工藤邸の周りを取り囲むようにして、何台ものパトカーが停まっている。
高木刑事を含む数人の警官が走り回り、目暮警部は無線を片手に大きな声を張り上げ、しきりに指示を出していた。
その外の慌しい様子を、一人居間のカーテンをこっそり開けてうかがっている小さな影があった。
灰原 哀である。
彼女の瞳の中には、いくつものパトカーのサイレンの赤が綺麗に映っていた。
そこへ、バタバタと大きな音を立てて、阿笠博士が走りこんでくる。
「・・・・あ、哀君っっ!!一体、何事じゃっ?!」
背後でした声に哀は振り返ると、博士が驚いた形相で立っていた。
完全防音の研究室にこもっていた彼には、トイレのためにその部屋を出た今の今まで、この騒ぎに気がつかなかったようである。のんきなものだ。
シャッという音を立てて哀はカーテンを引き、外の景色を博士に良く見えるようにしてやった。
「・・・・・どうやら、ビスク・ドールが工藤君のもとに現れたみたいね。」
「な、なんじゃと?!それで新一君は?!」
言いながら博士は窓に張り付いて、必死に外の様子に目を凝らす。
一緒になって哀も再び外へと顔を向け、その瞳を僅かに細めた。
「・・・・・おそらく、彼はビスク・ドールにさらわれたと思って間違いないわ。」
「そ、そんなっっ・・・!!新一君は無事なんじゃろうか?!」
顔を青くする博士に、哀は冷静に告げた。
「・・・・・さぁ。 とりあえず生きてはいるでしょうけど・・・。」
「・・・・・お、おいおい、哀君・・・・。そ、それより、キッドはどうしたんじゃ?彼は新一君と一緒だったはずじゃろう?!」
「・・・・・ええ。その彼もビスク・ドールの後を追って消えたみたい。」
「な、なんじゃとぉ?!」
哀の言葉を聞いて、博士はますます顔色を無くし、その場に立ち尽くした。
これで、恐れていた最悪の結果が訪れてしまったということなる。
「・・・・・ジョーカーは、既にビスク・ドールの手の中。・・・一体、どうするつもり・・・?」
闇に浮かぶ月を見つめ、哀は小さくそう呟いた。
漆黒の闇の中を、黒と白、二つの影が風のように駆け抜けていく。
やがて、先を行く黒い影の方が足を止めると、後ろの白い影も少し遅れて止まった。
人気のない廃屋のビルの屋上で、黒い影が後ろを振り返る。
青白い月光に照らされてその姿が露になると、意識のない新一を抱いたまま、金髪の人物が陶器のような白い顔に不気味な笑顔を浮かべていた。
「・・・そう恐い顔をするなよ?キッド。別にオレは、今すぐコイツを殺す気なんてない。」
ビスク・ドールは言いながら、その赤い唇を舐めた。
ビスク・ドールから少し離れた位置に立つ白い影は、その白いマントを風に靡かせながらシルクハットのつばを少し上げて見せる。
モノクルに隠れていない方の彼の左目が、鋭く輝いていた。
それを見て、ビスク・ドールの人形のような目に艶然とした笑いが帯びる。
「ここまでついてきたということは、とうとうお前も覚悟を決めたと思っていいわけだな?キッド?」
「・・・さぁね。」
白い怪盗のそのとぼけた返事に、ビスク・ドールはむしろ笑いを含んで見せた。
「お前の出方次第では、すぐにでもコイツを本当の殺人鬼としてデビューさせてやっても構わないんだぜ?お前の大事な名探偵の命をただ奪うよりも、その方が面白そうだ。」
恐ろしいことをツラツラと言ってのけるその悪党ぶりに、キッドはチ!と舌を鳴らした。
「つまらないことを思いつきやがって。」
うんざりしたように言う。
「名探偵にこれ以上おかしなマネをされては困るんでね。・・・・・どうしたらいい?」
キッドの問いかけに、ビスク・ドールはその赤い唇を持ち上げてクスクスと笑った。
「わかりきった事を聞くな。お前がオレのところへ来る。それだけだ。」
「・・・それは、困ったな。」
蛇のように光る青い瞳を見て、キッドがやれやれと溜息をついた。
一方ビスク・ドールはことさら楽しそうに笑みを濃くする。
「何も困る事はない。お前に『名探偵』を見捨てられはしないだろう?」
そう言ってから、ビスク・ドールは腕の中の新一を抱え直すと肩越しにニヤリと笑い、キッドへ背を向けて再び闇の中へと駆け出した。
「・・・・つくづく性格の良くない奴だな。」
不貞腐れたように一言ぼやいてから、キッドも先に行く黒い影へと続いて闇へ消える。
夜空に浮かぶ月が照らすものは、もう何もなかった。
□ □ □
警視庁。
数台のパトカーが猛スピードで滑り込んでくる。
急ブレーキで止まったその中から、目暮警部を含む捜査一課の面々が次々と降り立って建物の中へ入っていった。
どかどかと大人数の刑事達を引き連れて、目暮警部が1Fの廊下を足早に歩いていると、ちょうどエレベーターから下りて来た中森警部とはち合わせる。
「め、目暮っっ!!今、お前にそっちに行こうと思っていたところだ!キッドが現れたそうだな?!」
相変わらずすごい剣幕で食いかかる中森警部に、目暮警部は足を止めずに頷いてだけ見せる。
「キッドだけじゃない。ビスク・ドールもだ!しかも工藤君が奴にさわれた!!」
「なっ・・・!!なんだとぉ?!」
「追跡、および検問はしているが、今のところまるで手がかりはなしだ。
相手が本当にあの世界的に有名な大悪党なら、こっちもそれなりに腰を据えて対策をねらねばならん!もちろん上層部への連絡もな!」
眼光鋭く、そう低い声で告げた目暮警部に、中森警部も真剣な表情で深く頷いた。
「・・・よし、わかった!今、2課の連中も手の開いている奴はすべてそっちに回そう。」
その心強い申出を聞いて、初めて目暮警部の表情が少し和む。
「・・・すまない。」
「気にするな!怪盗キッドが関わっている以上、こっちにとっても無関係な事件じゃないんだからな!」
中森警部の言葉に目暮警部は頷くと、後方の高木刑事を振り返る。
「高木君!大至急対策会議を開く!!4Fの第一会議室に今すぐ集まるようみんなに伝えてくれ!」
「・・・は、はいっっ!!」
指示を受けた高木刑事は、駆け足でその場を去って行った。
「・・・で、目暮。ビスク・ドールが現れたって・・・。お前はビスク・ドールの顔を見たのか?」
中森警部の問いに、目暮警部は短く、「いいや」とだけ答えた。
「目撃したのは高木刑事達だ。もっとも彼らが踏み込んだ時、既に工藤君が連れ去られるところだったらしいがな。」
「じゃあキッドの奴は、偶然、そこに居合わせたのか?」
重ねて訊いた中森警部の顔を見て、目暮警部もはて?と首を捻る。
「・・・それにしても。」
顎に手を添えるようにして、目暮警部が呟いた。
「何だ?」
何か気になる事でもあるような口ぶりに、中森警部は横を歩く目暮警部の顔を覗く。
「・・・・・キッドが妙な事を言っていた。今回の一件は、すべて自分に対するビスク・ドールの嫌がらせだから、任せろと・・・・。」
それを聞いて、中森警部はその眉を少しつり上げる。
「キッドに対する嫌がらせ?!この連続殺人事件から工藤君誘拐にわたる事件すべてがか?!」
「・・・ま、キッドにしてもビスク・ドールにしても謎だらけの人物だ。
奴らが闇の世界の中、どこでどう繋がっているかまでは、さすがにわからんからな・・・・。」
そう言って、目暮警部はその帽子を目深に被り直した。
□ □ □
寝心地の悪いベットに寝かされている気がする。
硬いベットの上で寝返りをうとうとしたところで、オレの意識はゆっくりと浮上した。
ぼんやりと目を開けると、薄暗い中、少し離れたところに何か白いものがいた。
人だ。
椅子に腰掛けている風なその人物の手元らしきところで、さらに細い白い物がゆらゆらと揺れていた。
・・・・・何をしているんだろう?
覚醒しきれない頭で、そう考える。
やがて徐々に視界がはっきりしてくると、白い人がその掌に包帯のような白い布を巻きつけているのだということがわかった。
そして、その白い人物が誰かという事も。
「・・・キ・・ッドっ?!・・・・ッツ!」
声が掠れてうまくでない。
オレは起き上がろうとして、やや上体を起こしたが、強烈な眩暈に襲われ、思わず片手で額を覆った。
すると、白い怪盗は立ち上がり、その座っていた肘掛け椅子を引き寄せると
オレのベットのすぐ横にあらためて腰を下ろした。
「・・・よぉ。気分はどうだ?」
「・・・ダルい。なんか頭も重くて、はっきりしねーし・・・。」
まだ少し掠れた声でオレがそう答えると、キッドはうんうんと頷いた。
「ま、それくらいなら、じきに治るだろ。しばらく横になってるんだな。」
言いながら、キッドは左の掌に細い布を巻きつけてテーピングのように留め、その上にいつものシルクの手袋をはめた。
白いはずのその手袋が、赤く染まっているのを見て、オレは目を見開く。
・・・・血だ・・・!!
よく見ると、スーツの右腕にも鮮血の跡がある。
一気に記憶が覚醒した。
オレの家に現れたビスク・ドール。
あの冷たい凍るような瞳と、不気味な声を、確かにオレは覚えている。
だが、そこから先は?
また、靄がかかったように何も思い出せない。
・・・ということは、だ。
オレがまた殺人鬼の人格に、取って代わられたということに間違いはないのだ・・・!!
「・・・お、お前・・・それ・・・。オレが・・・オレがやったのかっっ?!」
「・・・ああ、コレね。大した事ないよ。かすり傷だ。」
キッドはあっさりと言って、血に染まった手袋をしたままの左手をヒラヒラと降って見せる。
まるで、何でもないと言うように。
・・・でも、オレが傷つけたという、その事実には変わらない・・・。
オレは、キッドのその鮮血が染み込んでいる手袋を見つめている内に、自分の胸が押し潰されそうな痛みを感じた。
キッドの顔を見つめたまま言葉を無くしてしまったオレに、奴はその目を真っ直ぐに向けると穏やかな声で言った。まるで言い聞かせるように。
「気にするな。『名探偵』がやったわけじゃない。」
「・・・でもっ・・・!」
と、反論しかけたオレに、キッドはニッとそう人の悪そうな笑いを浮かべるとこう言った。
「どうしても名探偵の気がすまないって言うんなら、一つ貸しにしといてやっても構わないぜ?あとで、たっぷり返してもらうよ。」
ウインク付きでそういう怪盗の顔は、何か良からぬ事を企んでいそうで
マジメにコイツに悪い事をしたと思っていたオレの気持ちを吹っ飛ばすには充分だった。
・・・ったく、しおらしくなってやった自分がバカみたいだ。
ま、キッドには悪いけど、よくよく考えるのと、怪我させたのがコイツだったということの方がオレにとっては、ある意味、救いだったかもしれないな。
そう思ってオレは苦笑すると、あらためて自分が横になっているこの部屋全体を見回した。
大した広さもないその部屋には、小さな明かり一つと、オレの寝ているベットの他、数個の椅子以外何もない。
一つだけある窓からは、ここが結構な高さのビルの中だということがわかった。
閑散とした工事現場に立つそのビルは、これから解体される予定なのかもしれない。
「・・・・で、どういう状況だ?」
目を細めて訊いたオレに、キッドはニヤリと笑った。
「名探偵とともに、奴の懐に飛び込んだっていうと、一応、聞こえはいいかな?」
「・・・・ビスク・ドールは今、どこに?」
「・・・さぁ?このビルのどっかにはいるだろう。またロクでもないことを企んでるのかも。」
そっけなく言って、キッドは椅子から立ち上がった。
「この部屋から出られないのか?」
そう離れてはいないところにある、入り口のドアにオレは目をやった。
キッドも同じようにドアへと視線を投げる。
「・・・・それはアイツに聞いてみないことにはね。」
キッドは面白くもなさそうに言って、オレに背を向ける。
「・・・キッド、お前・・・。何を考えてる?」
背を向けたままの白い怪盗にオレがそう訊ねた時、目の前のドアが開かれた。
□ □ □
ドアの向こうに立つ黒い人影を見て、キッドの目がすっとその目を細めた。
影が一歩前へ進み、部屋の僅かな冷光を浴びると、その蝋細工のような顔が一層白く照らし出された。
ガラス玉のような青い眼がオレを見て、不気味に笑う。
「・・・何だ。まだ完全に殺人鬼には成り得なかったか。」
ニヤニヤとしながら、赤い唇を上へを持ち上げる。
オレは奴を真っ直ぐに睨み返しながら、ギリっと歯を噛み締めた。
ややあって、オレを見ていた奴の眼だけが、ギロリと前に立つキッドへと移った。
「・・・さて、キッド。覚悟はできたか?」
言いながら腕組みをし、ビスク・ドールはその背を壁に預けた。
・・・覚悟? 覚悟って、何の話だ?!
オレは焦ってキッドを見つめた。対して、キッドは慌てても焦りもした様子はない。
「そこの名探偵も、もう立派な殺人鬼としてやっていけることは、先程、実証済みだ。コイツを本当に殺人鬼にして、お前に見せ付けてやるのもそれはそれで面白いとは思っていたんだが。・・・まさか、わざわざここまで来て、ひざまずき、哀願でもするか?」
ビスク・ドールはニヤリと笑う。
「やだね。」
キッドは即答した。眉一つ動かすことなく飄然と。
キッドの返事に、奴は面白そうにガラス玉のような目を煌かせると、へぇ?と先を促した。
「お前にものを頼むなんて真っ平だし、名探偵を殺人鬼にされるのもご免だ。」
自信たっぷりにそう言い返すキッドを見て、ビスク・ドールが肩を震わせて笑った。
「・・・大した奴だ。お前、自分の立場がわかっているのか?」
「わかってるさ。だからこういうことになってるんだろう?」
キッドは面倒臭そうにそう言った。そこには緊張感の欠片もなかった。
「・・・お、おい、キッド?」
オレの知らない間に、まるで、何か取引でも成立してしまっているような会話だ。
思わず口を挟んだオレを、キッドとビスク・ドールが揃って見返した。
ビスク・ドールはオレの顔を見て、その瞳を細めて笑う。嫌な笑いだった。瞬間、鳥肌が立つほどに。
一瞬の沈黙の後、それを破ったのはビスク・ドールの声だった。
「・・・来い、キッド。お前の覚悟を実証してもらうとしようじゃないか!」
腕組みしていた手を解いて、ドアノブのかけると扉を開け、キッドに外へ出るように促す。
ドアの方へ、足を進めたキッドの腕をオレは必死で掴んだ。
「待てよっ!キッドっっ!!どこへ行くんだ?!」
キッドは何も答えない。黙ってオレを見つめるだけだ。
「・・・キッドっっ?!」
答えないキッドの代わりに、ビスク・ドールが赤い唇を動かす。
「キッドはオレのもとへ来る決心を固めたってことさ。
ソイツを証明する為には、コロシの一つでもやってもらうのが一番手っ取り早い方法だ。
一度、コロシをやったらもう戻れないからな。」
「・・・・なっ・・・・!!」
オレは目を見開いて、ビスク・ドールを見返した。
・・・コイツっっ!!
キッドに人殺しをさせる気かっっ?!!
「・・・ダ、ダメだっっ!キッド!!やめろ!そんな要求を呑むことなんてないっ!行くなっ!!キッド!!」
オレは必死でキッドを止めようと、その腕をきつく引き寄せようとしたが、奴はびくとも動かない。それどころか、掴んでいた手すら解かれてしまった。
「・・・キッドっっ!!!」
肩越しに振り返ったキッドは、薄くその顔に笑いを浮かべたのを最後に
そのまま、ビスク・ドールとともに部屋を出て行く。
・・・・そんな・・・・っっっ!!!
こんなのは、嫌だ!!
オレを助けるために、アイツが人殺しになるなんて・・・!!
こんな風に、ビスク・ドールの手に落ちるなんて・・・!!
「キッドーーーーーーっっ!!!」
ドアは無情にもあっけなく閉まり、オレはそのむなしい叫びとともに部屋に取り残されたのだった。