものか、見せてもらおうか?」
すると、ビスク・ドールはどこに隠し持っていたのか、一本の銀色のナイフを取り出し、
新一の手に握らせると、冷ややかに言い放った。
「・・・キッドを殺せ!」
キッドの純白のマントが翻る。
白い怪盗めがけて、新一の右手が美しい弧を描き、その中心から白銀のナイフが跳んだ。
ナイフはキッドの首筋ギリギリのところを通って、グッサリと壁に突き刺さった。
一分の狂いもないその狙いに、キッドは少々苦笑する。
・・・確かに、大した腕だな・・・。
トンと床を蹴って宙を舞ったキッドは、獲物を手放して手が開いた新一に一気に詰め寄った。
・・・悪いが名探偵と殺り合うシュミはないんでね。早々に終わらせてもらう!
そう思って、新一の鳩尾にでも1発食らわせようと、キッドが拳を繰り出した瞬間、
新一は素早い動作でそれをかわし、何と身体を回転させて右足を大きく振り上げた。
「・・・げ!」
新一の蹴りの威力は知っている。もちろん、本気の蹴りを食らったことまではさすがにないが。
今までも犯人達を蹴り倒してきた姿を目撃していたキッドだからこそ、その新一の容赦のない蹴りをいただくわけにはいかない。
キッドは慌てて後方へジャンプし、新一の右足を間一髪でかわした。
と、その隙に、新一はキッドの後ろに回りこみ、先ほど壁に突き刺さったままだったナイフを抜き去る。
キッドが振り返った時、既に新一は再びナイフを手に入れ、キッドに切りかかってきた。
無駄の無い動きで確実にキッドを仕留めようとする新一に、内心、本気でキッドは舌を巻いていた。
「・・・ちっ!」
キッドは舌打ちをした。
全身を嫌な汗が伝う。
「どうした?キッド?!お前も本気を出さなければ、殺られるぞ?」
キッドの背後で、面白そうにビスク・ドールが笑った。
背中のビスク・ドールを睨みながら、トランプ銃を構える。
新一の手からナイフを弾き飛ばそうと狙いをつけて。
キッドはトランプ銃を撃った。
だが、キッドの放ったカードは、新一の手に届く寸前にほぼ中央から折れ曲がって、無残に落ちた。
新一がナイフでキッドのカードを弾いたのである。
その光景には、さすがのビスク・ドールも感嘆の声を上げた。
確かにそれはキッドとしても感嘆すべきところだが、正直、そんな場合ではなかった。
新一の追撃の手は休まない。
一方、キッドは防戦ばかりだ。
・・・・・・この野郎っっ!!正気に戻ったら、覚えてろよっっ!!!
目の前の氷の目をした殺人鬼相手に、そう愚痴ったところで始まらないが。
キッドは新一に決定的な攻撃など与えられるはずも無く、いや、むしろそれを与える余裕さえなく次第に、壁際へと追い詰められていく。
そして、ついに。
新一のナイフが、体勢を崩したキッドの右腕を掠めた。
「・・・っつっ!!」
純白のシーツに鮮血が滲む。
そして、その血を見た瞬間、新一の目が歓喜の色をたたえ、さらに凶暴な刃をキッドへと振りかざした。
白銀のナイフがキッドの首筋へと吸い込まれていく。
頚動脈を切断されたら、終わりである。
瞬間、キッドの眼が鋭く輝くと、その左手が動いた。
すべてが終わった。
ナイフは停止していた。キッドの手に握られて。
白い手袋がみるみるうちに真っ赤に染まり、床に血が滴る。
ポタリポタリと音を立てて。
すると、新一の身体からガクリと力が抜け、崩れ落ちてきた。
思わず、支えようとしたキッドよりも先に、ビスク・ドールが新一の身体を奪い取っていく。
意識を手放してぐったりした新一を抱きかかえ、ビスク・ドールは窓辺に立った。
「良いものを見せてもらった。どうやら、予想以上の仕上がりだ。いい腕を持ってるよ、コイツは。・・・さて、これでオレは『ジョーカー』を手に入れたわけだが。
・・・お前はどうする?キッド。オレと一緒に来るか?」
青白い月をバックに、白い人形のような顔がそう不気味に笑う。
唇をかみ締めて、キッドが一歩踏み出そうとしたところで、背後で第三者の声がした。
肩越しに振り返ると、後ろに銃を構えた高木刑事と千葉刑事がいた。
「・・・キッ、キッドっっ?!な、何で・・・」
「・・・お、おいっ!!もしかして、あれがビスク・ドール?!く、工藤君っっ!!!」
初めて見た国際級の大悪党の姿に、腰を抜かしそうな勢いの2人の刑事に
キッドの関心がそれた瞬間、ビスク・ドールは新一を抱いたまま、窓の外へフワリと身を投げる。
「・・・クソ!!」
キッドはビスク・ドールの後を追って、窓の外へと飛び出した。
すると、工藤邸のまわりには高木刑事達が呼んだ応援部隊が、ちょうど到着したようで、
パトカーが続々と集まってきていた。
「な、なんだぁ?!何で工藤君の家からキッドが出てくるんだ?!」
ビスク・ドールらしき人物が工藤邸に侵入したと言う知らせを受けてやってきたのに、
なんと、そこには怪盗キッドの姿まであったものだから、大騒ぎである。
「・・・な、何ィ?!工藤君が、ビスク・ドールにさらわれただとぉ?!本当か?!高木君!!・・・と、ともかくだっ!!一刻も早く工藤君を救出するんだっ!!犯人の特徴は覚えているだろうな?!」
工藤邸の屋根の上に佇む白い怪盗を睨みつけながら、目暮警部で携帯電話を片手に怒鳴りたてた。
電話を切って、警部が回りに指示を出そうとした時、
「・・・ちょっとお待ちください。」
ゾクリとする程穏やかな、この場にそぐわない声が空から響いた。
怪盗キッドのものである。
「なっ、何だね?!」
目暮警部を含む、その場に佇む警備員達全員が、屋根の上の白い怪盗を見上げた。
「どうなさるおつもりですか?」
と、キッドが聞いた。
「・・・ど、どうするだと?そんなこと決まっている!!工藤君を救出して、犯人を逮捕するまでだっ!」
警部が拳を振り上げてそう言うのを、キッドは無表情で聞いていた。
「・・・申し訳ありませんが、今回の一件は私に任せていただけますか?
それもこれも、すべてはビスク・ドールの私に対する嫌がらせに過ぎないのでね。」
「・・・嫌がらせ。」
そう言ったきり、警部は絶句した。
当たり前である。人が何人も死んでいるのだ。しかも今もまた、一人誘拐までされたというのに、それがこの目の前の怪盗に対する犯人の憂さ晴らしだというのか。
何十年のキャリアを誇る警視庁捜査一課の目暮警部は、今、初めて自分の手に余る事態に納得しかけていた。
が。
たとえ、そうだったとしても、ここで大人しく引き下がるわけにはいかない。
「・・・と、とにかくだっ!!事情は何にせよ、我々がここで手を引くわけにはいかんっっ!!」
仁王立ちをして、警部はそう強く言い放った。
すると、頭上の白い怪盗はやれやれと溜息をもらした。
「・・・・困ったなぁ。」
相変わらず人を食った表情で、下にいる者達を見下ろす。
「はっきり言っていいですか?」
「なっ、何だっっ?!」
「あなた方の手には負えません。」
きっぱりとそう言い切るキッドに、何故か警部達はぐうの音もでなかった。
沈黙した警部達を見つめ、キッドは満足そうに頷くと、白いマントを翻らせてそのまま闇に消える。
その遠ざかるおぼろげな白い影を、警部達は呆然と見送るしかなかった。
「・・・一体、何がどうなっとるんだ?」
目暮警部の低い呟きが、夜風にさらわれていったのだった。