その日は朝から雨だった。
家の中にいれば、雨音そのものさえ聞こえないほどの。
食卓用のテーブルに頬杖をついたまま、オレは窓の向こうの景色に何気なく目をやろうとして、その窓に映った自分の顔をふと見つめた。
窓についている雨の雫が重なって、まるでオレ自身がずぶぬれのように見える。
ふと。
数ヶ月前、沈み行く船の上で起こったある事件のことを思い出した。
殺人予告とキッドの予告がバッティングした例の事件だ。
あの事件は頭脳労働というよりは、はっきりいって体力勝負のようなもので。
・・・・・・あの時は本当に死ぬかと思ったぜ。
ったく、それというのも全部あの気障な怪盗のせいじゃねーかよ!!
事件をさんざん引っ掻き回したあげく、オレのくちび・・・っっ!!
オレは、頬を支えていた手を少し移動して、唇へと乗せた。
・・・のヤロー、今度会ったらぶっ飛ばす!・・って言っても、あれきり音沙汰ねーけど。
窓にいくつもついている水滴が、やがてガラスを伝って流れていく。
繰り返し起こるそれをオレは何とはなしに、ただ、じっと見つめていた。
そして、窓に映る自分の唇を見ながら、指でそっと触れてみる。
・・・人間の唇って柔らかいんだなぁ・・・。男も女も一緒なんだ。
・・・・・・いや、当たり前だけど。
・・・それに。水の中だったのに、アイツの唇はなんか温かかった気がしたな・・・。
「何してるの?」
突然、かけられた声にオレはあせりまくって、思わずテーブルについていたひじがズルっと落ちる。
「なっ、なっ、なっ、何だよ?!灰原っっ!!お前いつからそこにっ?!」
慌てふためくオレをよそに、灰原はテーブルの上にトレイをのせた。
トレイの上にはオレの朝昼兼用の食事用として用意してくれたベーグル・サンドとコーヒー。
彼女はそれらをオレの前に置きながら、平然と答えた。
「・・・さっきから、ずっといたわよ?気が付かない貴方の方がどうかしてるんじゃない?」
・・・・・・さ、さっきからずっと?
「・・・だったら、もっと早く、声かけろよ?」
すると、灰原はクスっと笑って。
「あら。だって貴方ときたら、唇をつきだして何かを考えているようだったから・・・。」
・・・うるせーな!細かいトコ、イチイチ見てんじゃねーよ!
オレはそう思いながら、乱暴にカップを取ってコーヒーを口に運ぶ。
かなり熱めの液体が一気に喉に流れ込んで、ちょっと苦しかったが。
灰原はそんなオレを見やり、またまた嫌な笑いを浮かべると、信じられない事を言いやがった。
「まるで、誰かとキスしてるみたいな顔だったわよ?」
ゴホゴホゴホっっっ!!!!
とたんにオレはむせ返った。
「ばっ、ばーろーっっ!!何言ってやがるっっ!!」
思わず吹き出たコーヒーを慌てて手で拭いながら、ギっと灰原へ目を向いた。
「・・・それとも、誰かとのキスを思い出している・・・って感じだったかしら?」
「だっ、だっ、誰がアイツなんかのことを!!だ、大体、あれはキスなんかじゃ・・!!」
と、ここまで口走ってしまってから、ようやくオレは、はっとした。
見ると、灰原とばっちりと目が合う。
な、何言ってるんだ〜〜〜っっっ!!オレはっっ!!
体中の血が逆流するような感覚に襲われ、ガタンと椅子から立ち上がる。
「・・・あら、食べないの?このベーグル、本当は博士の今日のおやつように買ったものだったのよ?貴方が朝から何も食べてないって言うから、博士に無理を言ってもらったものなのに。」
・・・・・。
いや、確かに、ハラは減ってるから、食べたい・・・・けど。
オレは仕方なく、コホンと咳払いをした後、大人しく席についた。
灰原がにっこり笑っているのが、かなり気にいらなかったが。
・・・・・・それにしても。
博士が食べたかったというカマンベール・チーズがサンドされてるベーグルは、思ったより少しかたくて、食べるのにやけに時間がかかる。
オレとしては、一刻も早くこの場から立ち去りたいのに、
このベーグルが灰原とグルになって妨害しようとしてるしか、思えなかった。
□ □ □
夕方、急な連絡が警部から入って、オレはとある事件現場に向かう事になった。
幸いな事に朝から降り続いていた雨は、その頃には上がっていて。
外は湿気を帯びた土の匂いが立ち込めているだけだった。
事件が解決したのはもう月が空高く上った頃。
自宅まで送ってくれると言ってくれた高木刑事を断って、オレは杯戸シティホテルに立ち寄っていた。
別に意味なんかなかったけど。
たまたま今日の現場が近かったのと、アイツと最初に会ったのがここだったことを思い出して、何気なく足が向いただけ。
久々に訪れた屋上はあの頃とまったく変わっていなかった。
あの頃、オレは『コナン』で、今と目線の高さは違うけど。
少し離れたところに光の落ちた米花博物館も見えるその景色は同じで。
思えば、最初っから気に入らなかったんだよな!
追い詰めてやるつもりが、うまいように踊らされてしまった。
しかも極め付きが、あのムカツク捨て台詞!
・・・けど、アイツもオレと同じ組織を追っているとはね。
妙なトコでつながってるもんだよな・・・。
そう思ってふと空を仰いだとき、白い大きな鳥が羽ばたいてるのが見えた。
・・・キ、キッドっっ?!
何で?
「キッドっ!!」
オレのその叫びがヤツに届いたのかどうかは知らないが、鳥はゆっくりと高度を下げそのまま屋上の給水タンクの上に、音もなく舞い降りた。
そのまま優雅な動作で翼をしまうと、オレの方へと視線を投げた。
月を背に立っているヤツの顔は、逆光でオレの位置からは良く見えないけど。
「・・・こんばんわ、名探偵。こんなところで何をしておられるのです?」
相変わらずな気障な台詞も、今となっては人を小ばかにしてるとしか思えない。
「そりゃこっちの台詞!お前こそ今日は仕事じゃなかったはずだろ?
・・・・・・もしかして、予告状でも出しに行くトコだったとか?」
すると、キッドは唇の端を持ち上げて。
「・・・まぁ、そんなところです。」
そう目を細めて笑った。
その不敵な笑いを見ながら、オレはこないだからずっと抱えていた怒りを思い出した。
「・・・・てっめぇ、こないだはよくも〜〜〜っっ!!」
「こないだ?ああ、大田原組社長のダイヤの時ですか。あの時は参りましたねぇ。
私もあのまま船に取り残されたら、どうしようかと思いましたよ。」
キッドはワザとらしくリアクション付きで言ってのける。
てめー、フザケてんじゃねーぞっ?!
「オメー、いい加減にやめろっ!!その言葉遣い!!エセ紳士のくせにっっ!!」
オレがそう怒鳴ると、キッドはクスリと笑い、給水タンクの上からフワリと舞う。
白いマントが大きく広がって、オレの視界を遮ると思うと
次の瞬間、もうヤツは目の前にいた。
そして、右目のモノクルを反射させて、いつもの人を食った笑みを浮かべる。
「・・・エセ紳士はヒドイんじゃねーの?名探偵?」
「ほ、ほんとのことだろっ!!」
そう言ってやると、やつはふ〜ん?とニヤニヤと笑った。
「・・・で、ほんとに名探偵はこんなトコで何をしてたワケ?
まさか、オレがここに来ることを読んでたなんてことありえないし?」
キッドがオレの顔を覗き込む。
確かに。
今日は予告状が出ていたわけでもないし、今、コイツと会ってるのはほんの偶然だ。
「たまたまだよ。この近くで事件があって。ちょっと、立ち寄ってみただけさ。」
すると、キッドはますますニヤニヤして見せる。
「・・・・・・へぇ?もしかしてオレとの初対面を思い出しちゃったりして?」
!!なっ!
「バ、バーローッ!!何言ってんだ?!誰もお前のことなんかっっ!!」
オレがそう慌てて反論すると、キッドは声を立てて笑い、結果オレはますます声を荒立てる事なった。
ひとしきり笑った後、キッドは涙目でオレを振り返った。
「冗談だよ。名探偵。マジで怒んなって!」
・・・・てめー、アレだけ笑っておいてよくもそんなこと、言えるな!!
と、まぁまぁとオレをなだめようと、キッドの手がふいにオレの方へ近づいた。
「!!」
オレはビクリと体を震わせて、思わず後ずさる。
それを見て、キッドがおや?と首を傾げた。
・・・というか。
オレの方こそ、何でそんな行動をしてしまったのか、わからない。
な、何だよ!
どうしたんだ?オレっっ!!
すると、そんなオレをキッドはふふんと鼻で笑い、今度はオレに逃げを与える間もなく手を伸ばし、オレの腕を引き寄せた。
「・・・っっつ!な、何しやがるっっ!!」
さっきよりも接近したキッドの顔。
ヤツは唇を持ち上げて、いつものようにヤツ特有の笑いをうかべているように見えた。
が。
その目はちっとも笑ってなんかいなかった。
・・・・キッド?
「何、動揺してるのかな?名探偵?・・もしかして、またキスしてほしいとか?」
「何言って・・・っっ!!」
「・・・してやろうか?」
「ふざけんなっ!!離せ!!」
振りほどこうとしても、ヤツの腕はビクともしない。
ならば!と、思って繰り出した右足も軽くかわされてしまった。
キッドはフッと唇だけで笑うと、掴んでいるオレの腕をさらに強引に引き寄せられる。
急激に迫るキッドの顔。
オレはこれ以上の正視は耐えられなくて、ぎゅっと両目をつぶった。
「・・・冗談だってば。・・・何、名探偵、まさかオレの事、好きなわけ?」
キッドの顔が間近でそうオレを覗き込んだ。
オレはその言葉に目を見開く。
・・・・・・・オレが・・・?!
・・・・・・・キッドを?
バキッ!!
今度こそ、オレの右足はキッドの腹に命中した。
「ふざけたこと言ってんじゃねーっっ!!」
オレの怒声が屋上に木霊する。
キッドはオレの蹴りを受けて、そのまま数メートル、ジャンプして後退した。
腹を抱えて俯いたまま。
・・・?
何だよ?確かに痛いようには蹴ってるけど、そんな痛がる程でもないだろ?
いや、もしかして!!
まさか、腹に傷でもあったのか?!
組織に追われてるキッドに怪我が絶えないことくらい、あの弾痕だらけの体を見れば見当がつく。
「お、おい!!キッド!お前、まさかまたケガでも・・・っ!」
すると、キッドはまるでなんでもなかったように顔を上げて、オレを見る。
その目は先程とはうって変わって、氷のように冷たいものだった。
「・・・・・・ケガ?ケガなんてしてないぜ?おヤサシイね、名探偵。
オレの心配までしてくれちゃって。」
・・・何だよ、その言い草はっ!
ギリっとオレが目を向いて睨むと、キッドは冷笑した。
「人のことより、自分の心配をしたらどうだ?かなりヤバイ奴らを敵に回したことをもう少し自覚した方がいいぜ?名探偵。
次にオレが助けてやれる保証なんて、どこにもないんだからな!」
「いつ、オレがお前に助けて欲しいなんて言ったんだよっっ!なめんじゃねー!!」
オレも感情に任せて怒鳴り散らす。
むかつきながら奴の顔を睨むと、キッドはその眼をすっと伏せた。
・・・?
何だ?コイツ、やっぱいつもと違う。
クソ生意気なトコはいつもと一緒だけど、今日のはなんだか度が過ぎてる気もするし。
何か、変だ。
キッドはそれからは何も口を利かず、しばらく月を見つめていた。
やや沈黙の後に、オレを振り返る。
「・・・もう遅い。今日は早く帰れ!」
それだけ言うと、唐突にキッドはビルの上からその身を投げた。
「キッ・・・・!!」
差し伸べたオレの手は、空を切って。
屋上には再び、オレ一人となった。
辺りを静寂が包み、さっきまでアイツがいたことなんてウソみたいに。
・・・何だよ、アイツ。わけわかんねーよ。
今までとは、なんだか別人のようなキッド。
『今まで』?
もともとそんなにアイツのことなんて、知らねーけどさ。
でも。
今日のアイツ、なんか機嫌が悪かったような気がする。
・・・って、もしかして、オレ、やつ当たりされたのかっ!?
・・・・・・やっぱ、ぜってー、アイツむかつく!!
オレは鼻息あらく、屋上を後にした。
もう二度と、このホテルの屋上には来るまいと誓って。