キッドは身を起こした。
まっさきに感じたのは喉の痛みだった。鋭さはない。
腐敗菌が進入した後のような鈍痛だ。
そのくせ熱はない。
その感覚が気のせいかどうか確かめてみようと、キッドはシルクの手袋を取り去ってから左手を己の額に当てた。
瞬間、指先に滲んだのは小さな冷気。
額いっぱいにかいた冷や汗だった。
額から手を離すと、キッドは起き上がる。
白い大きなマントがバサリと音を立てて広がった。
薄暗いコンクリートの塀に囲まれた狭い部屋には、小さな窓が一つ。
そこからは30度に近い陽光が差し込んでいる。
それなのに ―――。
急速に体が冷えていくのをキッドは感じた。
鳥肌が立っている。冷気の芯が体をえぐるように。
体を襲う悪寒に、眩暈までしてくる。
膝が折れそうになるのを、キッドは必死で踏ん張った。
だが、それさえこらえきれば、何とかなりそうだ。
そうキッドは溜息を漏らしながら、昨夜の出来事を頭に思い浮かべていた。
ビスク・ドールの情報を入手する為、昨晩、キッドはラスベガスの街に巣食っている、胡散臭そうな連中との接触を果たした。
ドジったつもりはない。
実際のところ、欲しかったネタはかなり掴んだと言ってもいい。
だが、しかし。
こんなことになるとは―――。
「・・・やれやれ。厄介なことになったなぁ。」
あくまでも茫洋とつぶやいた白い怪盗は、やつれてこそいるものの、相変わらず絶望などまるで浮かべてはいなかったのであった。
+++ +++ +++
『ヴィンセント』という店は、ダウンタウンの外れにあった。
どこか中世を思わせる石造りで、磨り減った石畳の上にひっそりと古風な木の門をかまえている。
堅く閉じられたブラインドによって、店内の様子は外からは窺い知る事はできない。
白いキャップを被った少年を取り囲むように、ガタイのいい男達が立っている。
ホテル・ヴェネチアンから、ほとんど拉致されたような状態でキッドはそこへ来ていた。
男達は門をくぐると、そのままキッドを連れて裏口の方へ回る。
キッドはそれに大人しく従った。
裏手の石の壁に埋め込まれた、重そうな鉄の扉を男の一人が開ける。
ギィという音が響くと扉は内側に開いて、中に長方形の暗黒をのぞかせた。
男達はキッドへ中に入るように促す。
キッドは白い帽子を目深に被りなおすと、唇の端を持ち上げてゆっくりと闇の中へ足を踏み入れた。
僅かな灯りの中に、下へと石段が続いているのが見えた。
男達に続いて、キッドも石段を下りていく。
途中、キッドは左右を見回した。
右側の奥に、古びた鉄の柵があった。
その中には、数体の人の形をしたものが横たわっている。
ずたずたになった衣服から見て、かなり前からそこにいるものと思われた。
生きているのか、死んでいるのか、それさえもわからない。
だが、キッドはそれらを目に入れながらも、何の関心も示さなかった。
やがて行き着いた一つの扉の前で
「ふーん?」
と、そう呟いただけで。
そうして、男達がキッドの前に回りこむと、扉が開かれた。
「珍しいお客だな。」
奥からしわがれた声が響く。 しかも日本語だ。
おや?とキッドは首を傾げた。
「ここを訪れる連中は、途中にいる無残な輩を目にして、たいてい腰を抜かすか、気を失うかのどちらかだが、君はそうはいかなかったらしい。」
声の主は、皮肉っぽい眼差しをキッドへ向けていた。
立派な椅子に深く腰掛けているその男は、灰色の目を細めて笑っている。
キッドも唇の端を持ち上げたまま、真っ直ぐに見返していた。
男は言葉を続けた。
「なに、彼らはいわゆる街のゴミという奴らでね。消えたところで何の支障もない。いや、むしろ、街の犬や鼠は大喜びだろう。」
「それは良かった。」
キッドはにこりとした。
男はそんなキッドに鼻を鳴らして笑う。
「なるほど。あれで驚かんとは大した度胸だし、我々の仲間が君の世話になったようだ。大人しくここへ来たのも、何か目的あってのことなのかな?」
「さすが。話が早くて助かるね。――にしても、ずいぶんと日本語がお上手だ。」
言いながら、キッドは少しキャップの唾を上げる。
キッドの黒曜の瞳が男を映した。
「・・・君が日本人とは部下から聞いていたのでね。日本には仕事の関係でよく出向く。ビジネスで必要だっただけのことだよ。よく言うだろう?遠方からの来客には礼を尽くせと。」
「そりゃ、どーも。 でもあんまり歓迎されてる感じじゃないなぁ。」
「君は本当に物怖じしないな。 何者だ?」
「・・・・ただの一般観光客。」
「最近は、ただの一般観光客でも信用できんな。」
男はそう口元だけで笑って、葉巻に火をつけた。
そして、改めてヴィンセント・エディと名乗った。
この店の経営者であり、このラスベガスの裏の世界を取り仕切る者とも。
「・・・それで、君は何が目的なのかな?」
「ちょっとあるものを探していてね。知ってたら、教えて欲しいなぁと思って。」
キッドは、愛想良くにっこり笑った。
「・・・あるものとは?」
「教えてくれるんなら、話すよ。」
そのキッドの口ぶりに、周りの男達はいっせいに銃口をキッドへ向けるが、ヴィンセントはそれを制した。
「なるほど。欲しいのは情報か。なら、君の度胸に免じて私の知っている事なら教えよう。だが、その前に一つゲームをしないかね?」
「・・・ゲーム?」
キッドが僅かに眉をつり上げたところで、ヴィンセントは部下の一人に命じて何やらケースを持ってこさせた。
ケースの中には、赤いカプセルが2つ入っていた。
「片方は空だ。中身を抜いてある。だが、もう片方には、とあるクスリを仕込んである。いわゆる死に至るというブツだ。」
「・・・つまり、どっちかのカプセルを飲めってこと?」
ヴィンセントは、口から煙を吐くとニヤリと笑った。
「クスリの効果が現れるのは5分後だ。望んでいる情報は、君がこれを飲んだら教えよう。5分後にもし君が無事なら、君の勝ちとなる。欲しい情報を得て、帰るがいい。だが、50%の確立で君は天国行きということだ。」
「・・・・・・ふーん。」
キッドは言いながら、ケースの中を覗き込んだ。
「自分の勝負運の強さを試してみる勇気はあるかな?」
挑発するように灰色の瞳がキッドを射る。
対して、キッドは面白そうに笑い返した。
「・・・いいけどね、別に。ただハズレを飲んじゃったとしても、天国へは行けないと思うなぁ。」
言いながら、キッドは赤い粒の一つを選んでつまみあげると、それをじっと見つめた。
少々往生際が悪いようにも見えたが。
「水が要るかね?」
ヴィンセントがそう訊ねると、
「もう飲んじゃったよ。」
と、優美に口から手を離して、キッドは言った。
キッドがカプセルを飲み下すのをしっかりと見届けてから、ヴィンセントは椅子の背にゆったりと寄りかかる。
「それで・・・。何を知りたいのかな?」
「この街にいるという噂の、ある人物の居場所。」
「・・・・ある人物とは?」
灰色の目がやや細められる。
キッドはその目を見返すと、ニヤリとした。
そして。
「――ビスク・ドール。」
キッドの穏やかな声が響く。
瞬間、部屋の空気が凍りついた。
だが、キッドはかまわずに続けた。
「正確に言うと、ビスク・ドールがこっちに持ち込んでいる『矢車菊の青』っていう、ブルーサファイアを追ってるんだけどね。」
ウインク付きでそう言うキッドに、ヴィンセントは目を見開いて、椅子から立ち上がった。
「・・・貴様っっ!!一体何者だ?!」
十数人いる黒服の男達がいっせいに銃を向けた。
だが、キッドは少しも慌てた風ではなく。
「質問に答えるのは、そっちなんじゃなかったっけ?」
キャップの唾を少し下げて、そう笑った。
するとヴィンセントは、再び椅子に腰掛け直して小さく息を漏らす。
「・・・いいだろう。望んでいるのがビスク・ドールとそのサファイアのありかだというのなら、ここへ来たのはまさに大当たりだな・・・。彼は我々がこの街に招待した。何せ、次の仕事の大事な取引相手なのでね。」
「なるほど。では、ビスク・ドールはここに?」
「いや、ホテルはMGMを用意した。取引はそこで二日後に行われる。それまでは彼もこの街で好きにしていると思うが・・・。」
その答えにキッドは満足そうに頷いた。
だが、逆に部屋中には殺気は満ちてきている。
「まさか、こんな情報を欲しがるヤツがいるとは。もはやただで返すわけには行かないな。」
「約束が違うなぁ。」
と、キッドは疲れたように言った。
次の瞬間。
ガァァァァーン!!と、銃声が響き渡る。
キッドが立っていた場所に、銃弾が打ち込まれたのだ。
逃げる術も時間もなかった。
キッドは立ったままだった。
男達が確実に勝利を意識した時、急激に彼らの視界が白く染まった。
そうして、次に視力が回復した時、彼らが目にしたものは。
石畳の上に佇む白い怪盗の姿だった。
純白のマントをはためかせ、彼は無傷でそこに立っていたのだ。
「・・・か、怪盗キッド・・・!!」
「おや、私をご存知で?」
右目のモノクルを光らせて、キッドはニヤリと笑う。
だが、笑ったのはキッドだけではなかった。
「・・・知っているとも。だが、本当にあのブルーサファイアを追ってここまで来るとは・・・。ビスク・ドールの言ったとおりになったな・・・。」
「・・・・・ヤツが何と?」
「キッドは必ずこの街に現れるから、その時は盛大に歓迎してやってくれと。」
「それはそれは。」
キッドはやや唇を歪めた。
すると、ヴィンセントは手元の時計を見た。
「・・・さて、そろそろ5分経過だ。例のクスリを飲んでいたとすると、そろそろ効果があらわれるころだろう。」
「どんな効果かな?」
キッドは小首を傾げた。
「そうだな。まず、急速に体温が低下し、呼吸困難になる。」
「ほう。」
キッドの全身が不意に強張った。
「次に、心臓に強烈な痛みが走る。優秀な医者が今すぐ手当てをすれば、どうにか対処できるかもしれんが、もう間に合うまい。―――後は、平凡な死者と同じだ。」
キッドはもう石畳の上に伏していた。
僅かに瞼が痙攣しているが、すでに意識はない。
「What do
you do? Boss?」
(どうなさいますか?ボス)
倒れ伏している白い怪盗の周りに男達が集まり、その中の一人がそう振り返った。
「First of
all, take it underground.Even a body will be a present to the fellow.」
(とりあえず、地下へ連れて行け。死体でも奴には手土産になるだろう。)
言いながらヴィンセントは再び葉巻に火をつけると、ふぅっと白い煙を吐いた。
「It
agreed.」
(承知いたしました。)
部下の一人がそううやうやしく礼をすると、また別の一人がキッドを肩に担ぎ上げ、悠々と部屋を出て行く。
部下達が全員、出払うのを見届けてから、ヴィンセントはケースに残った赤いカプセルを見つめた。
そして、それをつまみあげると、部屋の脇に置いてある水槽の中にポチャンと落とした。
水槽には、カラフルな魚達が泳ぎまわっている。
そうして、彼はその部屋を後にした。
その五分後。
誰もいなくなった暗闇の中、水槽には無残な魚の死体が浮いていたのだった。
To be continued
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